小児科医と子どものアドボカシー

「子どもの権利」の保障を明記した「こども基本法」が新しく施行され、こども家庭庁が2023年4月に発足します。異次元の予算がつくそうですが、未だに、全貌が見えません。

医療的ケア児支援法が2021年3月に成立、昨年9月18日に施行されました。子ども・家族に具体的に反映されているのでしょうか? 法ができても、実践を伴わねば子どもたちへの真のアドボカシー(Advocacy, 擁護)とは言えません。

子どもの健康に与える社会的影響

我が国では、子ども政策といえば、まるで少子化対策のような取り上げられ方ですが、本来子どもの健康に影響を与える社会的影響に対して、より大きな注意が向けられるべきです。

子どもの貧困、ひとり親家庭、児童虐待、障害児医療などの要因は、学歴の低下、子どもの精神的健康、肥満につながり、医療政策と見なすことができます。これらの課題に小児科医が対応するには、小児科研修医時代から健康の社会的原動力に触れ、理解し、アドボカシー・スキルを開発することが求められます。

子どものアドボカシーと小児科医

子どもたちに代わって政策目標を前進させる役割を担っているのが小児科医、というDr. Shetal Shahの論文「Going Farther by Going Together: Collaboration as a Tool in Advocacy」(Pediatr Clin N Am, 2023)が最近発表されました。本論文のキーポイントとして、次の5つの項目が挙げられています。

  • アドボカシーは、健康の社会的決定要因を対象とした小児科ケアの重要な要素である。
  • 小児科医は、協力することにより、子どもたちに代わって政策目標を前進させることができる。
  • 主要な組織・パートナーと連携する。
  • 連携を成功させるには、作業を開始する前に、具体的な目的、役割、および責任を確立する必要がある。
  • 連携の構築を促進するには、年齢とアドボカシーに関する潜在的な協力体制を組織しておく。 

私が新生児学を志した動機

私が新生児医療に専念し始めた時に出会い、バイブルとして読み返した本が、当時の最先端の新生児医療の考え方や医療手技についての特集、「THE NEWBORN」(Pediatr Clin N Am, 1970)です。

その巻頭言の一節、「小児科の目標は、個々の子どもが成熟し、生産的で幸せな大人になる可能性の限界まで成長するのを助けることである。この目標は、新生児期に最も危険にさらされる。」に感動し、折に触れて引用させて頂きました。その内容には、最新の近代医療技術の大切さだけでなく、新生児のアドボカシーの考えが随所に含まれていました。

半世紀という歳月を経た今、期せずして同じ雑誌に小児のアドボカシーに関する論文が特集されていることに、その大切さを改めて痛感します。

小児科医が連携構築の核になれ

子どもの健康アドボカシーに不可欠なのが、健康への脅威を軽減する医師の行動です。さらに、個々の患者・子どもの健康アドボカシーには、臨床現場に限定されない仕事、とりわけ医師の専門的な仕事の旗印の下で行われる社会的・経済的・教育的、政治的な働きが求められています。

子どもたちを対象とした多くのコミュニティ・グループは、互いの提携を求めています。幸いなことに、小児科医は比較的尊敬されており、小児科医が中心となり、主要な組織・パートナーと連携・協力することにより、子どもたちに代わって政策目標を前進させる働きが期待されています。

2023.2.14.

小児科同門会誌投稿文

 

素晴らしい日本人の国民性

新型コロナCOVID-19の日本人の新規感染者数が、世界で最も低い水準にあることは、とても素晴らしいことです。その理由として、マスク着用率の高さ、ワクチン接種率の高さが関係していることは医学的に十分考え得ることです。

さらに、日本だけでなく、台湾、シンガポールのアジア系人種の多く住んでいる国でも、新規感染者数や死亡数が欧米諸国に比べて圧倒的に少ないことから、アジア系と欧米系の人種間での違いも指摘されるところです。

日本人はマスク着用への抵抗感が少ない

私が考える理由を挙げるなら、1番に日本人のマスク着用率の高さです。

全国的に感染者数が激減している12月に入っても、街を歩くほぼ全ての人がマスクを着用しています。3~4歳の小さな子どもまでマスクをしています。元々、日本人、とくに若者たちは、冬場になると、アレルギー対策としてマスクをしている人が少なくありません。インフルエンザの流行期には、多くの人がマスクを着用してきたという風土があります。

国から、新型コロナ対策として「マスク」と「手洗い」と言われると、多くの日本人は何の抵抗感もなく、素直に実行してきたのではないでしょうか。普段外出する機会が減った私は、マスクをつい忘れて外出し、通りに出て他人がマスクしているのを見て、慌てて取りに戻ること再三です。

さらに、ワクチン接種率の高さです。

ヨーロッパ各国では、ワクチン接種の義務化に反対するデモが繰り広げられています。彼らが、ワクチン接種を受けないのは、アレルギーなどの副作用のリスクを恐れてではなく、国家が法的にワクチン接種を義務化すること自体が気に食わぬということが理由だそうです。

欧米では、大流行時には法的措置として都市のロックダウンが布かれ、ワクチン接種も法的に義務化しようとしています。我が国でも、ロックダウンの法的強制力が問題になったこともありますが、国家から義務だとして押し付けられる前に、日本国民は自発的に行動を開始してきました。

ワクチン接種も同様です。我が国では無償化するだけで、ワクチンの供給さえあれば、高い接種率を達成したのです。

この国民性とは一体何だろう。

人に迷惑をかけてはいけないと言う日本人の公徳心の高さが、世界一低い感染者数に反映されているように思えます。

東洋と西洋の文化の違いが、農耕民族と狩猟民族とに根差しているとよく言われます。その文化が、お上の命令に素直に従う日本人の国民性、都市化が進んだ今日でもお互いを監視しているムラ社会意識に反映されているようです。

日本人のワクチン接種率が高いのも、自己防衛と言うよりも、周りの人に迷惑をかけてはならないと言う気持ちの方が優先しているように思います。

老人を大切にする日本の若者たち

スタートの遅れた日本のワクチン接種ですが、医療者に次いで、高齢者への接種が優先されました。いかに新型コロナで若者たちが重症化し難いとは言え、社会的活動の活発な若者を優先するのも防疫上あり得た策ではなかったかと思います。

高齢者におけるワクチン接種率が高いのは、自己防衛という点でも納得がいきます。日本の若者の接種率が欧米における接種率を上回っているのは、彼らが自己防衛としてワクチン接種するよりも、他人に迷惑をかけてはいけないと言う意識の方が遥かに優先しているように思います。

この素晴らしい日本人若者たちの国民性こそが、世界一低い感染者数に反映されているように思えます。

2021.12.

2020年はいろんなことがありました

新型コロナの流行も、5月末の非常事態宣言解除でホッとした途端、思わぬ大病、白血病に罹ってしまいました。しかも急性前骨髄球性白血病です。

私が小児科に入局し、最初に受け持った患者さんがこの病名で、入院後あっという間にDICを引き起こし、亡くなられたのを、病名を告げられた途端に思い出しました。

主治医からの説明で、急性前骨髄球性白血病M3型で、ビタミンA誘導体が奏功するタイプのものだろうという話を聞かされ、その日の夕方から、ベサノイドというオールトランスレチノイン酸(ビタミンA誘導体)を内服することになりました。この主治医の迅速な診断と治療の開始で、幸運にもDIC状態を無事脱出できました。

服用開始後1週間ごろより効果が現れはじめ、DIC状態を徐々に脱し、2週後には、末梢血に幼若細胞が見当たらなくなり、血小板数も白血球数も増加しはじめました。骨髄細胞を用いたPCR検査の結果から、 t(15; 17)転座が検出され、分子遺伝学的にもM3型と確定されました。

ビタミンA誘導体の内服で血液所見が改善

ビタミンA誘導体は、白血病細胞に対して分化誘導作用があり、 t(15; 17)転座が検出された細胞には,効果的で完全寛解が期待できるとのことでした。

服用開始後3週間を過ぎた頃より、ビタミンA誘導体はビタミン剤の仲間とは言え、結構副作用が強く、胃部不快感と全身倦怠感が現れ、食欲も低下してきましたが、多少の副作用は我慢しなければと、必死にのみ続けました。後半の1週間は自宅に戻り、服用を続けました。末梢血には幼若細胞がなくなり、血小板数、白血球数、赤血球数も正常化しました。

ビタミンA誘導体で血液学的には寛解を得たのですが、再発防止には他の抗がん剤との併用が望ましいとのことでした。通常の抗がん剤は高齢者には厳しすぎるとのことで、比較的副作用の少ないヒ素剤、亜ヒ酸(トリセノックス)での強化療法(地固め療法)を勧められました。

亜ヒ酸(トリセノックス)での強化療法(地固め療法

ヒ素についてネットで調べたところ、「急性前骨髄球性白血病(M3)に対して、オールトランスレチノイン酸と抗がん剤治療を行うことにより、高い寛解率と長期生存が得られるようになりました (本邦のデータ で寛解率95%、4年全生存割合84%)。再発後も80%程度の患者さんで再寛解が得られるようになりました。」 との記載を見つけました。

亜ヒ酸の機序としては、カスパーゼの活性化によるアポトーシスの誘導と関連しているようです。今から20年前の話になりますが、分化誘導に関する研究が盛んで、私たちも新生児低酸素性虚血脳障害における神経細胞の保護目的で新生児・未熟児での神経細胞の分化誘導を研究テーマにしていました。カスパーゼが、神経軸索の刈り込みなどに関連するとのことで、研究していたことを懐かしく思い出しました。

どうやら、カロチノイドも、亜ヒ酸も、M3細胞の分化誘導が鍵のようです。

ヒ素で思い出すこと

ヒ素といえば、森永ヒ素ミルク中毒事件と和歌山のカレーライスへのヒ素混入事件が思い出されます。

森永ヒ素ミルク中毒事件は、ヒ素の混入した粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者・中毒患者が出た事件で、1955年6月頃から主に西日本を中心として起きました。当時の厚生省の発表では、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が、1万人以上の乳児に起こり、100名以上の乳幼児が死亡しています。

私自身が小児科に入局した昭和40年には、関連のカルテが大切に保管されていたのをよく記憶していますが、私自身がヒ素中毒の患者さんを診察したことはありません。今もなお、その時の後障害に苦しめられている方がたくさんおられます。

いよいよ地固め療法開始へ

「亜ヒ酸は,毒でもあるが、薬でもある」と覚悟を決めて治療をお願いすることにしました。

日本で用いられている標準的なプロトコールに基づいて治療が開始されました。週5日、5週間で計25回の亜ヒ酸(商品名:トリセノックス)の点滴静注投与が1クールで、これを2回行う予定です。

薬の能書を見ると、そのトップには、真っ赤な文字の「警告」が20行にわたり書かれており、一つ間違うと死に直結する注意事項や、副作用が小さな文字でぎっしりと2ページにわたり書き込まれています。中でも、QT間隔の延長が要注意とのことで、投与前には毎回心電図でチェックを受けました。

最初の2週間は、ほぼ予定通り、治療が進められましたが、3週目ごろより、全身倦怠感と胃腸障害、食欲も低下し始めましたが、クレアチニンや肝機能のマーカー酵素の変化は見られませんでした。

主治医からは、心電図、血液検査で異常がないうちはプロトコール通りの治療を勧められました。多少の副作用が見られるぐらいでないと抗がん剤の効果も現れないだろうと辛抱していました。

次第に耐え難くなり、体調の変化を訴え、また、QT間隔も次第に延長し始め、閾値とされる500msecに近づく日もあったので、次第に投与間隔が開くようになり、何とか、1回目のクールが終了しました。

第2クールの開始早々に

血液検査も、心電図も異常がなかったために、予定通り第2クールが始まりました。2回目のトリセノックス点滴終了後も特段変わりはなかったのですが、その夜から全身倦怠感、腹部不快感と手足の指先のしびれ感・知覚異常、テレビを観ていると左眼がチカチカし、すぐに疲れ、左耳にも痛みが現れ始め、日を追うごとに症状が強まっていきました。

これまでに経験したことのないような倦怠感が襲ってきました。これは、てっきり亜ヒ酸の副作用に違いないと、翌日、主治医に、もう私の体力は限界で、亜ヒ酸療法には耐えられない旨、お伝えしました。

実のところ、私自身はこの地固め療法にはあまり積極的ではなかったのです。医師の立場からは、より完全な寛解を目指しておられることは私も十分に理解できたので、折り合いを見つけて治療を続けてきたのですが、今回の私の様子から、これ以上の治療継続は無理と判断していただきました。

早速、退院の日取りも決まりました。左鎖骨下に埋め込まれていたポートも除去され、治療からの解放感で、全身倦怠感、腹部不快感は多少楽になった気がしていました。

退院前日の夜に、妻と娘が、主治医から病状経過の説明を受けるために病室に来てくれていました。そこへ、主治医が、検査データを携えて、良い知らせがありますと病室に来られました。今回のPCR検査の結果が届き、「完全寛解です。」と告げられました。

家族はみんな喜んでくれましが、私は嬉しいというよりも、ホッとした気持ちでした。これで、大手を振って、退院できることになりました。

思わぬ災厄が待ち受けていた

抗がん剤ヒ素療法から解放されて退院しました。猛暑はすでに峠を越えてはいましたが、まだ日中は30℃以上の暑さが続いていました。

退院前日から、左頭部から顔面にかけての疼痛、顔面の発疹が現れ、ヘルペスと診断されました。ヒ素の副作用とばかり思い込んでいた全身倦怠感、胃腸障害、味覚異常、食欲不振は、どうやら、ヘルペスウイルスの影響だったようです。ヘルペス罹患により、私の身体の免疫力低下が実証され、程よくヒ素療法を終えることができました。

カロチノイドと亜ヒ酸は、白血病細胞だけでなく、私の全身細胞をも分化誘導し、アポトシース作用を与え、私の古びた老化細胞をも除去してくれたようです。腎機能は回復し、髪の毛や体毛に黒いものが増えた気がします。記憶力もアップした感じです。若返ったと、調子に乗り過ぎて、アクセルを踏みすぎると、必要な細胞までアポトーシスを起こしかねません。要注意です。

医療は本当に難しい

 近年の医療は、診療ガイドラインが策定され、標準化が進められてきました。一定の診断基準を満たせば、プロトコルに沿った治療が画一的に進められています。副作用の強い抗がん剤の使用において、各種検査所見に異常が出なければ、個々の患者の訴えはなかなか理解され難いことが、今回の経験からよくわかりました。

私ですら上手く病人の気持ちを表現することが難しいのに、新生児や小児たちは、日々の医療者の行いをどのように感じ、受け入れているのでしょうか。

「最小の介入こそ、最高の医療」という、未熟児医療の原点を思い起こしました。

みなさんのお陰です

彼岸の一歩手前まで行っていた私ですが、現代医療のお陰で、また現世に戻ってくることができました。

的確で、素早い診断と治療を施して下さった医療スタッフの皆さんに心から感謝しています。挫けけそうになる私を、絶えず見守り、勇気付けてくれた妻や家族、新型コロナ流行で直にお会いできませんでしたがメールで励ましの便りをくれた友人・同僚の皆さん、ありがとうございました。

一日、一日を大切に、これからも生き続けたいと思っています。

令和2年12月

「若葉」名誉会長の一言


 

いのちを考える

若葉2020.2.

昨年暮れのある日、体調を崩し、外出も控えていた。所在無げにしていたところ、うっすらと埃を被った本棚に、「般若心経」(新井満著)を見つけた。その横には、瀬戸内寂聴さんの「般若心経」も並んで置かれていた。
いずれも2005年頃の発行で、大学を定年退官し、こども病院にいた頃であろう。なぜこの時期にこれらの本を手にしたか定かな記憶はないが、人生の折り返し点を迎え、手にとってみたのであろう。瀬戸内寂聴さんの「般若心経」は半分ほど読んだところに栞が挟まれたままになっていた。

「般若心経」は本文266文字からなる経文であり、天台宗の開祖最澄、真言宗の開祖空海によって伝来した仏教であり、宗派を問わず詠まれている。「色即是空」、「空即是色」は大変有名な文言であるが、解ったような、解らないような話である。

新井満氏の「般若心経」
新井満氏の「般若心経」は70頁ほどの小冊子であり、一気に通読できる。『無数のいのちが寄り集って、あなたといういのちを成している』という文言に惹きつけられた。

あなたを産んでくれたのは父と母だ。
その父にも、また父と母がいて、
その母にも、また父と母がいる。
その父と母にも、さらにまた父と母がいる。
あなたから十代前までさかのぼるならば、
あなたにつながる父と母は千人以上になる。
さらに二十代前までさかのぼるならば、
父と母の数は百万人を超える。
即ち、無数のいのちが寄り集まって、
あなたという命を成しているのだ。その中の
わずか一つのいのちが欠けたとしても、
あなたといういのちは成りたたない。

お彼岸には、先祖代々の墓前で、手を合わせているが、これまで自分がこれほどまでに多数のいのちの集合体とは思ってもみなかった。この世に生を受けた私たち一人ひとりは、障害の有無にかかわらず代々引き継がれてきた唯一無二の大切な存在なのだ。

我が国には、障害者の日常生活及び社会生活を総合的に支援するための「障害者総合支援法」が平成25年4月に成立した。「地域社会における共生の実現」という言葉も盛り込まれた。

ところが、平成28年には、障害者は生きる権利がないという理由で19人の障害者を刺し殺した相模原障害者施設殺傷事件が、さらに、平成30年には、政府中央省庁の8割にあたる行政機関で、3,460人の障害者雇用が水増しされていた問題が発覚し、政府要人の障害者への不用意な発言も相次いでいる。

超格差社会にある日本では、障害者に対する差別的発言や姿勢が、以前よりも目立ってきたように思える。新型出生前診断(NIPT)もいのちの選別という大きな問題を抱えている。科学技術の進歩と人間の幸せとは何か、医師として、小児科医として考え続けたい。

令和2年2月  傘寿を迎えて

 

子どものトランスジェンダーへの対応を

多様な性を受け入れる社会へ

お茶の水女子大学が本年7月に、戸籍上は男性で心の性別が女性のトランスジェンダー学生の受け入れ決定を発表し、日本も本格的に多様な性を受け入れる社会になったようです。2004年に施行された性同一性障害特例法により、20歳以上・未婚・生殖機能がない・他の性別に係る身体の性器に近似する外観などの条件を満たせば家裁に性別変更を申し立てられるようになり、2014年末現在で家裁が性別変更を認めた数は5,166人になっています。諸外国の統計等から推測すると、性同一性障害(GID)を有する者は、凡そ男性3万人に一人、女性10万人に一人の割合で存在すると言われています。

我が国では、GIDは思春期以後の問題ということで、小児科領域で取り上げられるのは外性器異常やホルモン異常症をもつ児などに限られ、自分の性別に違和感を持つだけのTransgender(トランスジェンダー、性別越境者)への取り組みはほとんどなされてきませんでした。しかし、乳幼児期から我が子の心の性、Genderへの違和感をもつ親も少なくありません。

性の決定には、出生前因子が強く関与

子どもの行動パターン、「男らしさ」、「女らしさ」は、子どもの生物学的な性と大抵は一致していますが、ときに一致しないことがあります。これらの行動パターンは、生物学的な性よりも、男性ホルモンの影響を受けた脳の性差によると考えられています。

性の決定には、出生前因子が強く関与しています。男の胎児では、妊娠6週から24週にかけて精巣からのアンドロジェンの分泌が増加する”アンドロジェン・シャワー”と呼ばれる時期があります。アンドロジェンの作用により、男性器が発達し、また脳の男性化が起こると言われています。近年の研究から、胎児テストステロン量の差により、脳梁のサイズ・非対称性とともに、脳の発達、認知・行動における性的二型性が形成されるようです。また、脳機能の画像解析により、男性の脳は知覚と協調動作とが容易に結びつくように構成され、女性の脳は分析モードと直感的な処理モードが連携し易いように設計されていることも分かってきました。

トランスジェンダーの子どもたちにメンタルヘルスを

Olson KRら(Pediatrics, 2016)の論文によると、米国では、自らの生物学的性とは逆の性へと社会的に転換したトランスジェンダーの子どもたち、つまり、性同一性を支持されて社会的に公然と生きることを認められた子どもたちを、誰もが社会で目にするようになったそうです。その結果として、以前にはGIDの子どもたちに、不安とうつ病が非常に高い割合で見られていたのが、社会的認知が進んだことから、トランスジェンダーの若者(3〜12歳の思春期前期)の抑うつ症状は軽減したそうです。

トランスジェンダーへの社会的認知と理解が進む我が国においても、これらトランスジェンダーの子どもたちや家族への適切なアドバイスが求められる時代になってきたと言えます。

小児科医は新しい時代への対応を

ホルモンの働きに左右される心の性、Genderは、単純に「男」と「女」に二分化するのは不可能で、いろんな程度の「男らしさ」と「女らしさ」が存在します。履歴書から性別欄がなくなる日もそう遠くはなさそうですし、いま盛んに言われている男女平等や男女共同参画と言った言葉もやがて死語となる日が来ることでしょう。

Shumer DEら(Adv Pediatr. 2016)によると、米国においては、医師の診察を受けている性的不快感を有する小児および青年が年々増加しており、これまで1万〜3万人に1人と言われていたのが、最近の調査ではじつに200人に1人に達したそうです。日本の私たち小児科医にとっても、トランスジェンダーの子どもたちと家族のメンタルヘルスサポートが、新しい日常診療に加わってくること必至です。

若葉  2019 「名誉教授からの一言」  平成30年12月記

 

 

小児科医が医療の花形となる日が

若葉「名誉教授からの一言」2018

 最近、いろんなところで人工知能、AIが話題です。どうやら、多くの考えは、最後まで存続する職業が医師、とりわけ精神科医と小児科医だそうです。いずれも、不確実性の中で患者と対応していることが理由のようです。

AIの診断力が、医師の診断力を上回る

データ化された診療情報に基づくAIの診断力が、医師の診断力を上回る日はそう遠い話ではなさそうです。最初に駆逐されるのは、客観的な情報を自分たちで独り占めにしてきた専門医グループです。

客観的な情報に乏しい未分化な診療科ほど、AIが苦手とする医療の領域です。日常検査のデータ一つとってみても、年齢、性別だけでなく、成長発達度で大きく違います。ひとつひとつのマスが小さいので、中々精度の良い基準値を得るのが困難です。これが小児医療、とりわけ発達がらみの小児医療です。

ゴールが判りにくい小児医療

数年先、否、十数年先、どんな大人になっているかわからないのが、子どもの病気です。このような最終判定が難しい医療は、AIが最も苦手とする医療です。

小児科医は、何も心配せずに乳児健診の外来に来られたお母さんに、「あなたのお子さんは発達障害児になるでしょう」と、いきなり宣告しません。お母さんに、いらぬ心配をさせたくないという思いからです。もちろん、いま話しておかねば、子どもに取り返しがつかなくなる不利益が子どもに発生すると判断した時は、すぐに話をしますが、そんなことは滅多にありません。

親が受容しやすい状況づくりを

きっとみなさんも、子どもの状態を、お母さんの性格を勘案しながら、話をされていると思います。心配性の親には、あまり落ち込まないように、楽天的で何も気づかぬ親には少しずつ小出しに話します。たとえ子どもに障害があったとしても、親が前向きに取り組める受容しやすい状況づくりを優先するのが小児科医です。

Evidence Based MedicineはAIに任せ、私たちはNarrative Based Medicineで。

やっと、小児科医が医療の花形になれる日が目の前に。

2018年2月記

「書く」ということ

若葉「名誉教授からの一言」 2017

年老いての研究活動

2003年3月に退官し、間もなく14年になります。数多くの異物が入ったサイボーグのような身体ですが、元気に、多忙な日々を過ごしています。ここ数年、森岡一朗教授の率いる神戸大学の新生児グループに加えていただき、40歳近く歳の離れた若手ドクターと黄疸研究を再開しています。「その歳で今さら」と思われそうですが、当の本人は大学に顔を出すのを楽しみにしています。

昨年4月からは、阪神北広域こども急病センターに加え、神戸市北区のしあわせの村にある重心児施設「にこにこハウス医療福祉センター」の河崎洋子施設長をはじめとする4人の小児科女医軍団からの甘い誘いがあり、人生最後の仕事と気負い、嬉々として週1回出かけています。

全く本を読まなかった少年が

小さい頃の私は、野球ばかりして、ほとんど家の中におらず、全く本を読まない少年でした。算数は得意だったのですが、国語はとても苦手でした。大学時代も研究は好きでしたが、なかなか論文に仕上げる能力に欠けていました。しかし、文章を書かずにおれない大学生活が長かった所為で、先輩の先生がたのご指導もあり、いつの間にか筆をとるのが億劫でなくなり、また速く書けるようになりました。

エッセイを書き始めたきっかけは

私の書いた原稿の中で最も自慢の力作は、神緑会誌に寄稿した「私の臨死体験」です。1999年に狭心症発作でPTCA治療を受けた時の話です。この一文はかなり多くの方々の目に止まり、私が書いたどの論文よりも反響が大きいものでした。これが自信となり、エッセイを書くのが苦しみでなく、楽しみになりました。

二つの連載が励みに

兵庫県予防協会の季刊誌に連載の「赤ちゃんの季節」は、第1回が2001年秋で、16年を経過した今も続いています。また、こども病院時代に始まった毎月発行の「兵庫県地域子育ネットワークだより」のコラムにも、毎月寄稿しています。

ここまで続けられるのは、読者の方々からの暖かいお褒めと励ましの言葉です。何よりも私を勇気づけてくれたのは、脱稿前の妻の厳しい査読にありました。これらのエッセイは、時々の私の思いを凝縮した、日記帳ならぬ、月記帳のようなもので、折々の出来事を振り返ってみるのが今では楽しみの一つです。

平成29年2月記

 

阪神淡路大震災の当日に思ったこと

若葉「名誉教授からの一言」2017

阪神淡路大震災から20年ということで、大々的に報道されていますが、私個人の心情としては、もう二度とあのような地震を経験したくありませんし、正直なところ当時のあの情けない映像はもう見たくないという思いです。でも、あの地震を知らない子どもたちが成人式を迎えることになりますので、幸運にも一命をとりとめたことに感謝しつつ、私自身の記憶を頼りに、震災当日のことをお話ししましょう。

突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞う

地震発生が午前5時47分という早朝で、6時起床を予定していた私は、微睡みながら、まだ布団の中にいたことが幸いしました。突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞い、床に叩きつけられることの繰り返し、背を丸くし、じっと耐え忍ぶだけ、哀れなものでした。揺れも漸く治まりかけた時に、隣で寝ているはずの妻に声をかけても返事がありません。真っ暗闇の中、辺りの様子が全く分からず、不安に思い、もう一度「お前、大丈夫か」と声高に叫ぶと、ようやく「すごかったね」というか細い声に安堵しました。

頭の中はもう真っ白に

幸いにも、北海道へ流氷を見に行く予定にしていた妻は、枕元にスノーブーツを置いていたので、自由に動き回ることができ、私の靴も瓦礫の中から探し出してくれました。パジャマの上に手当たり次第に重ね着し、玄関までたどり着くのも大変だなと思っていたら、寝室の窓枠が吹っ飛び、塀も倒れていたので、何の苦労もなくすぐに建物から脱出することができました。近隣の倒壊した建物中に閉じ込められている人々の救出の手伝いをし、一段落したところで、国道2号線のガードレールに腰を落とし、頭の中はもう真っ白な状態でした。

六甲山が隆起したのもわかる気が

辺りがようやく白み始めると、ふだんは建物で見えないはずの六甲の山並みが、眼前に迫ってきました。六甲山頂は今回の地震で12cmほど高くなったそうです。六甲山は1回の地震で数10cmずつ隆起し、それを何千回も繰り返し、100万年かけて今の高さ約千メートルの高さになったということです。私は、自然界の営みのほんの一瞬に出くわしただけですが、山の隆起については十分に納得です。

入院患者さんたちは全員無事でした

いち早く見舞いに駆けつけてくれたのが、三里さん姉妹です。三里さんから車を拝借して、大学にたどり着いたのが昼過ぎでした。10階にある小児病棟はかなり損壊していましたが、入院患者さんたちは全員無事であったとの報告を、当日当直であった飯島先生、母子センター芳本先生から受け、安堵しました。最も危なかったのが、医局のソファーで寝ており、本の下敷きになるのを免れた飯島先生でした。

神戸大空襲時さながらに

震災当日夜、6階にある医局の窓から外を眺めていると、四方八方から炎が燃え上がり、すぐ近くの荒田町まで炎が押し寄せていました。一晩中夜空を焦がしていたその光景は、朧げながら脳裏の片隅にあった太平洋戦争での神戸空襲時を思い起こさせるものでした。

ボスニアの人々に比べたら

その後も、震度3〜4の余震が絶え間なく起こってはいましたが、本震以上の強い地震はないということで、さほどの不安感はありませんでした。当時は、ボスニア紛争の真っただ中でした。3年半以上にわたる戦闘が全土で繰り広げられ、死者20万人、難民・避難民200万人以上の大変悲惨な戦争です。爆撃に怯える市民の様子が、連日新聞・テレビで報じられていました。真っ赤に染まった夜空を見上げながら、終わりの見えない戦争に比べると、1回きりの震災の方がまだマシかと、自分を慰めていました。

同門の先生の中に被災された方はたくさんおられましたが、命を落とされた方が一人もおられなかったことは、不幸中の幸いでした。この先、数十年、数百年後には、必ずまた遭遇するでしょう。震災は一瞬の出来事です。できることは、一人一人が自らの生活空間の安全性をふだんから熟知しておくことです。震災は、命さえ守れれば、戦争と違い、翌日から怯えることなく立ち直れるのです。

2015年1月17日記

明治、昭和、そして平成

若葉「名誉教授からの一言」 2016

平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」

平成27年秋の神戸大学医学部のホームカミングデーで、病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺にある京都帝国大学医学部の初代小児科教授の平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」と、設立代表者である長澤亘(ながさわわたる)先生について話をする機会を得ました。

関西における近代小児科学の草分けである平井先生と兵庫県地方会の生みの親である長澤先生を歴史上の人物と思って調べていたところ、私自身のこれまで生きてきた75年間、時計針を逆方向に回すと、何と1865年、慶応元年。ちょうどお二人がお生まれになった年に当たることに気づきました。

そこで、明治維新直前の、西郷隆盛が薩長同盟の成立や王政復古に大活躍していた時代にタイムスリップし、明治、昭和、平成に思いを巡らせてみた。

明治の文明開化  近代医学の黎明期

明治維新後、欧米文明を取り入れた日本の近代化は急速に進み、医学はドイツ医学の影響を強く受けて発展しました。ドイツでコルツ教授に師事し、小児科学を専攻し、帰国した弘田長(つかさ)先生が、東京帝国大学医科大学初代教授に就任したのが1889年(明治21年)12月です。

平井毓太郎先生が東京帝国大学医科大学を卒業した1889年(明治21年)には、まだ東京帝国大学には小児科学講座はなく、平井に教えを説いたのは内科学のベルツ博士でした。平井もドイツに留学した後、1902年(明治35年)に京都帝国大学医学部の初代小児科教授に就任されました。弘田も、平井も、神戸港から多くの人に見送られて船に乗り、ドイツに向かったとのことです。

長澤亘先生が兵庫県地方会を設立した

長澤は、1889年(明治21年)に県立神戸医学校卒業後、1893年(明治25年)に東京帝国大学医学部小児科撰科入学し、小児科学の研鑽をつみ、2年後には「ウッヘルマン氏小児科学」の翻訳出版されました。東海道本線の新橋駅・神戸駅間の全線が開業したのが1889年(明治22年)なので、開通後まもない列車で上京したことになります。

神戸に戻った長澤が、兵庫県地方会を設立したのは1903年 (明治36年)です。まだ近代小児科学を本格的に学んだ医師が兵庫県下には皆無の時代で、全国で4番目の小児科地方会でした。

当時の世相をみると、1885年(明治18年)頃から、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換、兵力倍増の軍拡計画が進められ、1894年(明治27年)には、朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐり清国との間で日清戦争、その10年後の1904年~1905年には、老大国ロシア帝国との間での満州を主戦場とした日露戦争においていずれも勝利を収め、大日本帝国は世界の「五大国」へと成り上がった時代でした。しかし、最後には悲劇的な太平洋戦争に突入していったのです。

戦後の高度経済成長と医学の進歩

私が生まれた1940年は太平洋戦争直前、医学部を卒業したのは、1964年(昭和39年)で、ちょうど戦後20年に当たります。医学生時代には邦文の医学書がまだ少なく、英語、ドイツ語の教科書で医学を学んだ時代です。

維新後に活躍された先達と同じく、同級生の多くが新しい医学を学ぼうと米国へ、ドイツへと留学した時代です。私は1970年にパリ大学医学部に留学、新生児学を学びました。新生児センターのNICUに人工呼吸器がずらりと並んでいるのをみた時には、日本の医療レベルとのあまりの差に受けたショックは今でも忘れられない。

1964年は、東海道新幹線が開業、10月には東京オリンピック開催と、戦後からの復興、世界第2位の経済大国へと高度成長を遂げた節目の時代でした。1972年にフランスから帰国。我が国の新生児医療は飛躍的発展には、我々世代の留学時代の経験が大いに役立ったように思います。10数年後の1980年代半ばには、我が国が「新生児死亡率世界一」を達成し、われわれ世代の大きな誇りとなっている。

平成の大改革 グローバル化の時代

明治の文明開化と戦後の復興、いろんな点で重なって見えます。この70年の間に、隣国では朝鮮戦争が、アジアではベトナム戦争があったが、日本は戦争を免れてきたことは何よりの幸せでした。

戦争こそありませんでしたが、日本人の意識、価値観が大きく変わりました。

日本は経済至上主義へとシフトし、まさに「平成の大改革」です。大学は独立法人化し、「グローバル化」、「イノベーション」を合言葉に、経営努力が求められる時代となりました。成果の見える研究、とくに経済的価値のある研究が評価され、成果の見えにくい教育は後回しの感が否めません。

ICT時代ですから、「グローバル化」は不可欠ですが、何事もAmerican standardのグローバル化はないでしょう。教育において、デジタル要素が多い知識についてはまだしも、アナログ要素の強い精神性については、標準化、グローバル化は不向きです。

ロボット技術が進化した時代になっても、最後まで残る職業は教師と医師と言われています。疾患のロボット診断ができたとしても、人の病を治すには、患者対医師の、人と人の関係、アナログ要素が不可欠だからです。時流に流されることなく、しっかりと医の原点を見つめてください。

平成28年1月記

お薦めしたい本 内村鑑三著 「代表的日本人」
日本が近代化を進めていた明治時代、1908年(明治41年)に、キリスト教的思想家として知られる内村鑑三(1861~1930)が、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人を取り上げ、英語で、日本人の精神性を世界に向けて発信した本。
内村は、「明治維新以後、学校が知識を得て立身出世するための踏み台となってしまった。学校の役割、使命はそこにはない。学校とは「真の人間」なるための場所である。それを思い出さねばならない。」と述べている。彼が現代の教育現場をみれば、いかに語るであろうか。

 

2014年、午年に因んで

若葉「名誉教授からの一言」 2014

昨年は、アベノミクス、オリンピック東京招致と久方ぶりに明るいニュースの多い年でした。さて、今年は午年。「午」の本来の読みは「ご」で、「杵(きね)」が原字だそうです。前半(午前)が終わり、後半(午後)が始まる位置、その交差点が正午です。草木の成長期が終わり、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しています。

のちに、覚え易くするために動物の馬が割り当てられました。 馬は「物事が”うま”くいく」「幸運が駆け込んでくる」などといわれる縁起のいい動物です。午年生まれは、もともと楽天家で、バイオリズムの変動が激しく、運気の落ち込みを感じないひとが多いようです。

「核黄疸」が超早産児で問題に

私自身の昨年は、大変エキサイティングな1年でした。かつての研究テーマであった「核黄疸」が超早産児で問題になっており、30年以上前に開発したUBアナライザーの出番が再び巡ってきたことから、森岡一朗講師を中心に若い大学院生の横田先生、香田先生らと、飯島教授の心強いご支援も頂き、神戸UB懇話会を立ち上げ、毎月1回話し合いの機会を持つことができました。黄疸に関心をもつ関連病院の先生、加古川西の米谷先生、森沢先生、姫路日赤の五百蔵先生、こども病院の坂井先生、高槻の片山先生らも加わり、共同研究を開始することができました。

この10年間、新生児学の研究から遠ざかっていた私は、ブランクを取り戻さねばなりません。幸い、最近ではPubMedの助けを借りれば、自宅においても資料収集が可能な時代となり、時間にゆとりのある私は、一気にファイリングすることができました。その結果、我が国では黄疸への関心をもつ新生児科医が少ないために、黄疸研究が新生児医療の進歩の中で取り残されていることを知りました。

超早産児の救命率が著しく向上した中で、生存退院しても神経発達障害をもつ児がかなり多い現実。多くの施設では超早産児の黄疸管理指針がないままにケアされており、気がついたときには重症黄疸になっていた例があり、あるいは黄疸に気付かれずに新生児期を過ごし、フォローアップではじめて脳MRI所見、ABR異常、難聴などから核黄疸を強く疑わせる例が少なくありません。

いまさら私の出番ではないかも知れないとは思いつつも、若い新生児科医に再考を促さねばとの思いから、秋の日本未熟児新生児学会で講演の機会をつくってもらいました。森岡先生らと中国の広州市での国際核黄疸シンポジウムにも参加し、諸外国の黄疸研究者との旧交を暖めることもできました。

さあ、今年は午年。肉体は下り坂ではありますが、気分は楽天的に、駆け抜けていきたく思っています。

歳とともに学んだこと

歳に関係なく、「幸せ」は達成感から。

手を伸ばせば、手に入る「幸せ」、いくら手を伸ばしても無理だったのが、歳月が経てば手の届くものもある。

歳がいってから、初めて手に入れると、本当に「幸せ」を感じる。

若いうちは、せいぜいやり残すがよい。

いろんな「幸せ」の引き出しに、大切にしまっておくことだ。

2014年1月記