第6章 留学生たちとの出会い

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第1話 留学生第1号はシマブク先生
第2話 東南アジアの発展途上国との交流
第3話 周産期医学が国際交流センターの主題に
第4話 東南アジア各国から留学生が神戸に
第5話 留学生が神戸の研究を支えてくれた


 第1話 留学生第1号はシマブク先生

 ある日、大学の事務から、ペルーのDr. Roberto Shimabuku(シマブク)が文部省の給費留学生として神戸大学の小児科を志望しているが、受けいれてよろしいかとの問い合わせがありました。

6つ子騒動も終わり、しばらくした頃です。新生児学が志望ということで、私がチューター役を引き受けることになりました。

彼が神戸に来てしばらくした時に、UBアナライザーの試作器が届き、一緒にデータ集めをしました。彼と連名で作成した「Total and unbound bilirubin determination using an automated peroxidase micromethod. Shimabuku R, Nakamura H. Kobe J Med Sci. 1982」は、私にとって思い出に残る代表的な論文です。

彼は、その名前からわかるように、日系3世のペルー人で、風貌は沖縄県人のようですが、スペイン語が母国語であり、日本語は辿々しく、英語もお互いにほどほど、時々イライラすることもありました。彼の方がもっと我慢に我慢を重ねていたように思います。

1952年生まれの彼は、お酒をよく嗜む方で、同世代の医師たちと居酒屋によく通っていました。

日本語もメキメキと上達し、数年後には同じ小児科医である奥様のG.Nakachi先生が神戸に来られ、村上龍助先生のもとで栄養学の研究をされました。

彼女は、来日前にはアメリカに留学されており、英語が大変堪能で、Roberto Shimabuku先生の英文論文が次々と仕上がっていきました。

彼は、1983年に学位論文を仕上げ、翌1984年に、母国ペルーのリマ大学Universidad Nacional Mayor de San Marcosの小児科に戻り、その後、教授に昇任しました。

日本とペルーとの国交130周年の2003年には、リマにお招きいただき、久方ぶりにご夫妻とお会いしました。 トップへ

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 第2話 東南アジアの発展途上国との交流

1979年に、医学研究国際交流センターが、ウイルス学の堀田進教授のご努力で医学部付属施設として設立され、そのプロジェクトは、東南アジアの発展途上国を対象にした熱帯感染症が中心でした。

センター発足当初から、臨床医学では周産期医学への現地からのニーズが大きく、また、大学の同期の森英樹君がこのプロジェクトに関係していたこともあり、私も誘われました。

岩井誠三先生や産婦人科の望月真人先生、森川肇先生らと一緒にインドネシア、シンガポール、フィリピンによく行きました。

ネパールの父と呼ばれていた岩村昇先生ともご一緒しました。

長年ネパールの山村で暮らした実績のある岩村先生曰く、「私の肝臓には、あらゆる寄生虫が住み着いているのですよ!」と誇らしく話され、選ばれる宿舎も蚊がブンブン飛び回るような安宿でした。   トップへ

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第3話 周産期医学が国際交流センターの主題に

1982年からは、現地からの要請もあり、周産期医学が中心課題となりました。

ジャワ島の中央部にあるガジャマダ大学を中心に、インドネシア国との交流が活発化しました。

毎年、インドネシアからは、複数名の留学生が大学院生として神戸に来ていました。最初の留学生は、Dr. Achamad Surjonoで、私と一緒にアンバウンド・ビリルビンの研究を行い、神戸大学小児科からの医学博士号取得の外国人第1号となりました。

彼は、その後も度々日本を訪れ、日本の学会にも出席し、多くの日本人新生児研究者とも親しくなっていました。

新生児栄養学を専門にしている村上龍助先生は、留学生たちから大変人気がありました。スイスのバーゼル大学に留学していた彼の体験が、役立っていたように思います。

Dr. Dradjat Boedimanは、彼の論文指導により学位を取得しています。 トップへ

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第4話 東南アジア各国から留学生が神戸に

1980年代も半ばに入ると、日本の新生児医療の進歩は海外でも知られるようになっており、国際交流センターと関係なく、文部省やJSPSなどの奨学金を取得して、東南アジア各国の留学生が神戸にやってきました。

因みに、私の教授在任中の学位取得者には、Sunartini Iman(児玉先生指導)、許大康(上谷先生指導)、劉亜梅(和田先生指導)、Purunomo Sryantoro(松尾先生指導)、Pokharel Rameshwar Prasad(高田先生指導)、黄守青(米谷先生指導)、朴金花、張愛華(吉川先生指導)の7名がおられます。

いずれの方々も、自国に戻り、教授職をはじめとするいろんな要職に就き、活躍しておられます。

これらの方以外に、元フィリッピン大学学長、国際小児科学会会長のPerla Santos-Ocampo小児科教授のもとで、当時小児科講師をされていたDr. Carmencita D. PadillaやDr. Cifraをはじめ、フィリピンからも留学生が多数来られています。

Dr. Padillaは、2014年からフィリッピン大学学長をされていました。

バングラデッシュやシンガポール、韓国、台湾からも来られていました。 トップへ

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第5話 留学生が神戸の研究を支えてくれた

一緒に研究していた留学生のことを今改めて思い浮かべると、自分がパリ大学に留学していた当時と重なってきます。

パリ大学のラボであるのに、フランス語でなく、スペイン語が響き渡っていました。一時、神戸でも同じ現象が起こっていました。医局、研究室から聞こえてくるのは、ある時はインドネシア語であり、またある時は中国語です。英語が聞こえてくることはありませんでした。

全国的な小児科医不足の中で、彼ら留学生たちが神戸の小児科学研究を支えてくれていました。

彼らは、神戸の生活によく溶け込んでくれ、医局での宴会や、個別にもよく若手医師や看護師たちと三宮の繁華街に繰り出していました。

その後、国際交流を目的に講演を依頼され、彼らの母国に招かれて行きました。

ガジャマダ大学では毎年のように国際会議が開催され、新しいスタッフとご一緒するたびに、近くにあるボロブドール遺跡に行ったのを懐かしく思い出します。

私が定年を迎える頃には、これらの発展途上国といわれていた国々も飛躍的な発展を遂げており、日本との差を感じなくなりました。

私のパリ大学での経験が、少しでも彼らの役に立てていたならば幸いです。(2021.10.30)     トップへ

人生のターニングポイント

回想記を書き始めていると、いろんなことに気づきます。

幼い頃の記憶は、当時の光景や友達の声まで聞こえてくるのですが、ある年齢を過ぎてからは、記憶というよりも何かメモ書きの記録を見ているような気がします。

ゆったりとした時間の流れの中で過ごしていた若かりし頃の記憶には、1年1年の区切りが鮮明です。年齢が進むにつれて、1年と1年の間が狭くなっていくため、いろんな出来事の前後関係がはっきりしません。

まるで、人生の時間軸の目盛りの幅が、年齢とともに指数関数的に狭くなっていくようです。

目盛りの幅が急に狭くなったと感じる時が、人生のターニングポイントのようです。人により違うとは思いますが、40代から50代にかけての頃でしょうか。

昔、「窓際族」と言う言葉が流行ったことがあります。ちょうどその頃、私たち世代が、その年齢に達しており、後輩たちがてきぱきと仕事をしてしまうので、自分たちの存在感が薄れかけていた時です。同期の児玉君が「僕たち、窓際族だね」と、医局の窓際に立ち、外の夕日を見ながら、呟いてきたのを思い出します。

その後、あの阪神大震災をきっかけに、全てが新しい人生に切り替わりました。

歳が進むにつれ、管理職の仕事が増え、自分の自由になる時間がなくなりました。毎日が慌ただしく過ぎ去っていくだけです。心の癒しは海外出張でした。日本を離れた途端にリラックスし、一週間ほどで元気を回復して日本に戻ると、再び同じ生活の繰り返しです。しかし、定年を迎える頃には、これも叶わず、インターネットの発達でどこまでも追いかけられる生活となっていました。

70歳を過ぎ、第一線の仕事から次第に離れていくうちに、時間な余裕ができ、再び自分を取り戻した感じがします。面白いのは、これまでの職場での付き合いから、幼なじみや中高の友達との交流が深まったことです。

これは私だけでなく、私と同級生もそのようです。生活環境や身体的能力もからみても、その方がお互い気が休まるのかもしれません。何だか、時計の針が逆向きに進み出したようです。

2021.10.23.

第4章 核黄疸物語 アンバウンド・ビリルビン研究あれこれ

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第1話 「核黄疸」、「アンバウンド・ビリルビン」とは
第2話 高精度のUB測定法を発明
第3話 アローズ社生越義昌社長との出会い 
第4話 UBアナライザーが世の認知を受けるために 
第5話 聴性脳幹反応(ABR)が核黄疸の客観的指標に
第6話 いよいよ国際的な桧舞台に、初めての渡米
第7話 核黄疸シンポジウムへの参加が私の年中行事に
第8話 UBアナライザーが米国FDAで、国内でも認可される
第9話 日本で国際核黄疸シンポジウム
第10話 私のUB研究活動はひと段落
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「核黄疸」、「アンバウンド・ビリルビン(UB)」は、私のライフワーク、生涯を通じての医学研究のテーマです。医学的な話ではなく、私の過ごしてきた研究生活の日々を振り返って、お話ししたいと思います。

第1話 「核黄疸」、「アンバウンド・ビリルビン」とは

「核黄疸」、「アンバウンド・ビリルビン」と言っても、小児科医以外のドクターには馴染みがないと思いますので、最初に少し赤ちゃんの黄疸と「核黄疸」・「アンバウンド・ビリルビン」について説明します。

ここでは、いろんな医学用語が出てきますが、適当に読み飛ばして下さい。

核黄疸:赤ちゃんの黄疸が脳性麻痺の原因に

赤ちゃんは生まれて2〜3日すると、全身の皮膚が黄ばんできますが、これを黄疸と言い、この黄色くなる元が胆汁色素、ビリルビンという物質です。

たいていの赤ちゃんは、1週間もしないうちに自然に消えますが、黄疸が強くなりすぎると、脳への障害を引き起こします。

このビリルビンによる脳への障害を、核黄疸と呼んでいます。核というのは、脳内で神経細胞が密集しているところ、脳神経核のことです。

ビリルビンで脳神経核が黄染されると、脳細胞が傷害され、死亡、脳性麻痺の原因となります。

私が小児科医となった1965年当時は、この核黄疸は新生児脳障害の3大原因のひとつに挙げられ、新生児学の大きな課題でした。 

アンバウンド・ビリルビン(UB)とは

血液中のビリルビンは、大半がアルブミン蛋白に結合した状態で存在し、ビリルビンが脳内に移行することはありません。

新生児においては黄疸が強まり、血液中のアルブミン蛋白が少ないと、アルブミンに結合できないビリルビン、すなわち、アルブミン非結合型ビリルビンが増加した状態となり、ビリルビンが脳細胞内へ容易に移行し、毒性を発揮します。

このアルブミン非結合型ビリルビンのことを、アンバウンド・ビリルビン(Unbound Bilirubin、略してUB)と呼んでいます。



このごく微量の血液中に存在するUBの値を測定できれば、早期に交換輸血療法を行い、脳障害を予防できるのです。

私が、パリ大学で行なっていた研究は、この新生児の血液中のUB値を測定する研究で、当時として最先端技術であったセファデックス・カラムを用いての方法でした。

この方法は、基礎研究には有用なのですが、1回の測定に0.5 mLという新生児にとっては大量の血清を必要とするため、赤ちゃんにとっての負担が大きく、日常診療でルーチンに行うには不適でした。トップへ

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第2話 高精度のUB測定法を発明

帰国の話がまとまった1972年の春に、デンマークから過酸化水素とペルオキシダーゼ酵素を用いた新しいUB測定法の論文が発表され、ボスのDr. Lardinoisが私に手渡してくれました。

読み終わるや、これはいけると直感的に思いましたが、もう帰国まで十分な時間がありません。

神戸に戻り、早々に原法通りに実験を開始したのですが、試薬の調整が難しく、なかなか精度の良い測定ができずに悩んでいました。

高精度のアンバウンド・ビリルビン(UB)測定法発明のきっかけ

当時、新生児病棟では、新生児の足底を針先で穿刺し、出てくる僅かな血液を、テステープという試験紙に吸わせて、新生児の血糖値を測っていました。

このテステープの原理は、ブドウ糖にブドウ糖酸化酵素を加えたときに発生する過酸化水素の産生量を、血糖値として測定していることに気づきました。

いろいろと試行錯誤しながら、加えるブドウ糖とブドウ糖酸化酵素の量を加減し、ビリルビンの分解速度を測定しました。

この反応は極めて高速で、1分以内に主な反応が終了するという厄介なものでした。

反応速度は、周囲の温度環境に大きく左右されることも分かりました。当時の研究室には、まだ空調設備がなく、冬季にはガスストーブで暖をとれますが、夏の間は室温が高すぎて実験できません。10月頃まで実験は夏休みです。

レコーダー付きの分光光度計は高価で、医学部の共同研究館にしかなく、昼間は利用者が多く、私自身も病棟業務がありましたので、実験はもっぱら夜間に行いました。

ストーブを燃やし続け、室温を摂氏25度にできるだけ保ちながらの実験です。

「GOD-PODによるアンバウンド・ビリルビン微量測定法」として論文発表

基礎実験は私が行い、臨床検体での実験は李容桂先生が担当し、ようやく納得のいくデータが得られ、「GOD-PODによるアンバウンド微量測定法」として1977年の臨床生化学雑誌CCAに投稿し、受理されました。

しかし、この測定法を臨床応用するには、自動化しないと再現性のある安定したデータを得ることができないと分かっていましたので、共同開発して貰える測定機器メーカーが見つかるまで、しばらく様子をみることにしました。

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第3話 アローズ社生越義昌社長との出会い 

いくつかの医療機器メーカーの方と話はするのですが、中々取り合ってもらえず、途方に暮れていたところへ、1980年のある日、同じ神戸大学の第1外科の広本秀治講師から、光学医療機器のベンチャー企業を立ち上げられた、大阪にあるアローズ社の生越義昌社長を紹介されました。

私の開発した測定法は、酵素反応に関する生化学知識がないと理解できない少し難解な原理に基づいており、これまでこの点をうまく理解してもらえなかったのですが、生越氏は私の話をすぐに理解し、大いなる関心を示してくれました。

私のCCAの論文とBrodersenらの原著論文を手渡して、検討して頂けることになりました。

あっという間にプロトタイプの測定器が

生越氏は、島津製作所の研究室で光学機器の開発に当たっておられたことから、私の話を一度聞いただけで、あっという間にプロトタイプの測定器を大学の研究室に持ち込んで来られました。

これまで大型の分光光度計で測定していたのが、小型で、しかも2波長同時測定可能な機器なのです。レコーダーにアウトプットすると、見事に酵素反応に伴う吸光度の変化が描出されていくのです。

まさに、私が求めていた機器そのものです。

何しろ、GOD-POD反応というのは、反応が極めて早く、30秒以内での測定が勝負です。

試薬を入れた後の攪拌操作が影響します。しかも、温度にも大きく依存しています。

検体量も25μLという微量での測定が求められます。

これらの問題をクリアするため、反応槽の温度を一定に保つための装置が取り付けられ、また反応槽に試薬を入れると自動的に攪拌される装置も取り付けられ、半年もしないうちに再現性の良いデータを得ることができるようになりました。

生越氏は、私と同年齢で、思い付けば直ぐに動くという性格的に相通ずるものがあったように思います。

私も彼のスピードに追いつかねばと、休日にはアローズ社のラボを訪れ、2人だけで1日中実験を繰り返していた当時を懐かしく思い出します。

人工黄疸血清や新生児黄疸血清での基礎実験

半自動化した測定装置は、UBアナライザーと名付けられました。この新しい測定機器を用いて、人工黄疸血清や新生児黄疸血清のUB測定を開始しました。

ペルーからの国費留学生で、大学院生のロベルト・シマブク君と一緒に基礎実験を繰り返し、納得のいくデータが得られました。

その成果を、国際雑誌に投稿を試みたのですが、それまで一度も国際学会で発表したこともなく、全く相手にされませんでした。ようやく神戸大学医学部紀要の英文誌Kobe J. Med. Sci. の1982年4月号に発表することができました。

UBアナライザーUA-1として製品化 

アローズ社は、2年も経たないうちに、UBアナライザーUA-1として製品化し、神戸大学附属病院未熟児室と国立小児病院新生児科の内藤達男部長の元で、臨床試験を行い、1982年に厚生省から製造承認と製造業許可を得ました。トップへ

UBアナライザーUA-1

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第4話 UBアナライザーが世の認知を受けるために 

日本国内でUB測定を臨床検査として用いるには、厚生省の認可が必要です。何しろ、UB測定は世界で初めての試みですから、国内でいきなり申請しても却下されるのが目に見えていました。

この事業拡大には、欧米での市場開発・認可がまず必要だという考えを、私も生越氏も持っていました。

何事にも積極的な生越氏は、1982年にドイツのデュセルドルフで行われた医療機器展示会(MEDICA82)に出展しました。

この時に、本器が新生児黄疸研究者として世界的に高名なBallowitz教授の目に止まり、早速彼女の研究室で測定試験が実施され、高い評価を得ることができ、我々の大いなる自信となりました。

ニューヨーク州立大学でUBアナライザーの臨床試験

UBアナライザーが世界で注目されるようになった、一番の恩人はニューヨーク州立大学のAudrey K Brown教授です。

当時の米国では新生児黄疸に対する関心は高く、Brown教授らはヘマトフロロメトリー法を用いて遊離ビリルビン(UB)測定の研究を実施中でしたが、もうひとつ安定した結果が得られず、困っておられました。

そのBrown教授にUBアナライザーを1983年に紹介して下さったのが、岡山国立病院の山内逸郎先生です。

山内逸郎先生は、経皮ビリルビン測定器を開発され、すでに米国の小児科学会でも発表され、Brown教授とは大変親しくされておられました。

Audrey K Brown教授らが測定結果に高い評価を

早速、UBアナライザーがBrown教授のラボに持ち込まれ、臨床試験が行われ、高い評価を与えられました。当時留学中であった山内芳忠先生がUBアナライザーの臨床試験に立ち会ったと後に伺いました。

さらに、米国内での核黄疸研究の第一人者であるPennsylvania大学Louis Johnson教授の元でも臨床試験が行われ、同様の高い評価が得られ、あっという間にアメリカの黄疸研究者の間で、UBアナライザーが注目されるようになったのです。

国内でも多施設共同研究

国内でも、1982年10月から、UBアナライザーUA-1を用いて、「極小未熟児を対象としたUB測定の臨床的評価」の多施設共同研究を始めました。

神戸大学小児科関連施設だけでなく、国立小児病院内藤達男先生や淀川キリスト教病院船戸正久先生らにも参加していただき、1年3か月の間に192例の極小未熟児についてUB測定を行ないました。

その中には、死亡例43例が含まれ、剖検により6例で核黄疸を認めました。6例中5例は、血清総ビリルビン(TB)値が12.5 mg/dL未満という低い値でしたが、血清UB値は1.0 μg/dL以上という異常高値を示した児が3例も含まれていました。

この結果は、核黄疸の臨床的指標として、TB単独測定よりもUB測定がより有用であることを示唆するデータとして、日本小児科学会雑誌に掲載されました。トップへ

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第5話 聴性脳幹反応(ABR)が核黄疸の客観的指標に

極小未熟児を対象としたUB測定の臨床的研究では、その有用性が認められたものの、核黄疸の臨床的評価そのものに主治医の主観的判断が入り、明白な客観性に欠けることから、なかなか海外の雑誌には受理されません。

1982年の夏のある日、「新生児高ビリルビン血症児で交換輸血をするとABRが改善」という論文を見つけました。

ABRとは、Auditory Brainstem Responses(聴性脳幹反応)の略で、いろんな周波数の音を新生児に聴かせて、その時の脳波の変化を観察し、異常を発見する検査法です。

早速、当時新生児脳波の研究をされていた和田博子先生にABR検査手技について指導を受けました。

当時はまだ、ABO血液型不適合やRhE不適合による高ビリルビン血症例が数多く入院しており、月に1〜2回は交換輸血療法を行なっていました。

交換輸血療法の前後でABR所見を比べてみると、どの症例も術後12時間でABRの異常所見が見事に改善しており、しかもその変化はTB値よりもUB値に、より関連していることが確認されました。

ABRがUB測定の臨床的有用性の決め手に

十分な手応えを掴んだところで、高槻病院で小児神経学を専門にしておられた根岸宏邦先生らの協力を得て、わずか半年足らずの間に、50例以上の正期産の新生児高ビリルビン血症例が集まり、黄疸の程度とABRの異常との関連性を調べることができました。

その結果は、予想通りに、ABRの異常は、血清TB値よりも血清UB値により強い関連性があることを証明できました。

今回の事実は、UBの有用性を証明上での大きな自信となりました。トップへ

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第6話 いよいよ国際的な桧舞台に、初めての渡米

早速論文としてまとめるとともに、1984年春のアメリカ小児科学会での発表を目指して、準備にかかりました。

「Auditory Nerve and Brainstem Responses in Newborn infants with Hyperbilirubinemia」という演題名で、Audrey K Brown教授にスポンサーになって頂き応募したところ、なんとPlatform sessionでの発表に選ばれたのです。

私は、パリに2年半ほど留学していましたので、フランス語は話せたのですが、英会話はどうも苦手でした。英語でのプレゼンテーション力を高めようと、夏休みを利用して、2週間余り三宮にあるECC英会話教室の全日コースに通い、英会話の特訓を受けました。

(この年は、息子の大学受験年に当たり、家族旅行の予定もなかったので。)

スタンフォード大学で学会発表のリハーサル

未だ未だ、英語に対する不安がありましたので、少し早めの4月半ばに渡米し、先ずはスタンフォード大学のDavid Stevenson先生のところで、第1回目のリハーサルを行いました。

論文のロジックは簡明なもので、結論も極めてクリアでしたので、スライドだけで、その内容はよく理解されたようでした。しかし、いろんな質問を次々と浴びせかけられ、質問の意味がよく理解できず、立ち往生することがしばしばありました。

でも、Stevenson先生らは大変辛抱強く耳を傾け、私の意図を解し、発表原稿をより良い表現に直して下さいました。

幸い、アローズ社の現地代理人、天野満也氏がサンフランシスコ在住で、ご一緒していたので、私の理解不足のところをうまくフォローして頂き、大いに助かりました。

彼は、Brown教授とも度々会われており、アメリカにおけるUBアナライザーに関する状況を私に語ってくれました。

Brown教授と初めてお会いして

2日間のスタンフォード滞在の後、いよいよニューヨーク州立大学のBrown教授と初めてお会いすることになります。

アメリカ大陸を横断し、夕刻にケネディー空港に到着すると、何とBrown教授自らのお迎えで恐縮しました。

 

よく記憶していないですが、当日はマンハッタンのホテルに宿をとり、Brownファミリー10名近くの人たちと一緒に、ディナーをご馳走になりました。

メニューを見せられても、オーダーの仕方もわからず、肯いてばかりいると、びっくりするような大きなステーキが出てきました。

何とか、平らげたのですが、最後に出てきたお皿いっぱいに盛られたアイスクリームには閉口しました。驚いたのは、皆さんがそのアイスクリームを平気で食べてしまわれたことです。

アメリカ人は食事中に実によく喋ります。しかも、話題が次々と飛び、ジョークが多いので、全くついていけません。私には皆さんゆっくり話しては下さいますが、話題のテーマか何かわからないと、推測するにも本当に疲れます。

でも、パリでの経験から、仕事以外の場で、相手の言うことがよく理解できない時には適当に頷いておくという習慣が、ここでも大いに役立った気がします。

大学のドミトリーで1週間過ごす

Brown先生は朝が早く、いつも7時には大学に入られます。翌朝、ホテルまで彼女の出迎えを受け、大学の研究室に案内されました。

ニューヨーク州立大学のDownstate Medical Centerは、ブルックリンにあります。

早速、私が宿泊する予定の大学構内にあるドミトリーに案内されました。まず驚かされたのは、カウンターにいる黒人女性が、Brown先生の指に輝く宝石を見て、「こんなものをつけていると、この界隈では指を切り落とされますよ!」と警告されたのです。

私にも、大学構内からは一歩も外に出ないようにと注意されました。幸い、案内された部屋は結構広く、快適そうなベッドが置かれていました。

ここでの生活が1週間続くことになります。大学構内には、レストランや売店があり、特に生活に不自由はありませんでした。

Brown先生は、アメリカ小児科学会の事務総長という要職にあり、オフィスに入ると、ほとんで電話が鳴り止まないという多忙な先生でした。

私は、研究室のスタッフにUBアナライザーについて詳しく説明し、実際の測定手技やコツを伝授しました。ヘマトフロロメトリー測定器も見せてもらいましたが、もうほとんど使われていないようでした。

この研究室には先月まで、山内芳忠先生が居られたとのことで、スタッフの皆さんが同じ日本人の私にも大変フレンドリーに付き合って下さいました。

ニューヨーク州立大学でも学会前には予演会が

学会も近づいてきたある日、こちらでも日本同様にスタッフみんなが集まり、予演会が行われます。

私にも発表の機会が与えられました。スタンフォード大学でもリハーサルを行い、こちらでもBrown先生に発表内容を聞いて頂いており、落ち着いて話すことができました。

しかし、余り関連性のない分野のドクターからのとんでもない質問には閉口しました。

次々と壇上に立って、発表するのですが、普段の日常会話では流暢に、早口の英語で喋っているラテン系の外国人が、いざ学会発表となると辿々しい英語でしか話せないのには驚かされました。

と同時に、私の英語発表も満更ではないという自信につながりました。

コロンビア大学のStanley James教授の前で講演

Downstateでの生活に少しは慣れたある日、Brown教授から突然、明朝6時にコロンビア大学のStanley James教授のところでUBの話をするようにと言われました。

Stanley James教授は新生児学の分野では神様のような存在で、日本にいる時からお名前をよく存じ上げていましたので、まさかという思いで、大変な興奮を覚えました。

学会発表用に厳選したスライドだけでなく、オプションのスライドも持参していたので、明日の発表方法をどうしようかと迷い始めるとほとんど眠れない夜となりました。

朝6時にはJames教授ご自身が車で迎えにきて下さり、コロンビア大学へと案内されました。

ここでのプレゼンテーションは、学会本番に次いで緊張した発表となりましたが、この経験も、自分のプレゼンテーションに対する自信となりました。 

いよいよアメリカ小児科学会の壇上に

アメリカ小児科学会には、米国内だけでなく、米国外からも多数の小児科医や小児科学研究者が、1万人以上参加します。会場は、ワシントンDCのコンベンションセンターとういう広大な建物です。

私のプレゼンテーションは、第1日目の午前の最後のセッションで、発表会場は2千人以上が入れる一番大きなメイン会場です。

当時の日本の学会では、黄疸のセッションにはせいぜい100人程度の小さな会場であるのに比べ、アメリカ小児科学会ではこの広い会場がぎっしりと人で埋め尽くされています。

私は、会場の扉を開けるなり、圧倒されました。

私の発表順が回ってきました。壇上に上がり、演壇の前に立つと座長から紹介を受け、いよいよ発表です。

私は、壇上に立つとかえって肝が座るタイプで、できるだけゆっくりと、rとlの発音には気をつけてという、これまでの忠告を思い出しながら、15分間の原稿を落ち着いて読み上げることができました。

発表が終わるや否や、10名以上の質問者が会場のマイクの前に立ち並びます。その中には、度々来日されており、パリでもお会いしたことのあるLeo Stern博士がおられ、びっくりしました。

日本国内の国際学会とは異なり、質問者は皆早口で話されます。私は、2〜3割のキーワードから、質問内容を類推して、準備していた回答をすると相手も納得してくれたのですが、中には全く頓珍漢な回答もあったようで、座長の先生がうまく取り成して下さいました。

予定の時間がオーバーし、座長から降段を促された時には、一気に緊張感から解放された気分でした。

降段すると、まずBrown先生が歩み寄って来られ、良かったとハグして下さいました。その後も、続々といろんなドクターから称賛の握手を求められました。トップへ

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第7話 核黄疸シンポジウムへの参加が私の年中行事に

1984年から、アメリカ小児科学会(APS)のサテライト・シンポジウムとして、核黄疸シンポジウム(Kernicterus Symposium)が、Brown先生を中心に、米国における黄疸研究の第1人者であるブラウン大学のCashore博士、スタンフォード大学Stevenson博士が加わり、開催されることになりました。

世界中の多くの黄疸研究者と知己になる

私にとって、今回が初めての学会参加ですが、Brown先生が紹介して下さっていたお陰で、多くの世界中の黄疸研究者と知己になりました。

最初に訪問したスタンフォード大学のStevenson博士や Vreman博士をはじめとするスタッフとは特に親しくなっており、仲間のような気分で、会場の一番前列に陣取って並んで座っていました。

中でも、Vreman博士は彼自身がオランダからの移民で、言葉に不自由を感じた経験もあったことから、私には大変わかりやすい英語で話しかけてくれましたので、私はいつも彼の隣の席に腰掛けていました。

帰国するや否や、アメリカ小児科学会での発表内容の論文化を図り、Audrey K Brown教授にスポンサーをお願いし、米国小児科学会雑誌「Pediatrics」に投稿しました。ほとんど修正することなく受理され、翌年1985年4月号に掲載されました。

全く夢のような話です。

米国で、核黄疸が問題になっているのは?

日本では、1970年代後半から80年代初めにかけて、新生児医療水準は飛躍的に向上し、産科病院でのビリルビン測定や光線療法の普及、啓発活動を通じて、また交換輸血療法の普及により、成熟新生児の重症黄疸、ビリルビン脳症、核黄疸は激減していました。

ところが、米国においては一旦消えていた成熟新生児の核黄疸発症例が各地から報告されはじめており、Brown先生らは心を痛めておられました。

どうやら、核黄疸発症の増加の一番の理由は、米国の産科医療制度にあるようで、出産後24時間で退院するという、いわゆる早期退院がその原因のようでした。

幸い日本の産科施設では、まだこの早期退院を取り入れていなかったので、このような問題は全くありませんでした。

アメリカ小児科学会の重鎮であるBrown先生は、核黄疸発症例増加を警告するために、このKernicterus Symposiumを企画され、産科医、小児科医への啓発とともに、早期退院に当たっての黄疸増強のリスク評価と退院後のフォローのあり方について熱心に語られました。

UB測定が、この流れの中で、ひと役買うのではと期待しておられました。 

アメリカ小児科学会への参加が私の年中行事に

アメリカ小児科学会は毎年、4月末から5月初めの、日本のゴールデンウイークにあたる時期に開催されるので、大学を離れて海外に行きやすいこともあって、毎年参加するようになりました。

核黄疸シンポジウムは、その後も毎年開催され、アローズ社がそのスポンサーになったこともあって、より身近な学会となりました。

1980年代のアメリカ小児科学会には、神戸大学以外の日本の大学からの出題は全くなく、学会で出会う日本人は、ほとんどが現地二世か日本からの留学生で、その数も限られていました。

私は、Brown先生の黄疸ファミリーのメンバーとして、世界中の黄疸研究者たちと、年に一度集えるのが何よりの楽しみとなりました。

学会は、東海岸、西海岸と交互に行われており、1985年の開催地は確かサンフランシスコであったように記憶しています。

毎年演題を出していましたので、上谷良行先生、高田晢先生や米谷昌彦先生らと余裕をもった旅行気分での渡米を繰り返していました。

ニューオリンズで行われた学会には、いつも道子を同伴して楽しく過ごさせていただきました。トップへ

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第8話 UBアナライザーが米国FDAで、国内でも認可される

毎年のアメリカ小児科学会での核黄疸シンポジウムを通じて、UBアナライザーUA-1の臨床的有用性が米国内でも認識されるようになり、アローズ社は1988年に米国FDAからの販売許可を得ることになりました。

このことが、わが国内においても、UA-1への関心を高め、厚生省を動かすことになります。

厚生省の3年間の審査を終え、ようやく1992年にUA-1の専用試薬アンバウンドビリルビン測定試薬キット「UBテスト」が承認され、翌年2月にはUB測定が薬価に収載され、保険点数200点が生後2週まで適用されることになりました。

この間、日本大学馬場一雄教授をはじめ、仁志田教授や新生児医療関係者に多大なお世話になりました。 

UBによる新しい新生児黄疸の治療基準づくり

神戸大学や関連病院では、独自のUBを利用した基準で黄疸治療を行なっていました。

UBアナライザーの普及とともに、UBを用いた新しい新生児黄疸の治療基準が、多くの新生児科医から当然のように求められました。

高槻病院の李容桂先生、淀川キリスト教病院の船戸正夫先生らとの共同研究で、1987年の1月から6月までの半年間に生まれた低出生体重児138例について、生後日数別にTB値、UB値と臨床症状発現率との関係をROCに描き、新生児黄疸の治療基準を策定し、米谷昌彦先生らとまとめ、日本小児科学会雑誌英文誌に投稿しました。

同時に、神戸大学小児科の未熟児新生児管理マニュアルにも光線療法・交換輸血療法の適応基準として掲載しました。

治療適応基準決定の難しさ

UB値の臨床的意義を述べるのは簡単ですが、治療法を選択する適応基準として一定の数値を公表すると、この数値だけが独り歩きするのではと恐れました。

どの臨床検査データについても言えることですが、1つの数値だけで、正常か異常かを断定できません。

基準値は、あくまで統計学的に妥当な数値であり、万人に当てはまるものではなく、治療方針は、臨床症状を中心に総合的に判断しなければいけないのですが、専門外の人ほど数字に拘りやすいという問題があります。

新生児黄疸は、治療法の選択を間違うと、核黄疸という重大な脳障害を引き起こし、助かっても脳性麻痺という後遺症に結びつきます。

とは言え、UB値を効果的に活用して頂くように、思い切って公表することにしました。

この基準は、神戸大学小児科基準として、数年前まで多くの新生児マニュアルに引用され、長きにわたり日本国内の多くのNICU施設で用いられていました。トップへ

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第9話 日本で国際核黄疸シンポジウム 

1993年3月に、UBの普及啓発を兼ねて、アローズ社がスポンサーとなり、UB研究会が大阪で発足しました。その時の出席者は、仁志田博司先生、河野寿夫先生、坂井昭彦先生、李容桂先生、船戸正久先生、上谷良行先生、山内芳忠先生、福田清一先生、そして私の9人でした。

その後、毎年1回、国内でのUBの適正理解と普及啓発のために、アローズ社の後援によるUB研究会が全国各地で開催されました。


第1回国際核黄疸シンポジウムで、左から、Cashore博士、Johnson博士、中村、Brown先生、生越社長、Bratlid博士


翌年の1994年4月には、第1回国際核黄疸シンポジウムと銘うち、外国人ゲストとしてBrown先生を筆頭に、Johnson博士、Cashore博士らに加えて、ノルウエーからBratlid博士が参加し、日本版「核黄疸シンポジウム」を開催することができました。

全国各地から多数の新生児科医の参加があり、UB測定の重要性を理解するための素晴らしい機会となりました。

1996年に改良型のUBアナライザーUA-2が発売

1996年に改良型のUBアナライザーUA-2が発売され、ベッドサイドでのUB測定が、多くのNICU施設でのルーチンに組み込まれるようになりました。

1998年には、岡山での日本未熟児新生児学会のサテライトとして、UB普及の恩人である山内逸郎先生の元で、Brown先生を再びお招きして第2回国際核黄疸シンポジウムを開催しました。

それまでから親交のあった山内、Brown両先生のお陰で、今日のUBアナライザーが陽の目を見たと言っても過言ではありません。このシンポジウムを終え、私は、これで何とか恩返しができたような満足感がありました。 

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第10話 私のUB研究活動はひと段落

1989年1月に、神戸大学小児科の教授に就任以来、年々教室運営や医学部運営などの仕事が増え、自らラボに入る時間が減っていました。

マネージメントをとるか、研究をとるかは、私個人の選択でしたが、大学の小児科教室には私よりも遥かに研究能力の優れた若い研究者がたくさんいましたので、私はマネージメントへの比重を大きくしました。

この選択には、阪神大震災の経験も大きく影響したと思います。

復興事業を通じて、いろんな業種の方々と接する機会が増え、小児科医として、単に子どもの身体的な疾患を診るだけでなく、子どもの心の問題や子どもを取り巻く社会的環境に、もっと積極的に参加すべきだという意識が、自分自身の中で強くなっていたように思います。

 長年にわたり活用され続けているUB測定とその適応基準

UB測定が広く用いられるようになり、思いも掛けない疑問や問題点が生じてきました。自分一人では対応しきれず、困り果てていました。

大学では米谷昌彦先生がUB研究を続けてくれており、彼がその役割を担い、またUB研究会の事務局長として活躍されました。

幸いにも、国内ではUBを測定していた児で、核黄疸を発症した症例を耳にすることなく、UB測定とその適応基準が、その後も長年にわたり活用され続けているのは、UB試薬を今日まで安定的に提供し続けているアローズ社の不断の努力と、米谷昌彦先生をはじめとする日本の黄疸ファミリーの先生たちのサポートのお陰と、感謝の気持ちでいっぱいです。


Brown先生の訃報に接して

若かりし頃のブラウン先生、雑誌Pediatricsより

Aurdey K Brown教授が2001年9月14日、78歳でご逝去との訃報をDavid Stevenson教授から受け取りました。

当時、私は大学附属病院長をしており、海外に出向ける余裕はなく、弔電を差し上げました。翌年のアメリカ小児科学会においてAurdey K Brown教授追悼の核黄疸シンポジウムがあり、私も参加しました。

Brown教授の遺稿論文「Kernicterus: Past, Present, and Future」が、雑誌Pediatricsの2003年2月号に掲載されています。1996年には42例の核黄疸発生例をまとめて報告し、警告を発せられました。

ようやく2004年になって、アメリカ小児科学会から新しい黄疸管理のガイドラインが出され、啓発活動も進み、米国における成熟新生児の核黄疸発症数は減少していきました。

アメリカ小児科学会名誉会員に推薦される 

2007年度のアメリカ小児科学会で、私が名誉会員(Honorary Member of the American Academy of Pediatrics)に推薦されました。

これは、2003年3月に大学を定年退官した後も、若いドクターと一緒に毎年欠かさず参加していたご褒美として、David Stevenson教授が推挙してくれたようです。

新しく名誉会員になると、学会期間中に新メンバーを集めた会長招宴パーティーがあり、胸に大きなリボンをつけて頂き、何だか誇らしくなりました。

学会のネームプレートもそれまで「GUEST」だったのが、「MEMBER」となり、自分がアメリカの小児科学会において一人前になった気分でした。

おわりに

UBによる治療適応基準を作成してから4半世紀が経ちました。

当時は、超低出生体重児の出生数は限られていましたが、昨今ではその数が増え、また生存退院例も増えました。その結果、これら超低出生体重児の核黄疸発症が新たな臨床課題となっています。

一旦、UB研究の第一線から離れていた私ですが、再び、若い研究者に混じり、研究を再開することになります。

この話は後ほど書かせて頂きます。


阪神淡路大震災に遭遇して

1995年1月17日午前5時47分、思いがけない大震災に見舞われ、6,400人以上の死者が出ました。私、家族、医局関係者には死者は出ませんでしたが、多くのスタッフが被害を受けました。

私個人としても、自宅が全壊し、自宅や大学においていた黄疸研究資料を始め、多くの資料を紛失してしまいました。

当時は、未整理のままに放置していた資料もたくさんあり、それらが全てなくなり、スッキリした気分で、1から出直せる良い機会と強がっていたのですが、26年経った今、この歳で昔を振り返ってみようとしても、震災前の記録・写真が何も残っておらず、寂しい気がします。

写真;震災当夜の附属病院周辺、諏訪山より撮影


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ノーベル物理学賞を「気候変動研究の先駆者」真鍋淑郎さんが受賞

2021年のノーベル物理学賞の受賞者にプリンストン大学上級研究員の真鍋淑郎さんが、「気候変動研究の先駆者」として高く評価されて選ばれました。気象変動、地球温暖化の指摘がなされたのが1958年ということですから、今から60年以上前のことです。私がまだ高校生の頃の話で、神戸製鋼所の煙突から六甲山に向けて吐き出される黒煙で太陽が曇ってしまい、慌てて教室の窓を閉めていた時代、まさに日本の高度経済成長期です。

氏は、東大の大学院を修了するや、自らの研究の場を求めて渡米されたそうです。その後もずっと米国で研究を続け、米国籍をとっておられます。とても90歳とは思えないお元気な姿で、明るく、その語り口、一言一言に重みを感じさせられます。

中でも、日本の研究の現状については「日本では好奇心に基づく研究がしにくくなっているようです。政治家と科学者のコミュニケーションがうまくいっていないのも問題だと思います」と述べられ、研究や教育の環境改善に向け科学者と政治家がともに考えるよう促しておられます。

我が国におけるコロナ対策をみていてと、元来前面に立つべき医学者・医師たちがどのように考えているのかというメッセージが伝わって来ず、政治家たちがやたらと前面に立って国民への医学的なメッセージを発しています。テレビでは、感染症専門家と呼ばれる人たちは、何か第三者的な当たり障りのないコメントばかり述べておられます。

特に、ワクチン接種に関して、政府や知事たちはワクチンの積極的な接種を勧める発言を繰り返しますが、医師はワクチンの副作用について語り、さも安全性に問題があり、「自己責任で接種するように」ともとれる曖昧な表現が目立ちます。国民は自分で判断ができないから、いろんな医学情報を持っている医師に判断を仰いでいるのです。

すでにワクチンは無償で行われており、医師はもっと自信を持って、国民が安心して接種を受けることのできるよう積極的に対応して欲しいと思います。

10月7日

ひとの話をよく聞く

昨日、新しく自民党総裁に選出された岸田文雄氏の第一声が、「わたしの特技は、ひとの話をよく聞く」ことだと述べられ、一瞬戸惑いを感じました。

よもや、「ひとの話をよく聞く」のが仕事のような政治家の世界でも、これを特技として話されることに驚きました。裏を返すと、歴代の首相はひとの話を聞かないのが特技だったのかと勘ぐりたくなります。

私自身、育児の話をするときには、いつも「子どもの話をよく聞く」ことの大切さを語っています。スマホを見ながらでなく、じっと子どもの顔を見ながら聞くことの大切さです。

「ひとの話をよく聞く」のは、聴くだけでなく、何らかの応答をすることも含まれています。

子どもは、親や保育士さんに話をゆっくり聞いてもらうだけで、満足感に浸り、言葉への自信につながります。

医師教育の中でも、「患者の話をよく聞く」ことの大切さは、常常強調されています。最近は電子カルテとなり、医師は画面ばかり見て話すという批判をよく耳にします。

最近、私自身が患者として、医師や看護師のお世話になる機会が増えました。体調の優れないときほど、自分の思いを先方になかなか伝えにくいものだということが、よく分かりました。新型コロナ禍の中では家族との面会もなく、医療者との対面時間も限られているようで、一層不安な気持ちになります。

マスク越しの会話が求められる今ですが、家庭でも、社会でも、しっかりと相手の目を見ながら、話のできる時間が少しでも長いことを期待します。

9月30日

ワクチン接種、あとひと踏ん張り

最近、変異株の流行とともに、子どもの新型コロナウイルス感染者が増えてきました。学級閉鎖や休校という措置がとられている学校もあります。

その感染経路をたどると、家庭での大人から子どもへの感染が主なようです。

わが国においても、新型コロナワクチンの接種が進み、高齢者では80%以上が2回接種済みですが、中年層や若年層のへ接種が遅れています。

子どもを新型コロナウイルス感染から守るためには、周囲の成人(養育者、子どもに関わる業務従事者等)へのワクチン接種が急がれます。

若年者では副反応が強いので、健康な子どもへのワクチン接種には、メリット(感染拡大予防等)とデメリット(副反応等)を、本人と養育者が十分理解した上で受けてください。クラブ活動などで自分のクラス以外の子どもとの接触機会が多い子どもには、ワクチン接種をとくにお勧めします。

2021.9.13.

妻の機転とパトカーのお陰で命拾い

高齢者ドライバーによる車両暴走事故が、大きな社会問題となっています。
私は、一時運転を止めかけていたのですが、コロナ蔓延で外出が制限されるようになり、再びハンドルを握っていました。ただ、一旦停止などの軽微な違反を犯せば、注意力不足の証として、即返納の覚悟でした。

運転中に意識消失に

私は、長年にわたり降圧剤は服用しています。時々一時的な立ちくらみがありましたが、すぐに回復していたのであまり気にかけていませんでした。

9月3日、大学病院を受診した帰り道での出来事です。
妻を助手席に乗せ、山手幹線からトアロードを下ろうと、右折レーンに入ったところ、手前の信号が赤になったので、その場で停止したのは覚えています。
停止とともに、意識朦朧となったのだと思います。
前の信号が赤なのに、車がズルズルと動き出すので、異常に気づいた妻は、急いでハンドルを掴み、右に切り、対向車線を横切り、トアロードの路肩に寄せて、サイドブレーキを必死に引いて停止させてくれたそうです。

幸い、対向車線はまだ赤信号で、対向車線の車が停車中だったので、何とか車を動かすことができたそうです。もう一つ幸いしたのは、私の車の異様な動きに気づいたパトカーがどこからか現れ、停止するようにと拡声器で背後から命じてくれ、これが周囲の人たちへの注意喚起にもなったようです。

妻の機転とパトカーのお陰で大事故に至らず

本当に、妻の機転とパトカーのお陰で、大事故に至らなかったことに、感謝、感謝です。
車は、パトカーの警察官が運転して、隣の生田警察署の駐車場まで運び込んで頂き、後で、娘が取りに行ってくれました。当日は本降りの雨の中、本当にお世話になりました。

私は、すぐに妻に付き添われ、救急車で大学の救急外来に運び込まれ。到着した時には意識も回復しはじめており、脳・心臓の検査でも異常なく、事なきを得ました。一時的な低血圧によるショックだったようです。
様子観察のために一泊入院し、翌朝元気に退院させて頂きました。
早速、週明けを待って、免許証の自主返納の手続きを済ませました。

歩道にタクシー突っ込む事故報道が

昨夕(9月11日)のNHKテレビ・ニュースで、「歩道にタクシー突っ込む 1人死亡1人重体4人けが 東京・千代田区」という報道がありました。画面には個人タクシーの表示と大きく破損した真っ黒な車体が映し出されていました。きっと高齢の運転手であろう気がしました。案の定、64歳の男性です。

目撃者の話によると、赤信号で停止していたタクシーが、後ろの車のクラクションで急発進して、歩道に突っ込んだそうです。また、運転手が、停止中は頭を前屈して、じっと動かずにいたという証言もあるようです。

私も一歩間違えれば大惨事

このタクシー事故は、私の場合と極めてよく似ています。
事故になれば表に出ますが、私のようなニアミス例は事故件数の何十倍もあるのではと推測します。
高齢になると、脳血管障害や心血管系の障害を、大なり、小なり、併せ持っています。しかし、運転に及ぼすリスクを客観的に知ることは、ほぼ不可能に近いです。
最近の車には、いろいろと安全対策が施されていますが、街中での自動運転はすぐには実現されそうにありません。

私からの交通安全対策への提案

最近、眼球の動きによる居眠り警告装置が開発されていますが、その警報で本人が覚醒しなければ、事故防止に何の効果もありません。
今回の私自身やタクシー事故の意識消失や、居眠り運転に共通しているのは、その多くが赤信号での停止がらみで発生していることです。

私の提案は、赤信号での停止中からの発進時には、運転者が前方を注視しているのを自動的にモニターし、カメラが前方注視の確認をしなければ、車が動かないような安全設計を提案したいと思います。この安全装置が作動した時には、ハザードランプが自動点灯し、後方車両に異常を知らせれば、無用のクラクションもなくなります。

このニアミス自動登録するシステムの搭載を義務化します。一年に複数回にわたりニアミスを犯す運転者には、納得して免許返納していただけるのではないかと考えます。

2021-9-12

第3章 パリでの留学生活 フランスよもやま話

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第1話 フランス語研修の5ヶ月間
第2話 パリでの生活のはじまり
第3話 研究生活のはじまり
第4話 大佛次郎の「パリ燃ゆ」
第5話 INSERM研究員に採用
第6話 パリの日本人社会
第7話 フランスよもやま話

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第1話 フランス語学研修の5ヶ月間

大阪万博が開催された1970年春からフランス政府給費留学生として、パリ大学医学部Port Royal病院新生児研究センターのMinkowski教授のもとに留学することになり、最初の5ヶ月間の語学研修には、単身で行くことにしました。

生まれて初めて乗る飛行機

国内線も含めて初めて乗る飛行機です。羽田発モスクワ経由のAir Franceのジャンボ機でパリを目指しました。当時は日本発着の国際便でも日本語のアナウンスは全くなく、フランス語が十分に聞き取れず、心細い思いでシートの上で固まっていました。

何しろ、パリでは、テレビが日本よりも数倍高価で、手に入りにくいという従兄の忠告があり、神戸の免税店でソニーのテレビを調達し、機内持ち込みをしたものですから、身動きできない状態でした。

この話をすると、いつも家内は、「ひとりで5歳、3歳、1歳の3人の子どもを連れ、大きなトランクを持ち、しかも南回りの便で、丸2日をかけてパリまでやって来た私の大変さとは比べものになりません。」という答えが返ってきます。

ブザンソンでの語学研修

パリに着くと留学生センターの方の出迎えを受け、翌日にはパリから列車で3時間ほど南東へ向かったところ、スイス国境近くに位置するブザンソンのフランス語学研修センターに連れて行かれました。

ジュラ山脈から流れるドゥー川と丘陵の自然の要塞に囲まれたローマ時代からの古い歴史ある街です。

ブザンソンは、歴史的な都市であるだけでなく、ブザンソン国際音楽祭など芸術面でもよく知られています。

ブザンソンには、フランス語の語学研修センターがあり、フランス政府給費留学生20数名(うち10名が医学関係者)とともに2か月間の特訓を受けることになりました。

日本からの留学生は、別々のクラスに分けられ、いろんな国からの語学研修生と一緒です。私のクラスには、ドイツ、オランダ、ソ連などのヨーロッパ圏、アルジェリア、モロッコなどのアフリカ勢、ニカラグア、メキシコなどの中南米からと、世界各国の人たちと出会いました。

お互いに語学研修の身、身振り手振りでの会話です。お互い専門分野も違い、何の共通性もなく、他愛も無い話ばかりしていたと思います。

ニカラグアからの研修生

一番記憶しているのは、ニカラグアからの研修生が、「君はヒロヒトを尊敬しているか?」といきなり問いかけてきたことです。日本にいると、天皇陛下のことを話題にすることは滅多になく、お名前でお呼びすることなんてありませんでした。しばらくして、ようやく質問の意味が理解でき、「もちろん、イエスだ」と返答しました。

ところで、「君は君の国の大統領を尊敬しているのか?」と私が問い返すと、彼は自分の唇に指を当て、「私にそのような質問をしないでくれ」と小声で答えました。

勝手な奴だとその時は思ったのですが、当時のニカラグアは政治情勢が極めて不安定で、その後ゲリラ戦争が激化し、10年の永きにわたって内乱が続きました。あの彼は、その後一体どうしているのだろうかとやけに気掛かりです。

宿舎では、いろんなワインを買い込んできて、学生時代に戻った気分で夜遅くまで、日本人同士で歓談していました。精神科医が複数名いた以外、いろんな臨床科の医師が集まっていました。

南仏モンペリエでの3ヶ月間  

7月から、医学関係の留学生は南仏のモンペリエで、さらに3ヶ月間の語学研修が続きました。振り返ってみると、これはフランス政府の粋な取り計らいです。

フランスは、日本人には想像もつかないバカンスの国です。夏休みが2ヶ月間、その間はパリからパリ人が居なくなるという国です。

南フランスにある地中海沿いの都市モンペリエには、多くのバカンス客が国内外から訪れます。

モンペリエ大学医学部は、ヨーロッパ最古の医学部として有名で、12世紀にすでに医学教育が発達しており, 14世紀には,ヨーロッパの医学研究の重要なセンターの1つだったそうです。

仲間の車ワーゲンに乗せてもらい、アビニョンにあるローマ時代の見事な水道橋ポン・デュ・ガールや、数多くのローマ時代の遺跡を巡り、またスペイン国境を越え、物価の安いバルセローナまで買い物に出かけたこともありました。

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Pont du Gare

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第2話 パリでの生活のはじまり

 いよいよ10月からは、日本から家族も到着し、念願のパリ生活の開始です。

アパートが見つかるまでの間、しばらくはモンマルトルの丘のサクレクール大聖堂のすぐ近くのベックレル・ホテルHôtel Becquerelに仮住まいすることにしました。

ここは従兄のお勧めであり、長く続く石段、整然と並ぶアパート、フランス映画の出てくる素晴らしいロケーションでもあり、夢のような生活を楽しみにしていました。

ところが、当時のパリは東京よりもはるかに物価高の時代、1ドル360円の時代で、1フランは70円以上していました。仏政府からの給費額は、当然親子5人を想定したものではなく、貧乏生活の始まりです。

Hôtel Becquerelでの生活

パリには4つ星の高級ホテルはたくさんありますが、Hôtel Becquerelは星1つの安ホテルです。薄暗い部屋には、ベッドが2つと丸テーブルが1つ、キッチンはなく、バスタブは付いていたのですが、なかなかお湯が出ず、トイレもしばしば詰まり、コンシエルジュを呼ばねばなりませんでした。

道子はフランス語を日本で学んできたとはいえ、慣れない市場での買い物に苦労し、仕入れてきた食材をビデの上に敷いた板の上で調理し、夕食にはキャンピング・ガスの上に、飯盒をのせて炊いたご飯を食べていました。

私が研究センターに行き、留守をしている時には、道子は3人の子を連れて、サクレクール大聖堂やテアトル広場にいつも出かけていました。

すると、観光客がジャポネの子どもがいると物珍しそうに近づいて来たそうです。

右側のビルがHotel Becquerel


何しろ、この辺り一帯はパリで最も多くの観光客が訪れる地域です。今と違い、日本人の団体客はまれでした。

当時よく知られていた言葉が、「ノウキョウ」です。「ノウキョウ」が「農協」のことであることが、しばらくしてから分かりました。

私は、連日のようにパリの留学生会館や日本人館Cité Universitaire を訪れ、何とか手頃な価格のアパートと中古の車プジョー404を手に入れることができました。アパートは前に日本人留学生家族が住んでいたところ、車も日本の商社の方から譲り受けたものです。 

パリ郊外のクラマール Clamartに

新しい住まいのクラマールは、モンマルトルとは正反対の、パリの南方にあり、モンパルナス駅から電車で約15分の閑静な住宅街です。

この地を選んだのは、私の留学先であるパリ大学新生児研究センターがモンパルナス駅から歩いて15分くらいのところだったからです。

ここは2DKで、日本にいるのと変わらない生活が始まりました。しかし、電化製品は日本に比べ法外に高く、テレビは日本から持参していましたが、洗濯機も、冷蔵庫もない生活を帰国するまで続けていました。

息子の同級生である近くに住むフランス人歯科医の息子が、夕方になるとテレビを見にやってきて、ひとりで笑って楽しんでいました。まだまだテレビのフランス語をわれわれ家族は理解できていませんでした。

休日には、パリ市内の観光に、近くのベルサイユ宮殿やムードンの森にもよく出かけました。たまに招待を受け、夜に出かける時は、同じ留学生仲間の和田博子先生(旧姓天川博子先生)や山中一郎さんにお願いして、よく子どもたちの面倒を見ていただきました。 

長いバカンス

何しろ、日本と違いフランスは休日が多く、特に夏休みが長いのには戸惑いました。だんだんと休暇を取ることにも慣れてきて、車にガスコンロや鍋まで積み込み、ヨーロッパの各都市を家族で旅していました。

レストランで食事すると高価であり、子どもたちの口にも合わないために、先々のホテルでは自炊をして旅を続けていました。 Hotel Becquerelでの生活体験が生きていました。

2年目には、友人の吉岡巖君が同じく家族連れでフランス北部の町リールに留学してきたので、よく一緒にベルギーやオランダに旅行に出かけました。

ウイーンで国際小児科学会があった時には、日本から平田先生ご夫妻や竹峰先生らにお会いしました。ウイーンの森で炊いたご飯でつくった道子手作りのおにぎりの思い出を、顔を合わせるたびに話して下さいました。よほど感激されたのだと思います。今なら外国のコンビニでも手に入るか?と思いますが。

スイスからアルプス越えでイタリアに行き、ピレネー山脈、アンドラ公国を通ってスペイン、ポルトガルまで、ミシュランの地図を頼りに旅を続けていました。トップへ

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第3話 パリでの研究生活

パリ大学医学部新生児研究センターは、Cochian病院群の一角にあり、Hopital Port Royalに附属した新しい5階建ての建物です。パリの南部、リュクサンブール公園 Jardin du Luxembourgの南端に位置しています。

A.Minkowski 教授とはじめて面会

5か月間の語学研修の後、10月1日から、いよいよパリ大学医学部新生児研究センターに出務です。センター長のA.Minkowski 教授に、はじめてお会いすることになりました。

辿々しいフランス語で自己紹介していると、せっかちな彼は、私が話すのを遮り、君は英語でなら話せるのか?と問いかけられました。

日本で6か月、フランスで5か月間の語学研修は何だったのかと落ち込んだのをよく記憶しています。

チューターを務めてくれるR. Lardinois博士と一緒に研究するようにと指示されただけで、早々に退室しました。

何しろ、彼は何事にもせっかちな性格らしく、かつ多忙で、オフィスにいる時間も限られていたそうで、私にだけでなくフランス人の研究者に対しても同様だったようです。

Lardinois博士との2年間

Minkowski 教授とはちがい、Lardinois博士は大変穏やかな人柄で、私の話にゆっくりと耳を傾けて下さいました。

彼はベルギー人で、2年前まで米国のStanford大学で生化学の研究を行なっており、日本人は語学が不得手であることをよく知っていたのが幸いしました。

私の研究課題は新生児黄疸に

Lardinois博士から日本で何の研究がしていたのかと問われて、新生児黄疸に関する研究をしていたと答えると、即座にそれを続けるようにとのことでした。

Lardinois博士自身もStanford時代からの研究の継続として、胎児アルブミンの研究を続けていたので、うまくマッチしたようです。

米国から出ているいくつかのアンバウンド・ビリルビンに関する論文を手渡されました。測定方法は、極めて単純なもので、Sephadexカラムでアルブミン分画を吸着させ、溶出してくるビリルビンを比色計で測定するだけです。

日本とは違い、機器はすでに備わっており、試薬類も容易に手に入り、1か月もしないうちに、測定法を確立することができました。

当時のNICUの病棟主任であったP. Zamet医師とタッグを組んで、臨床研究がスタートしました。毎朝採血された血液が、5階にある研究室まで運び込まれてきました。その日の検体を処理するだけで、1日が終わっていたように思います。

お喋りな実験助手が助けに

Lardinois博士のラボには、おしゃべりのスペイン娘の実験助手がおり、研究上での助けというよりも、パリで生活する上でのアドバイスをくれました。

彼女は、フランス語を流暢に話すのですが、興奮してくるとスペイン語訛りが強くなり、誰に対しても「ノー」とはっきりと言える気の強い子でした。

彼女は、私が話すフランス語を誰よりもよく理解してくれ、私の語学の師匠でもありました。

週末、自宅では日本語でしか話しませんので、月曜日になると、私のフランス語力が、また後戻りしたといつも嘆かせていました。

私のボスのLardinois博士はベルギー人ですが、彼の奥さんもマドリッド出身のスペイン女性で、彼はスペイン語も流暢に話せます。

他のラボにもスペイン語を話す人が少なくなく、昼休みにはスペイン語が飛び交っていました。

センターにはいくつかのラボが

隣には、新生児の脳病理学で世界的に有名なLarroche教授のラボがあり、同じ神戸大学出身の天川(和田)先生が私より1年前から来ておられました。

当時は未熟児の死亡率がまだ高い時代で、毎日のように剖検が行われていたようで、彼女たちによる脳の剖検所見は後々まで貴重な資料として引用されています。

天川先生は、私と違いフランス語が堪能で、私が困った時にはいつも彼女に助けを求めていました。

新生児の脳の発達と栄養の研究が

もう1つの生化学の研究室では、ラットを用いた新生児の脳の発達と栄養の研究が行われていました。Madame Rouxを始め、女性ばかりの研究チームで、お茶とケーキをよくご馳走になっていました。

別のフロアーには、新生児脳波の研究で有名なDryfus教授や乳児の発達行動の研究で有名なSaint Antoine教授がおられ、私のボスのDr. Lardinois以外のスタッフはみんな女性でした。

みなさん世界的にも高名な方ばかりで、日本にも度々来ておられます。

研究室の女性スタッフと一緒に

はじめてみた新生児集中治療室 (NICU)

4階にある新生児集中治療室 (NICU) に案内され、日本では見たこともなかった光景に出くわしました。

気管内挿管され、人工呼吸器に繋がれた未熟児が10名近くずらりと並んでいます。

別の部屋には、頭からビニール袋を被せて、首のところで締めて、その中に酸素を流すCPAPという治療法も行われていました。輸液療法も積極的に行われていました。

日本で行われていた「非侵襲的医療」とは正反対の医療です。

でも、死亡率はまだ高く、試行錯誤の連続であったようです。NICUのスタッフの方々とも仲良くなり、時間があれば、いつもNICUに入っていました。

近代新生児医療のスタートは1970年

1970年は、米国を中心にNICUが各地にでき、近代新生児医療がスタートした年だったようです。Minkowski 教授は、新生児学の創始者であるHarvard大学小児科教授Clement A. Smithの門下生であり、フランスではじめてのNICUをここパリに設立したのです。

1970年には、パリで新生児の人工換気に関する国際シンポジウムがもたれ、 Clinical Pediatrics of North Americaにはハイリスク新生児管理の基本となる考え方、治療法が詳しく特集されています。

この本は、私にとって、否、世界中の新生児科医のバイブルであり、今でも大切に本棚に並べてあります。

どうやら、私がパリに着いた年は、近代新生児医療が世界的にスタートした年だったようです。

パリに秋の訪れ

10月も半ばになると、夕日の沈むのが早まり、街のマロニエが一斉に色づきはじめます。イブモンタンが唄うシャンソン「枯葉」の哀愁に満ちた世界が広がっていきます。

夏の期間は閉まっていたオペラ座をはじめ、多くの劇場では多彩な催しが目白押し、パリジェンヌたちを楽しませます。

私たち家族にとっての1年目の秋は、冬に備えて生活を整えるだけで、週末には車で近郊の公園や森に出かけ、落ち葉を蹴散らしながら子どもたちと元気に走りまわり、お弁当のサンドイッチを頬張っていました。

神戸とちがいパリの冬は、夜が長い。午後3時を過ぎると、どの車もヘッドライトを点けて走っています。マイナス10度以下の日が何日も続きました。

前を走る車が水分を含まぬ雪を巻き上げると、前方の視界が妨げられ、何も見えなくなります。神戸では全く経験したことがない寒さに震え上がっていました。

夜間には部屋の暖房も追いつかず、毛布の上からオーバーを重ねて寝んだ日もありました。何分にも、この寒さはパリでも例外的だということでしたが、50年前から気象というものには絶えず例外が付き纏っていたようです。トップへ

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第4話 大佛次郎の「パリ燃ゆ」

フランス革命は、市民によりフランス絶対王政の崩壊をもたらした事件という浅い知識しかなかったのですが、パリに来て、現地の人たちと話をしていると、必ずフランス革命の話題が出ます。

道子が、日本を出る前に、船便で送っていた大佛次郎の「パリ燃ゆ」上下2巻がようやく届きました。

この書は、1961年から1963年にかけて「朝日ジャーナル」に連載されたものの合本で1964年に出版されたものです。

1789年のフランス革命から1871年のパリコミューンの足跡を、膨大な資料をもとに描かれたノンフィクション歴史小説です。

発端となったのが、1789年7月14日に、政治犯が収容されていたバスチーユ牢獄への市民による襲撃です。

フランス国王ルイ16世の王妃マリー・アントワネットが最後に処刑されたのも、バスチーユ広場です。

資本主義革命とも言える「フランス革命」は、絶対王制の法構造を打ち破り、身分制の撤廃、封建制を廃止し、私的所有を基礎とするブルジョア社会を建設したのです。

 

「パリ燃ゆ」には、革命の舞台となった地名や歴史上の人物名が頻繁に出てきて、流し読みできるような本ではありません。この本を日本で読んでいたら、頭の中が混乱して、恐らく最後まで読まなかったと思います。

パリ市内を歩いていると、至る所に本に出てくる人名や地名が見つかり、歴史的なモニュメントが無造作に並んでいます。

パリの街が、フランス革命当時と変わらぬことから、大変よく理解できます。

道子と本の奪い合いをしながら、あっという間に読破しました。この本は、留学生間で回し読みされました。

パリ祭

フランス革命の発端となったバスチーユ監獄襲撃のあった7月14日は、パリ祭、フランス革命記念日となり、世界中から多くの人々が集まります。シャンゼリゼ大通りではパレードが繰り広げられます。

この日は一年中で最も盛大な祝日なので、子どもたちの学校も休校であり、朝早くから良い席を求めて出向きました。

夜になると、私が住んでいたパリ郊外のクラマールでも、花火が打ち上げられ、広場では夜遅くまで、着飾った若者がダンスに興じていました。日本の村での夏祭りと同じです。

 パリ祭 Clamartの町で

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第5話 INSERM研究員に採用

あっという間に1年が過ぎ、2年目を迎えようとしたある日、ボスのDr. Lardinoisから、INSERM(フランス国立保健医学研究所)の研究員に採用されたという嬉しい知らせを受けました。

私たち家族が、家賃代しか出ないフランス政府の留学生奨学金で生活しているとの事情を知ったボスのDr. Lardinoisが、気遣ってINSERMの研究員に推薦してくれたものと思います。

一気に月収が倍以上に跳ね上がり、道子も大喜びです。生活は広いアパートに移るでもなく、車を買い換えるでもなく、ただ極貧生活から抜け出しただけですが、安心して2年目のパリを迎えることができるようになりました。

その後間もなく、ニクソン・ショックで突然ドルの切り下げが起こりました。通貨の固定相場制度で1ドル=360円という時代が長く続いていたので、出国時にまとめて換金して持ってきたドルの価値が、大幅に下落しました。もし、INSERMの研究員に採用されていなかったら、途中帰国も止む無しの状況になっていたかも知れません。

世界中の研究者が集う

センターでは、月に1−2回セミナーがあり、欧米各地からいろんな新生児研究者が訪れてきました。パリーニューヨークと言っても、神戸―東京の感覚です。日本がいかに極東の国か思い知らされました。

日本でもよく知られている米国のLeo Stern博士とMH Klaus博士は、度々来ておられました。恐らく何か共同研究でもされていたのでしょう。

Leo Stern博士は、フランス語も実に堪能で、饒舌に話をされていました。母子愛着作用の研究で有名なMH Klaus博士は、大変物静かな方で、新生児室の保育器の上からジッと赤ちゃんの動きを観察し続けておられた姿が今でも忘れられません。

外部から高名な研究者が来られると、いつもボスのDr. Lardinoisが私にも紹介してくれるのですが、当時はまだ若く、浅学非才の私の記憶に止めることができませんでした。

セミナーでは、半分程度、否それ以下しか、フランス語を理解できていませんでしたが、あとは推理力で必死に理解に努めていました。

スライドもなく、板書の講演には、少しでも緊張感を欠くともう闇の中です。もう少し語学力があれば、もっといろんな体験ができていたのにと悔やまれます。

フランス語で論文を作成

一年程して、臨床データもかなり集まったところで、フランス語で論文にするようにとの指示を受けました。日本では数本の論文を日本語で書いた経験はあったのですが、英語で書いた経験は全くありませんでした。

類似の論文を参考に、辞書を片手に、何とか仕上げることができ、ボスのDr.Lardinoisのところに持って行きました。

彼は、困り果てた表情で、最後まで目を通してくれたのですが、「これは、フランス語の単語を使って書いてあるので、意味は理解できるが、フランス語の論文ではない。」という厳しい評価を得、全面的に赤が入りました。

フランス人は、日常会話でも、実に巧みに順序立てて話を展開させて行きます。このような話の進め方は、日本人の不得手なところで、欧文の科学論文が受理され難かった大きな理由だと思います。

フランスことば

フランスことばは、どの言語よりも耳触りの良い、心地よい響きがあります。

フランス人は、英語を話せても、フランス語しか使わない国民性があると評判でしたが、日本人と一緒で、多くのフランス人は英語で話したくても、話せないのが実情のようでした。

フランスでは、幼少期からフランス語教育に多くの時間を割いています。クラマールの公立小学校に通い始めた息子の授業時間割を見て、国語の時間のあまり多さにびっくりしました。

私のフランス語は、フランス語の単語を、男性名詞か・女性名詞か、単数か・複数かに気をつけて、文法通りに並べたもので、何とか意味は通じていましたが、フランス人が小さい時から学んできたフランス語は、詩であり、韻を踏むことの大切さです。

まさに音楽です。それがフランスことばの心地よさを生み出していたのです。

テレビで、英語のドラマが時々放映されていました。上品そうな美人の女優さんの英語でも、なんと耳障りな、下品な物言いかと感じたものでした。

新生児豚での核黄疸実験

これまで、ラットの新生仔にビリルビンを注入し、脳のビリルビンによる変化(核黄疸)を観察していたのですが、何分にもラットの新生仔は10 g足らず、十分な血液がとれず、血液所見から核黄疸発症の可能性を知ることはできません。

ある日、Dr.Lardinoisから、パリ大学の農学部の畜産研究所にいる豚の新生仔を1匹分けてもらえるとのこと、取りに行くように命を受けました。

仔豚の血清アルブミンが非常に低いために、ビリルビン注入で核黄疸を起こしやすいというのが、実験動物として選ばれた理由です。

長閑なパリ郊外の農村地帯

農学部の研究所は、パリ南方の郊外、50 kmほどのところにあり、自分の車で向かいました。ベルサイユを通り過ぎると、一面に広大な農地が広がり、人影は全くありませんが、フランスの地図は大変正確に、分かりやすく作成されており、道に迷うこともなく、目的地にたどり着きました。(携帯電話も、ナビもない時代の話です。)

確か、生後3日目の仔豚でした。体重1kg足らず、全身まだ毛が生えておらず、実に可愛い目をして、キューキューと泣いています。段ボール箱に入れ、後部座席に乗せてパリのラボに連れて帰りました。帰路は、自宅の近くを通るので、一度子どもたちにも見せてやろうと、自宅に立ち寄ったところ、みんな大喜びでした。

ラボに戻ると、早速実験開始です。麻酔をかけ、血管確保まではうまくいったのですが、想定外に肝臓でのビリルビン処理能力が優れており、ビリルビンをいくら注入しても、血中のビリルビンレベルが上がらず、実験は失敗に終わりました。

実のところ、あんなに可愛い目、可愛い鳴き声の仔豚での実験が1回だけで済み、ホッとした思いもありました。

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第6話 パリの日本人社会

人気の考古学者山中のおっちゃん

パリ在住の同期の留学生とは、折にふれ連絡をとり、情報交換していました。

同期の中でも、独身の考古学者山中一郎くんは、家族の一員のようなものでした。

彼は、いつも無精髭を生やし、風貌は古代人のようですが、大変ソフトな物言いで、我が家の子どもたちから「山中のおっちゃん」と慕われていました。

週に1回はやって来て、子どもと遊んでくれた後、腹いっぱい食べて帰っていきます。彼が来るとわかると、道子は大量の食材を買いに出かけていました。

彼は誰とでもすぐに親しくなり、大変話好きな男で、他の留学生の消息などもよく知っており、話題も豊富した。私の自宅だけでなく、ラボにも突然現れます。

スタッフとも親しくなり、私が不在でも、実験助手のマリアンジュと長時間話し込んで帰っていきました。(私の帰国後も、再三ラボを訪れていたそうです。)

当時、日本のテレビにはよくエジプト考古学者吉村博士がブラウン管に登場していましたが、彼の専門はもっと古い時代だそうで、エジプト時代は考古学のうちに入らないとよく話していました。

(彼は帰国後も、時々我が家を訪ねて来てくれ、夕食を共にしました。私が接する多く人が医療関係者で、話題も限られていた中で、彼のような自由人、話題豊富な考古学者の話はいつも新鮮なものでした。

1995年に母校京都大学の考古学講座教授となり、京都大学総合博物館館長を歴任、2013年に逝去されました。)

大使館からの要請

パリでの生活に慣れた頃、パリの日本大使館の方からラボに電話が入りました。何かと思ったら、アラブに向かう途中の政府の要人が体調を崩されたので、ホテルの部屋まで往診を依頼されたのです。

私は小児科医なのでとお断りしたのですが、強く求められて出かけたこともありました。

当時の日本では、専門分化がまだ進んでおらず、大学病院の救急外来でさえ、内科と小児科の区別がなく、小児科医が脳卒中の患者さんを度々診ていました。

ある日、息子が自転車で転び、頭部に外傷を負い、出血が止まらず、近くに住む留学生仲間の外科医加賀美さんのアパートに連れて行き、縫合してもらったこともありました。外科医の彼は、自宅に縫合セットを持っておられました。

商社マンの羨ましい生活ぶり

パリ勤務の商社マンのお子さんが発熱された時にも、よく往診を頼まれました。幸い入院を必要とするような子どもさんに出会わなくてよかったと、当時を振り返り、胸をなで下ろしています。

私だけでなく、同じ留学生仲間の医師たちはみんな、パリの安アパートに住んでいましたが、さすがに商社マンたちは、同世代でも、パリ16区の高級マンション、立派なシャンデリアのある部屋に住んでおられました。

フランス映画で見た世界がそこにはあり、羨ましそうに話しかけると、「今だけ。日本に帰ればただのサラリーマン生活。」と慰めともつかない言葉をかけられました。

フランス語は難しい

フランスでは、粒が長くてパサパサしている「長米(riz long)」が主流で、日本人の口に合う「丸米(riz rond)」はマイナーです。

道子は、「丸米」を買いたいのですが、いつも「長米」を渡され、挙げ句の果てには「牛乳(le lait)」パックを渡されます。小学校に通い始めていた息子が傍から一言言うと、店員が「ああ、分かった!」と、すぐに「丸米」を取り出してくれます。

日本人には、エル(l)とアール(r)を区別して発音するのは困難なようですが、日本人でも子どもはハッキリと区別できるようです。

帰国の途に

3人の子どもたちは、週に1回は、エアロメールの便箋に寄せ書きをし、日本にいる祖母に送っていました。帰国すると、母はエアロメールを大切に束にして保存していました。

今の時代なら、LINEで顔を見ながらいつでも、安価に話ができますが、当時の国際電話は大変高価で、特別な要件でもあれば別ですが使用することはほとんどありませんでした。50年前のゆったりとした時間の流れの中での生活が、懐かしく思い出されます。

二年目の半ばを過ぎた頃、INSERMからの給料も続くので、もう1年パリで研究を続けるようにとDr.Lardinoisからの誘いがあり、迷っているときに、折良く松尾保教授からのお声掛けがありました。

ラボでの研究生活は結構楽しかったのですが、ここで見聞きしている新生児病棟、集中治療室NICUでの臨床を、ぜひ自分の手でやってみたいとの思いが強く、8月末に帰国することにしました。  トップへ

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第7話 フランスよもやま話

その1 フランス人はさぞかし数学が得意なのだろう!?

東京のフランス大使館での給費留学生試験当日、控え室で面接試験の順番待ちをしているとき、数学を専攻する受験生3人と偶々同じ部屋になりました。

彼らは、黙々と、黒板1面に数式を書き連ねていきました。

私には、彼らが何を意図して書いているのかさっぱり理解できませんでしたが、数式が彼らの言語かと思うと納得がいきます。

数多くの数学者を輩出してきた国

フランスといえば、デカルト、フェルマー、パスカルなど名の知れた数多くの数学者を輩出してきた国であり、数学のノーベル賞ともいわれるフィールズ賞受賞者数は、今日でもフランスはアメリカに次いで2番目に多い国です。

日本から、数学を学びにフランス留学を目指す人たちがいるのも理解できます。

「フランス人はさぞかし数学が得意なのだろう」、「フランスでは数学が文化として根付いているのだろう」との先入観をもって、私はパリに到着しました。

つり銭の計算が遅いフランス人

売店で買いものをするとき、店員の言うことを正確に聞き取れないことから、どうしても少し大きい目の紙幣で支払おうとします。

店員は、日本の店員に比べて、ゆっくりとしたペースでつり銭を計算し、日本とは違い、先ずは小銭から出し、段々と大きな紙幣を渡してくれます。

間違いなくお釣りをくれるのかと、いつも不安な気持ちで、つり銭を受け取っていました。

「Une minute」と「Cinq minutes」

「Une minute」、「Cinq minutes」は日常会話でしばしば用いられます。フランスで生活を始めた時には、単語の意味通りに、「Une minute」は1分、「Cinq minutes」は5分のことだと思い、待っていても相手はなかなか現れません。

しばらくしてわかったのは、これらの数字にはあまり意味がないことです。

「Une minute」と言えば10分、「Cinq minutes」と言えば1時間の見当でいれば、腹も立たなくなりました。

「Une minute」は、「ちょっと待ってくれ」、「Cinq minutes」は「しばらく待ってくれ」程度の意味のようです。

フランス語は20進法、60進法

フランス語の数の数え方はかなり複雑です。数字の苦手な方はつぎの部分は読み飛ばしてください。

フランス語では、20まではそれぞれ固有の呼び名があります。21から69までの間は、日本語と同じ10進法の数え方です。

しかし60からは、60+1、60+2、・・・60+9、60+10、60+11、・・・ 60+19と数えます。

さらに、80~99に至っては、20×4、20×4+1、・・・20×4+18、20×4+19と数えます。この範囲では、由緒ある20進法の名残です。

20進法と60進法の混在するこの複雑な数え方が、パリの店員の暗算速度の遅さに関係しているのではと考えています。

一方、フランスで偉大な数学者が生まれてきた背景として、優秀な頭脳を持ち合わせた数学者には、凡人にとっては複雑すぎるこの数え方が、幼少期の脳の鍛錬に役立っているのかもしれません。

絵画にしろ、音楽にしろ、芸術には数学的思考が結構あります。これがパリで芸術の華が開いた所以かもしれません。

60進法はメソポタミア文明にその起源を遡る

いまの世の中では10進法が主流ですが、1分=60秒、1時間=60分、1日=24時間(12×2)、1月は約30日(60/2)、1年=12月=365日(約30×12)のように、時の長さを捉える際に60やその子分ともいうべき12という数がしばしば使われます。

この60進法は、紀元前3,000年頃に栄華を迎えた世界4大文明の1つである古代メソポタミア文明にその起源を遡るそうです。

その2 ベル・エポック

ベル・エポック(Belle Époque)とは、フランス語で「良き時代」を意味しています。厳密な定義はないようで、主に19世紀末から第1次世界大戦勃発(1914年)までのパリが繁栄した華やかな時代を指しており、その文化を回顧して用いられる言葉です。

フランス革命から100年が過ぎて

19世紀中頃のフランスは普仏戦争に敗れ、1871年3月には、パリ市民が蜂起して成立させた世界最初の労働者政権パリ・コミューンが成立しました。

しかし、わずか2ヶ月で崩壊、その後の第3共和制も不安定な政治体制が続きました。

19世紀末には、フランスでも産業革命も進み、ボン・マルシェ百貨店などに象徴される都市の消費文化が栄えるようになり、1900年の第5回パリ万国博覧会はその象徴です。

アールヌーボーの歴史的背景

ポール・セザンヌやクロード・モネなどの印象派画家の活躍とともに、アール・ヌーヴォーの時代でもあったのです。

アールヌーボーとは、フランス語で「新しい芸術」を意味します。

「産業革命以降、粗悪になってしまった実用品等に再び芸術性を取り戻す」とのコンセプトのもとに波及したそうです。
その結果、従来の様式にとらわれない装飾を施したり、当時の新素材を利用したりした新しい芸術が生まれました。

建築分野はもちろん、工芸品や絵画などさまざまな分野に流行したのが特徴です。日本の浮世絵、葛飾北斎による富嶽36景なども大きな影響を与えたようです。

伝説の名女優サラ・ベルナールをモデルに、ベル・エポックの精神を表現したジュール・シェレ作のポスター(1894年)がその象徴としてよく知られています。

モンマルトルの丘の麓にあるピガール広場は、パリ随一の歓楽街です。フレンチカンカンで有名な”ムーラン・ルージュ”などが立ち並びんでいました。

私が住んでいた50年前のパリには、この界隈のいたるところにベル・エポックの香りが漂っていました。当時の私の小遣いでは、少し離れたところから眺めるのみでした。

その3 パリ生活で面食らったこと、困ったこと

 郵便局での行列 文句をいうと余計に伸びる

売店でも、どこでも、いつもせかせかしている日本人と比べ、フランスでは仕事のペースが実にゆっくりとしています。いつも行列ができているのが、お金の出し入れの多い郵便局です。

待っている私がイライラし始めた時には、フランス人(多分、外国人?)もイライラし出し、窓口の局員(中年女性が多い)に、「もっと早くしろ!」と罵声を浴びせかけようものなら大変です。

しばらくは口論が続き、窓口業務は完全にストップします。急ぎでない人は、何事もないような顔で、黙って列を離れずにいます。

だが、終了の時間だけはキッチリと守ります。例え、行列が続いていようが、申し訳なさそうな顔をすることもなく、シャッターを降ろします。ここの動作は非常に迅速です。

大学食堂で羊の脳が

パリ大学に通い始めた頃には、昼食は数百人が入れそうな大きな学生食堂を利用していました。トレイを持って、好みの物を取る仕組みです。

前に並んでいた学生が、冷奴によく似た形をしたものを、トレイにとったので、私も無造作にとりました。座席に戻りよく見ると、何とそれは羊の脳の半分で、解剖の脳の標本と同じ形をしているではありませんか。

でも、折角お金を払ってとってきたものです。目を閉じて食べる決意をしました。日本でなら、醤油をかけて食べるのでしょうが、パリでは何をつけたのか?

オリーブオイルにでも浸して食べた気がします。まあ、豆腐に似た食感でしたが、二度と手にすることはありませんでした。

その後、牛の病気で、脳を介して人間にも感染するクロイツフェルト・ヤコブ病が、重大な脳障害の原因として社会問題となりました。

私が食したのは羊の脳で、牛の脳ではありませんでしたが、当時は少し心配しました。

この食材、普通のレストランで見かけることはなく、あまり一般的な食材ではなかったようです。

ウサギや鶏がぶら下げられている

フランスでは、日曜の朝にはどの町でも、市場が開かれ、大勢の買い物客で賑わいます。これらの商店の人たちは、普段はどこで何をしているのかといらぬ心配をしていました。

商店も多彩です。野菜、果物屋はもとより、肉屋、魚屋をはじめ、ありとあらゆる食材が並んでいます。衣類、家具などの日用品もあります。

一番驚かされるのは、ウサギやニワトリの足を紐で結わえたまま、ぶら下げられていることです。日本では考えられないことで、さすがに狩猟民族の血が流れているなという気がしました。

トロの刺身を味合う

真冬になると、冷凍マグロの塊が店頭に並ぶことがあります。程よい大きさのトロ部分を買って帰り、自宅で塊の表面部分を切り落とします。その中の部分をスライスすると、トロの刺身の出来上がりです。近くに住む日本人留学生に声をかけ、お刺身パーティーです。

当時のパリの冬は、気温がマイナスの日が多く、冷凍庫がなくても、窓の外に置いて置くだけで十分冷凍保存が可能でした。

自家製の数の子で正月を祝う

お正月おせち料理の定番である数の子は、日本では「黄色いダイヤ」、「海のダイヤ」とも呼ばれ、異常な価格高騰で、なかなか口にできなくなっていました。

お正月前のある日、同じ留学生仲間で食道楽の寺尾さんから、数の子の安価な調理法を伝授されました。

パリでは、ノルウエー産の数の子が極めて安価で市場に出されています。
部屋のスチームの上に拡げて、数日間置き、適度に乾燥させます。

あとは、日本でおせちを作るときの要領で、醤油、みりん、お酒などにつけて、美味しくいただきました。

 2021.9.2.         トップへ


 

第5章 新生児医療には大きな夢が

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第1話 新生児学を専門に選んだキッカケ
第2話 新生児医療には大きな夢が
第3話 日進月歩の新生児医療
第4話 周産期医療の地域化が進む 
第5話 新生児医療の移り変わり 
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 第1話 新生児学を専門に選んだキッカケ 

私が入局した神戸医科大学の小児科教室は、平田美穂教授が主宰されており、研究のメインテーマは乳児栄養学、その課題はヒトの母乳成分を分析して、人工乳の母乳化をいかに図るかでした。

小児科病棟には、1958年7月に全国第2番目の未熟児室がオープンし、新生児医療に熱心に取り組まれていました。

私の学位論文のテーマは、「乳児腸管内のビリルビン代謝」でしたが、合わせて行なっていた新生児黄疸の臨床研究が、私にとっての生涯のライフワークとなるとは思いもしませんでした。

日本の新生児学研究は、欧米に比べて歴史が浅い

日本における新生児学の研究者が集う主たる学会は、日本新生児成育医学会です。その前身は、日本未熟児新生児学会であり、さらに、その発祥を辿ると1958年4月の第1回未熟児懇談会になります。

その発起人のメンバーのお一人が恩師平田美穂教授で、東京の斎藤文男先生、大坪佑二先生、馬場一雄先生、大阪市大の高井俊夫先生と合わせて5人が発起人でした。

当初は、毎回温泉地で開催され、ドテラ姿で酒を酌み交わしながらの会であったようです(資料:日本未熟児新生児学会40回のあゆみより)。

「ドテラ会」という名が、その名残りとしてのちのちまで引き継がれ、学会の夜の懇親会には、ドテラ姿で参加するのが慣わしとなりました。

1970年代の新生児医療

1972年9月に神戸大学小児科にパリ留学から戻ると、未熟児室には、まだ新生児用の人工呼吸器はなく、未熟児の低血糖症の治療・予防法として輸液療法が開始されたところでした。

当時は、未熟児はもとより、小児病棟においても、人工呼吸器を装着することは死を意味する時代でした。

途方に暮れていたところ、1973年に麻酔科に岩井誠三教授が赴任され、新生児用人工呼吸器Baby birdを使用する機会に恵まれたのが、私にとって近代新生児医療のスタートラインです。

未熟児で呼吸障害をもつ児が生まれると、岩井教授自ら、気管内挿管用のチューブを携えて未熟児室に来られ、気管内挿管し、Baby birdに繋ぐと、あっという間に児の顔色が良くなるのを見せられて、われわれ小児科医は興奮したものでした。

麻酔科医に呼吸管理を学ぶ

我が国の新生児呼吸管理のパイオニアとして国立小児病院におられた岩井先生が、母校神戸大学の教授として戻ってこられたことにより、外国から新生児呼吸管理用の新しい機材が届くと、業者はそれらを一番に神戸に届けに来ました。

新生児の人工呼吸管理が自分たちの手で行えるようになったのは1973年が始まりで、それまで助けることのできなかった未熟児が、助かるようになったのです。

新しい医療機材の導入とともに、治療成績が上がっていくにつれ、多くの若い小児科医が新生児室に集まるようになりました。

酸素の中央配管設備はもとより、空気の中央配管もなく、未熟児室内には大きな酸素ボンベが何本も置かれ、大型の空気圧縮機が病棟に備え付けられていました。

当直医の仕事は、夜中の酸素ボンベの交換です。空気圧縮機は、長時間使用していると、タンクに水が溜まり、機能が低下するので、急遽Bag & Maskでの人工呼吸です。

六つ子が誕生、全国ニュースに

1976年1月、鹿児島で五つ子が誕生し、全員無事大きく育ち退院されたことが、明るい話題となりました。その9月に神戸で、6つ子が誕生し、全国ニュースとして大きく報道されました。実際は、うち1子が死産で、5つ子だったのですが、どの子も1,000g未満のいわゆる超未熟児です。

そのうち、620 gで生まれた女の子だけが元気に退院し、彼女は世界一の最小出生体重での生存例として話題になりました。

その後も元気に成人され、良き伴侶を得られ、大きな男の子を出産し、立派なお母さんになっておられます。

この経験は、我々新生児科医師にとって、大きな自信となりました。
この後に、本格的な新生児医療のブームがやってきます。

こども病院が新生児医療のメッカに

1970年に、須磨区の高倉台に兵庫県立こども病院が開設され、先輩の竹峰久雄先生が近代的なNICUを備えた新生児センター部長として赴任されました。

190 cmの長身の先生が、大きな手で最新の保育器の中にいる未熟児を優しく診ておられる姿は、微笑ましくも、羨ましくもありました。

こども病院の設備は、神戸大学の未熟児室に比べ、はるかに充実していました。臨床はこども病院で、研究は大学を中心にと役割分担し、お互いの人材交流も盛んに行われ、毎月1回の合同新生児カンファレンスを長年続けていました。

竹峰先生は、兵庫県全体の新生児医療ネットワークの基礎を築かれ、またその人徳から、日本全体の新生児医療ネットワークのリーダーとして活躍、われわれの良き兄貴分でした。お陰で、私自身は新生児学の研究面での仕事に専念させて頂くことができました。トップへ

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 第2話 新生児医療には大きな夢が

 未熟児の持つ生命力の強さ

人では在胎40週で生まれるのが標準ですが、半世紀前には在胎28週以後に生まれた児しか助からなかったのが、今日では在胎22〜23週で生まれた児でも助かります。

在胎28週で生まれた児は出生体重が1,000g前後です。太ももは私の親指程度の太さです。在胎23週以前に生まれてくると、眼裂がまだ閉じたままで、いかにも胎児という感じです。

未熟児保育の4大原則

呼吸の確保、体温の保持、栄養の確保、感染防止が、未熟児保育の4大原則です。これは、何も未熟児保育に限らず、小児や成人のICU患者についても言えることです。

未熟児用の保育器は、この4つの問題をクリアーするために作られたものです。もっと昔は、柳行李の中に、湯たんぽを入れて育てていたそうです。

冬場の保育には、保温が特に大切で、産室で羊水に濡れたままにしておくと、あっという間に体温が下がります。一旦下がると、なかなか元に戻らず、致死的となります。

在胎34週頃までに出生した未熟児は、十分な吸啜力と嚥下力がないので経鼻的に胃内に栄養チューブを挿入します。それでも、栄養摂取できない児には、点滴による静脈栄養をしていました。

身体は小さくても、血管は結構太く見え、そこから留置針を刺し、上手く固定すると、長期にわたり持続が可能でした。

ドクター同士がお互いにそのスキルを競い合っていました。私が知る限り、李容桂先生の手技は、群を抜いての神業でした。

新生児、特に未熟児では、免疫能が未発達で、皮膚も薄く、非常に感染しやすい状態です。私たちは帽子、ガウンをまとい、厳重な手洗いをして保育器に手を差し入れ、ケアに当たっていました。

新生児医療は危機管理そのもの

新生児医療は、1つのミスが命取りになりかねない、危機管理そのものの臨床でした。

私たちは、医師と看護師とで絶えず最新の管理マニュアルを作成し、1つのミスが命取りにならないように、チーム医療として取り組んでいました。これが、未熟児を救命する最大の秘訣です。

あの小さな新生児・未熟児たちが、数々のリスクを乗り越え、無事退院し、幸せな大人になっていく、その最初のハードルをクリアするのを手助けできることが、私にとって新生児医療がもつ最大の魅力でした。

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第3話 日進月歩の新生児医療

1970年当時の日本の新生児医療レベルは、欧米に比べて5〜10年の遅れがありました。

しかし、1975年頃から心拍呼吸モニター、新生児仕様の人工呼吸器、経皮酸素モニターをはじめとする各種ME機器が開発、導入され、新生児医療は積極的な救命医療へと大きく変貌しました。

1980年代に入ると、各種モニター、医療機器の改良が一段と飛躍的に進みました。

日本の新生児学研究が、相次いで国際的に評価される

 1980年には、藤原哲郎教授がRDS治療に対して開発した人工肺サーファクタントの臨床的有効性を報告され、1988年に市販されるに及び、未熟児呼吸障害児の治療成績が飛躍的に向上しました。

氏は、1996年に臨床医学のノーベル賞とも言われるキングファイサル国際賞を受賞されました。

1988年には、私たちが開発したアンバウンド・ビリルビン測定機器UBアナライザーが市販され、さらに、山内逸郎先生・山内芳忠先生により開発された経皮黄疸測定器は、国際的に高く評価されました。

わが国の新生児死亡率は世界一の水準を達成

わが国の新生児死亡率は欧米レベルに達し、追い越し、1980年には世界一の水準を達成しました。

さらに5年後の1985年には、わが国の未熟児救命率は欧米の医療水準に追いつき、追い越しました。出生体重1,000g未満の超低出生体重児でもその半数近くが助かるようになったのです。


グラフは、日本小児科学会新生児委員会が5年ごとに行なっていた全国調査データに基づくものです。


最近はあまり話題にはなりませんが、当時は、乳児死亡率や新生児死亡率が、国・社会の文明度を測る尺度として用いられており、マスコミが新生児医療の進歩をしばしば取り上げてくれました。

社会保険で新生児集中治療室管理料が認められる

新生児救命率の向上とともに、小さな未熟児、超低出生体重児の出生数が年々増加の一途となり、全国的にNICUのベッド数不足が大きな問題となりました。

国は、1985年から、ある一定の施設基準を満たしている新生児集中治療室(NICU)には、社会保険で新生児集中治療室管理料の算定を認めるようになりました。

しかし、1986年1月現在で認可されていたのは、全国でたったの29か所、1989年には61か所、1990年には66か所に過ぎませんでした。

日本には大規模なNICU施設が少なく、医療機器は揃えられても、児3人に看護要員3人、常時1人の医師を必要とする大人のICUに準じた施設基準をクリアできるNICU施設は限られていました。

とは言え、これまでとは桁違いの保険点数に、ようやく新生児医療が我が国においても陽の目をみる時代がやってきたと、新生児屋仲間で歓喜したのを思い出します。

新生児科医としてのアイデンティティ

私が新生児医療に従事し始めた頃には、「新生児医療」いう言葉ではなく、「未熟児医療」と「未熟児室」という呼び名が、日本では一般的でした。

私が自己紹介で、「新生児科医です。」と言うと、相手は必ず「あっそうですか、産婦人科医ですか」という答えが返ってきました。いくら私の専門が小児科学であり、その中の新生児学分野であるといっても、世間では通じませんでした。

新生児医療、NICUという言葉が世間でも知られるようになりましたが、私たち小児科医が、胸を張って「新生児科医です。」と院内、院外で名乗れるようになったのは、さらに、後になってからです。

わが国の新生児医療レベル向上の原動力

わが国の新生児医療レベルが欧米の医療水準に追いつき、追い越した、その原動力は、1人でも多くの病める新生児を救うために、全国のNICUの医師が出身大学や地域の枠を越えて、お互いに助け合い、情報交換するネットワークにあったと言えます。

日本新生児学会の理事の世代交代が進み、小川雄之亮先生、多田裕先生、仁志田博司先生、私の4人が選ばれました。1番のミッションは「新生児学」・「新生児科」・「新生児科医」というアイデンティティ確立を目指すことでした。

全国の新生児科医の大きな期待を担い、強者揃いの産科側の理事4人と激論を戦わした日々が思い出されます。古参の産科医からは、私たち4人のことを「新生児の青年将校」と揶揄されていました。

未だに「新生児科」という診療科はない

私たち世代の新生児科医として、ただひとつ思い残すことがあります。

当時、周産期医療センター、中でもNICUは、大病院の花形になっていたのですが、医師法で標榜できる診療科として、「新生児科」が最後まで認められなかったことです。

国の審査会に何度か新標榜科として申請したのですが、受け入れてもらえませんでした。トップへ

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第4話 周産期医療の地域化が進む 

厚生省心身障害研究班が大きなエネルギーに

日本の新生児医療の発展には、小川次郎先生、馬場一雄先生、山内逸郎先生たちが、リーダーとして長らくの間、活躍しておられました。私自身は、まだ班会議のメンバーではなく、松尾保教授のカバン持ちとして後ろの列に座っていました。

私がメンバーの一員に加えて頂いたのは1983年からで、昭和大学奥山和男教授が主任研究者になられた時です。その後、埼玉医大小川雄之亮教授へと引き継がれました。

当時の班会議では、100名以上の日本の第一線の研究者が集い、呼吸、栄養、感染、黄疸などハイリスク新生児のケアに関する問題について討議し、我が国の新生児医療水準の向上に大変役立ったと思います。

私自身の研究においても、多いなる刺激を受けました。

さらに、新生児医療水準の向上のためには、「ハイリスク児の管理のための地域集約化」が不可欠であるという意識は高く、石塚祐吾先生らが中心となり、1976年度厚生省心身障害予防研究「新生児緊急医療システムに関する研究」(主任研究者小川次郎)報告書が出されています。

以後も、分担研究班で、この課題は毎年討議が繰り返されていました。 

新生児搬送から母体搬送へ

我が国の新生児医療は、米国にならい小児病院の新生児科が中心で、ハイリスク新生児を新生児専用の救急車でNICUに運び込む、新生児搬送が行われていました。

1970年代の後半には、英語が堪能な小川雄之亮先生が引率される米国へのNICU見学ツアーが企画され、私と同期の姫路日赤病院新生児センター部長の梅澤芳弘先生が参加し、帰国報告をされた時、興奮のあまり、口角泡を飛ばしながら、話してくれたのが思い出されます。

その後、小さな未熟児、超低出生体重児の出生数は年々増加の1途で、その救命率の向上には、生まれてからの新生児搬送よりも、母体搬送の方が優れていることが、1985年頃からの研究班のデータで明らかになりました。

総合周産期医療センター構想を提言

本格的に、周産期の地域化の問題が独立した研究班として取り上げられたのは、1989年からです。

東邦大多田裕教授が班長となり、全国のNICUの新生児科医、産科医の協力を得て、産科ICUと新生児ICUを併設した周産期医療システムを構築するための基礎データの収集が行われました。

その成果として、人口100万の3次医療圏を周産期医療圏として設定し、その中心となる総合周産期母子医療センターの整備と、この中の2次医療圏ごとに地域周産期医療センターを整備するシステム化が必要であると提言しました。

この提言は、すぐに施策に反映されました。国は1996年より周産期医療整備事業を開始し、各都道府県に1カ所の総合周産期母子医療センターを国が指定し、国と都道府県が運営補助金を交付することになりました。

総合周産期母子医療センターは、新生児集中治療室として9床以上、母体・胎児集中治療室も9床以上もつことを条件にスタートしました。

その後、毎年、総合周産期母子医療センターおよび地域周産期医療センターの整備状況と問題点を浮き彫りにするのが研究班の役割となり、私が1998年度から2003年度までの6年間、その役を引き継ぎました。トップへ

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第5話 新生児医療の移り変わり 

新生児医療は、薬剤や手術で病気を治すだけでなく、その児が持つ生命力を最大限に発揮させ、健全な発達を支援することです。

当初の頃は、児の生命予後で医療レベルを評価できたのですが、1990年代に入ると、超低出生体重児の救命率は著しく上昇し、生存退院する児が急速に増えました。

と同時に、退院後に被虐待やネグレクトで不幸な生活を余儀なくされる児の存在が明らかになり、退院後のケア、家族支援、さらには入院中からの家族支援への関心が高まっていきました。

研究班では超低出生体重児の神経学的予後調査

厚生省研究班では、これまでの超低出生体重児の生命予後だけでなく、神経学的予後についても全国調査を行うようになりました。

1990年度に出生した超低出生体重児の就学前健診を全国の新生児医療機関の協力を得て行い、6歳時における発達予後調査を548例について実施しました。


神戸大学周産母子センター 1989年当時


その結果、77%の児は正常発達でしたが、脳性麻痺児が13%、精神発達遅滞児が18%、これ以外にてんかん、視力障害、聴力障害のほか、広汎性発達障害や自閉的傾向、注意欠陥多動障害、愛情遮断症候群、被虐待児症候群などが一般頻度に比べて高くなっていました。

これらの問題は、医療だけでなく、保健・福祉・教育関係者と連携して対応していかなければ、解決しないものばかりです。

サーファクタントの多施設共同比較対照臨床試験に参加して

これは、10年ほど遡った1985年の話です。岩手医大の藤原哲郎教授が未熟児RDS治療用に開発された人工肺サーファクタント(PSF)の多施設共同比較対照試験の委員に指名されました。

神戸大学NICUにおいては、それまでに何回かPSFを使用した経験があり、この治療薬の素晴らしさを熟知していましたので、即座に承諾しました。

PSFは、未熟児の気管内にカテーテルで直接注入するもので、注入開始後まもなくから効能が現れ、経皮酸素モニターの数字がどんどん上っていきます。

あまり血中酸素濃度が上がりすぎ、酸素中毒による未熟児網膜症にならないかと心配するほどでした。

この臨床試験の対象のRDS児とは、生後肺の拡張が十分でないために、肺からの酸素の取り込みが悪く、チアノーゼを呈し、人工呼吸器を必要とする未熟児たちです。

封筒法による抽選で、ハズレに当たると、PSFではなく、生理的食塩水を注入するだけですから、酸素不足は改善せず、人工換気を一定期間続けねばなりません。

中には、病状が悪化していく症例もあり、ギリギリのところまで辛抱し、ドロップアウトするのを防がねばなりません。

これほど効果が明白にわかる薬剤で、比較対照試験を行うのは人道的に問題があるという声が出ないか心配しました。

藤原教授は、私がアメリカ小児科学会に出席していたのをご存知で、当時の米国での医学研究の趨勢として、二重盲検試験でないと科学的に立証されたことにならないという考えが主流であることを、私が体感していると判断され、あえて委員に選ばれたような気がします。

この試験を成功させるために、全国の新生児科医を説得する役を私に与えられたようです。

1985年に始まったこの研究は、想定していたよりも順調に進み、1年間で目標の100症例余りが集まり、その有効性が立証され、1988年には市販されました。

この比較臨床試験ほど、臨床医として辛い思いをした経験はありません。その後、世界的に臨床研究における倫理面への配慮が、年々厳しくなりました。

医療における情報開示とEBMの実践

1990年代後半になると、医療における情報開示とともに、Evidence Based Medicine (EBM、証拠に基づく医学) の実践が求められるようになりました。

EBMとは、個々の患者の診察について決定を下すために、最新で、最良の証拠 (Evidence) を、よく考えて、誰からも納得ができるようにうまく利用することです。

多くの臨床研究において、完璧なランダム化対照試験を行うには大きな困難を伴うことから、次第に一定の条件下で行われるようになりました。

従って、研究データの活用には、研究データの背景を十分に分析した上で、日常診療に応用できるかどうかを、科学的に判断する必要性が絶えずあります。

注意すべきなのは、統計学的に処理された臨床データは科学的に立証されたものかも知れませんが、その結果は確率に基づくものであって、個々人に必ず当てはまるとは限らないことです。

データ中心のEBMから患者中心のNBMへ

答えが数字で出せる量的なデータは、医療者には大変好都合ですが、実際に患者から発せられる疑問というのは数字で答え難いものがたくさんあります。

患者に対して数字で、情報を提供できたとしても、その的確な評価を伴わないと、むしろ患者を苦しませる結果となります。

こうした経緯から、英国を中心にNBM (Narrative Based Medicine) という概念が生まれてきました。NBMには、数字では表現できない多くの情報が言葉として変換されていなければなりません。

われわれ医師の役割は、「量的なデータ」を個々の患者の満足に応えられる情報に変換し、患者に上手く伝えることです。それには、NBMを学ばねばなりません。トップへ

2021.10.27

加齢と相対性理論

コロナ禍と猛暑の中で、じっと自宅に籠り、周りとの関わりが減ると、時間の流れがよくわからなくなります。先のコラムには、「八〇歳を過ぎると、時の流れが加速」という見出しで書いたのですが、最近、本棚を整理していると、埃を被った「アインシュタインの時間、解き明かされる相対性理論のパラドックス」というニュートン社刊行の小冊子を見出しました。

「動いている人の時計が遅れる」

「準光速で進む宇宙船に乗っている人の時計の針は、宇宙空間で静止している宇宙飛行士の時計の針よりも、遅れた時刻を指している。」と記されています。アインシュタインの相対性理論の説明として、この「動いている人の時計は遅れる」はよく用いられています。

一日中ボーと過ごしていると、あっという間に一日が経ってしまいます。この説に従うと、あまり動かぬ高齢者の時計は、いつも齷齪(あくせく)と動き回っている人の時計に比べ、どんどん進むことになります。

動かないと、寿命が縮む?

この論理を進めていくと、高齢者が運動不足でいると、筋力低下によるフレイル(虚弱化)だけでなく、寿命そのものをどんどんと縮めているのかも知れません。今日一日があっという間に過ぎた喜んでいる場合ではなさそうです。

2021.8.16