ワクチン接種でホッと一息

新型コロナで亡くなるのは高齢者で、年齢とともに指数関数的にその率が高まります。不要不急の外出を控えろと言われると、巣篭もりしかありませんでした。でも、ワクチン接種で、気分的には随分と目の前が明るくなった気がします。

新型コロナ流行前まで毎月のように会っていた同年代の友人とは、時折メール交換するくらいで、これまで経験することがなかった水入らずでの家内との二人暮らし。当初はお互いに馴れない生活で、気まずいものがありましたが、コロナ生活も一年を過ぎると、だいぶん生活のコツ、距離のとり方のコツがわかってきたように思います。

毎日報道される感染者数の増減に一喜一憂しながらの生活、これまでにいろんな雑誌への寄稿文が溜まっているので、ホームページのリニューアルを計ったり、ブログを立ちあげてみたりしています。

2021.6.29.

ホンアジサイとガクアジサイ

6月26日

梅雨の合間を見つけて、神戸市の森林植物園にあじさい(紫陽花)を観に行きました。ここでは、数多くの品種のあじさいが育てられていますが、今が見頃のホンアジサイとガクアジサイを紹介しましょう。

ホンアジサイとガクアジサイ

どちらも、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種です。ホンアジサイは大きな装飾花をもつことから、街中のあちらこちらの庭先で見られ、馴染みの深い品種です。ホンアジサイの原種が、日本に自生するガクアジサイと言われています。

「移り気」「浮気」「高慢」と「謙虚」

ホンアジサイは「移り気」「浮気」「高慢」というネガティブな花言葉を持つのに対して、ガクアジサイの花言葉は「謙虚」となっています。これは、ホンアジサイよりもガクアジサイの方が、装飾花の数が少なく、その姿が謙虚に見えることにちなんでいるとされています。2021.6.26

 

第1章 私は戦後民主主義教育の第1期生

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第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入
第2話 民主主義教育の第1期生
第3話 自然との触れ合い
第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙
第5話 戦後たった5年で明るい光が
第6話 中・高校時代は高度経済成長期

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第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入

私は、尼崎市開明地区という阪神尼崎駅南の旧市街で、1940年2月に生まれました。真珠湾攻撃は翌年の1941年12月8日です。

3年後の1944年11月には、アメリカ軍はマリアナ諸島の基地からB29爆撃機部隊による日本本土への空襲を開始しました。

東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸という大都市をつぎつぎと爆撃目標とし、私が住んでいた尼崎は大阪に付随する大都市域として、再三にわたり空襲を受けました。

疎開したその夜に、B29爆撃機による空襲

1945年3月13日夜から14日未明にかけての焼夷弾空襲で、自宅が炎上しました。私自身はまだ5歳になったばかりでハッキリとした記憶はありませんが、母親がその時の恐ろしさ、苦労について、再三再四、話してくれました。

自分の住んでいる所が爆撃目標として位置付けられていることは、地区の住民には予測できていたようです。

幸運にも、空襲当日の13日の昼の間に、父親が必要最小限の家財道具を積んだ荷車に、私を乗せ、10kmほど離れた尼崎市稲葉荘という田園地帯に疎開し、辛うじて難を逃れました。

でも、妹の出産を直近に控えていた母親だけは、すでに爆心地の産院に入院していました。周囲一帯が炎上する中で一夜を過ごすことになりましたが、無事出産を終えたそうです。

神戸大空襲の記憶

稲葉荘への疎開後も、アメリカ軍による焼夷弾攻撃は日増しに激しくなり、空襲警報のサイレンがなると、防空頭巾を被り、防空壕に避難したことをよく覚えています。

神戸市内には、川崎航空機(現川崎重工業)、川西航空機(現新明和工業)といった航空機メーカーが存在していたことから、激しいアメリカ軍の攻撃目標となり、市街地は壊滅的打撃を受けました。

6月5日の神戸大空襲の模様は、父親に手を引かれ、自宅近くの武庫川の堤防から見ていましたので、鮮明に脳裏に焼きついています。

阪神淡路大震災で一晩中夜空を真っ赤に染めていた神戸長田と、空襲時の光景には重なるものがあります。 トップへ

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第2話 民主主義教育の第1期生

終戦の翌年4月に、国民小学校に入学しました。しばらくは、教科書も、鉛筆も、ノートもありませんでした。ランドセルだけは、従兄のお下がりの牛皮のものを担いでいました。

学校は二部授業といって、早行きと遅行きがありました。学校で何を学んでいたのか、全く記憶にありません。

新しい戦後の教育改革として、連合軍総司令部の指導・監督のもとに、学校教育法が制定され、新制小中学校が発足したのは、私が小学2年生になった1947年の春です。

私が入学したのは1946年4月ですから、最初の1年間は何か空白だったようです。

戦後教育は、戦前の教育とは対照的に道徳・修身は一切なくなっており、規範のない、自由なものであった気がします。

当時の教育こそが民主主義教育なのだと、戦後75年を経った今、改めて感じます。決まったモデルがないために、自由気ままに、自らの考えで物事に取り組んでいくのが、われわれの学年の習性になったようにも思えます。

軍用ジープが行き交う国道2号

私が住んでいた稲葉荘と武庫川を挟んで対岸にある甲子園ホテルが、米軍に接収されており、朝夕には国道をジープなどの軍用車が行き交っていました。

兵士たちが沿道に子どもを見つけると、チョコレートやチュウインガムなどを放り投げてくるのです。当時の私は、成長盛りで空腹であったと思いますが、なぜか、それに手を出した記憶は全くありません。 トップへ

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 第3話 自然との触れ合い

私は、小学校4年生まで、周りには田んぼばかりの稲葉荘で過ごしました。夏には田んぼの間を流れる小川でドジョウやタニシをとり、秋にはイナゴをとって持ち帰ると、母が食材として重宝してくれました。

夏には、近所の友だちと武庫川に泳ぎによく出かけました。川での遊泳は、突然深瀬があったりして、毎年命を失う子がいたようです。

父親が、竹を焼いて折り曲げ、作ってくれたソリで、草の生い茂る土手の上から滑り降りていました。

今でも悔しい思い出

私は、体格が良かったので、年長の男の子とよく遊んでいました。その子は、どこで手に入れたのか1匹のヤンマ(大型のトンボ)の胴体に糸を結びつけ、頭上に飛ばすと、別のヤンマが寄ってくるのです。

いとも簡単にそれを網で捕まえています。指をくわえて見ていた私に、捕えたヤンマの1匹を惜しそうにくれました。

早速、家に持ち帰り、胴体に糸を結わえて、同じように飛ばしたのですが、私のヤンマには他のヤンマが全く近づいてきません。その子がおとりにしていたのは雌ヤンマだったのです。

その後も雌ヤンマを手に入れることができなかった無念さは、今でも残っています。

私は運動が大好きでしたので、近隣の男の子たちと、来る日も来る日も。日が暮れるまで野球をしていました。

「阪神タイガースこどもの会」にも入会しました。甲子園球場での集いに参加し、土井垣、藤村、別当、若林らの有名選手を近くでみられたのは、楽しかった思い出の一つです。

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第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙

小学3年生の時に、学校から先生に引率されて、生まれて初めて観たのが、この映画『鐘の鳴る丘』です。

筋書きはよく覚えていませんが、画面ひとつひとつからの衝撃が、脳裏に刻まれ、同級生とともに涙した記憶は鮮明です。

『鐘の鳴る丘』は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送された菊田一夫原作の人気ラジオドラマです。1948年(昭和23年)に松竹で映画化されました。

そのあらすじは

戦地から復員した主人公修平が、不幸な子供たちを明るく導こうと信州の緑の丘の上に少年の家をたてて暮すという、戦災孤児救済問題をテーマにした作品です。

私が覚えているのは、戦災で家や家族を失った孤児たちが、肩を寄せ合って野宿し、駅で靴磨きをしたり、盗みやケンカに明け暮れ、生きる望みを失いかけている浮浪児たちの姿だけです。野坂昭如の小説「「火垂るの墓」と重なるところが多々あります。

当時の私も、つぎの当たった衣服をまとい、食糧難の中にあったと思いますが、戦災孤児たちの姿を見て、両親と一緒に同じ屋根の下で過ごせている自分に、幸せを噛み締めていたにちがいありません。 トップへ

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第5話 戦後たった5年で明るい光が

終戦から5年で、日本は戦後の暗い時代を抜け出し、1947年8月には推定3万5千人いた浮浪児が、一人また一人と上野の街を離れていったそうです。(朝日年鑑1948年版による)

私自身も、小学5年生の春から、小児科医院を開業していた叔父が急逝したために、母がその後を継ぐことになり、再び生家に近い旧尼崎市街の寺町に戻ることになりました。もうその時には、私の周りでは、何の不自由もない日常生活をとり戻していたように思います。

日本の経済復興の裏には、アジア隣国の戦火が

第二次世界大戦直後から、アジア・アフリカの植民地では、支配国である連合国に対して独立運動が激化していました。

急速に表面化した米ソの「冷戦」のもとで、大規模な国際紛争に発展し、とりわけ、隣国での朝鮮戦争(1950〜53)により、占領軍の支配下にあった日本は、特需により大きく経済復興に結びついたようです。

また、フランスの植民地からの独立を目指したベトナムに対するアメリカ軍の介入により、泥沼化したベトナム戦争は1975年まで続くことになります。

ここでも、日本は軍隊こそ派遣していませんが、日本から多くの軍事資材が運び込まれ、東アジアにおける独立戦争に伴う軍需景気が、戦後日本の高度経済成長を支えていたようです。

最近再び、「自由で開かれたインド太平洋」戦略という言葉を耳にしますが、私と同じか、上の世代の人間には、何かキナ臭い、不吉な予感がしないでもありません。

サンフランシスコ講和条約

日本と48の連合国との間に結ばれた第2次大戦終結のための平和条約が、1951年9月8日サンフランシスコで調印されました。時の日本代表は吉田茂首相です。

当時の私は、小学6年生でした。それまで日の丸の旗をほとんど街で目にしなかったのですが、至る所で日の丸の小旗がうち振られ、日本中がお祭りモードでした。

これで、敗戦国日本が、再び国家として国際社会から認められたという安堵感があったようです。

この条約は、日本の主権・平等を承認するものでしたが,外国軍隊の日本駐留継続は認めたままでした。

さらに、同時に締結された日米安全保障条約により、その後も日本は対米従属下に置かれたままです。 トップへ

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第6話 中・高校時代は高度経済成長期

1950年代に入ると、何かもが新しく生まれ変わっていく時代でした。私は、中学は芦屋市立山手中学校、高校は兵庫県立神戸高校に通いました。

中学入学時(1952年)は、床板が軋む木造の仮設校舎でしたが、1年生の2学期からは、山手に聳える白亜の新校舎に移りました。阪神芦屋駅から30分以上かけて急坂を毎日通い、足腰が鍛えられました。

高校も同じく、六甲山の中腹です。眼下には、神戸港から阪神間、大阪まで、大阪湾全体を見下ろせました。でも、神戸製鋼所の林立する煙突からの黒煙が、風向きによって校舎に押し寄せてきました。

大型の超豪華外国客船が神戸港に入港する時には、授業中の静かな教室に、汽笛が響き渡ってきます。下校時には、友人と船内見学に行き、外国人船員と英語で話せたことも素晴らしい体験でした。

 

柔道部活に明け暮れた日々

高校に入学するや、すぐに父親の勧めもあり、柔道部に入ることにしました。中学時代にも多少の経験があり、体型的にも柔道が適していると判断したからです。

柔道・剣道などの日本の伝統的な格闘技は、戦後数年間、進駐軍により禁じられていました。

神戸高校の前身の神戸一中には、嘉納治五郎という大先輩がおられます。

ところが、私が入部した時には、柔道場はなく、図書館横の場所を仮道場として使っていました。練習前には畳を担いできて敷き、練習後はまた元に戻すという日々でした。

私たちの学年は、これまでの先輩よりも、人数も多く、兵庫県大会では上位に食い込める存在でした。

当時は、大学受験は二の次、三年生の秋の大会が終わるまで部活を続けるのが当たり前でした。

練習が終わり、帰宅し、夕食が済ませ、机の前に座ると、途端に睡魔に襲われます。そのような時は、躊躇なく布団に入り、朝早く起きて、勉強することにしていました。

 

中高の友人は、生涯の付き合い

中高の友人は、異なる分野に進みました。歳を重ね、現役を退いた今、何か時計の針が反対向きに回るように、親交が日々深まっています。

2021-7-2、2021-7-20更新   トップへ


 

mRNAワクチンが世界中の人々を救う

2012.6.19.

 ハンガリー出身の66歳の科学者、カタリン・カリコ博士が研究開発した「メッセンジャーRNAmRNA)」技術によるワクチンにより、世界中の人々が新型コロナウイルスから救われようとしています。

彼女は、mRNAワクチン開発の偉大なパイオニアの一人である。逆境にも負けず、この革新的な方法を信じ続け、ファイザー、ビオンテック、モデルナの超迅速なワクチン開発・実用化を可能にしたのです。多くの人が、彼女が将来ノーベル賞を手にすると見ています。

私もこのワクチンの2回目の接種がようやく済み、巣篭もり閉塞感から解放された思いです。明日620日で、兵庫県の非常事態宣言も解除され、多少は気兼ねなく外出できそうです。

日本でのワクチン接種は、欧米に比べて接種開始が遅れ、その予防効果はオリンピックに間に合いそうではありません。1日も早く、若者層にまで接種が円滑に進むことを願っています。

mRNAワクチンとウイルスベクターワクチンについて

2021.6.8.

ようやく日本でも新型コロナウイルス感染症(COVID-19)に対するワクチンの接種が本格化しています。
新規プラットフォームワクチンとしては、mRNAワクチンとウイルスベクターの2種類があり、現在, 我が国で承認されているのはファイザー社製のmRNAワクチンと、アメリカの製薬会社モデルナが開発したワクチンです。いずれにおいても、国内での治験の結果、中和抗体の上昇が認められたそうです。イギリスの製薬大手アストラゼネカのは、ウイルスベクターワクチンです。 

mRNAワクチンとは

現在, 我が国で用いられているファイザー社製のmRNAワクチンは, 脂質ナノ粒子などのキャリア分子に抗原タンパク質をコードするmRNAを封入した注射剤です。
mRNAを脂質ナノ粒子 (LNP) で包み、筋肉注射を行うとmRNAは筋肉細胞内に入り、細胞質で直ちにタンパク質が作られる。そのタンパク質は、細胞内の酵素でプロセッシングを受け、MHCクラスIに提示されます。すると、細胞性免疫が活性化されます。
一方、細胞に発現している完全な形のウイルスタンパク質は、異物であるために、細胞が死ぬと、このタンパク質は抗原提示細胞へと輸送されます。細胞内でプロセッシングされた後、MHCクラスIIに提示され、やがて液性免疫の活性化へとつながります。
つまり、mRNAワクチンは、擬似的なウイルス感染を体内で生じさせ、細胞性免疫、液性免疫の両方を活性化する技術なのです。

mRNAワクチンは、インフルエンザ、HIV, ジカ熱,などに対する感染症予防の臨床試験が開始されています。

 ウイルスベクターワクチン

ウイルスベクターワクチンは, ヒトに対して無毒性または弱毒性のウイルスベクターに目的の抗原タンパク質をコードする遺伝子を組み込んだ組換えウイルスを使用しており, ヒト体内で複製可能なものと不可能なものがあります。
ウイルスベクターワクチンの利点としては, 抗原タンパク質発現の安定性, 細胞傷害性T細胞応答誘導, アジュバントが必要ないことなどが挙げられています。しかし, 使用するウイルスベクターによっては, ヒトゲノムへのウイルスゲノム挿入変異による発がん, ウイルスベクターに対する既存免疫によるvaccine failure, ウイルスベクターそのものによる病原性, 低力価,などのハードルが指摘されています。
COVID-19に対するウイルスベクターワクチンとしては, Oxford/AstraZenecaのワクチンがすでに英国で使用許可を受け, 接種が開始されています。このワクチンで使用されているチンパンジーアデノウイルスベクターは, アデノウイルスベクターで問題となる既存免疫がヒトにおいては極めて稀と考えられ, 他の新興再興感染症に対するワクチンとして開発が進められてきたものです。
参照 IASR Vol. 42 p36-37: 2021

これまでのワクチン

これまでのワクチンは、感染の原因となるウイルスや細菌をもとに作られてきました。成分の違いから、大きく「生ワクチン」「不活化ワクチン」「トキソイド」に分けられます。

 生ワクチン
生ワクチンは、病原体となるウイルスや細菌の毒性を弱めて病原性をなくしたものを原材料として作られます。「ロタウイルス」、「BCG(結核)」、「MR(はしか、風疹)」、「水痘(水ぼうそう)」、「ムンプス(おたふくかぜ)」が代表的な生ワクチンです。

不活化ワクチン
不活化ワクチンは、病原体となるウイルスや細菌の感染する能力を失わせたもの(不活化、殺菌)を原材料として作られます。
「ヒブ」、「肺炎球菌」、「B型肝炎」、「ジフテリア・百日咳・破傷風菌・ポリオ(四種混合)」、「日本脳炎」「インフルエンザ」が代表的な不活化ワクチンです。

トキソイド
死滅した細菌の毒素を無毒化したワクチン。「ジフテリア」、「破傷風」が代表的なトキソイドワクチンです。これらは不活化ワクチンにも分類されます。

桂林訪問の思い出

唐招提寺障壁画展で水墨画を観ていると、2012年9月に訪れた桂林のことが思い出されました。

反日デモの渦中での中国訪問
2012年9月11日に日本政府が尖閣諸島3島の国有化を宣言したために、中国の各都市では反日デモが行われていました。9月15日の土曜日には、日中国交正常化以降最大規模の2005年の中国における反日活動を超える規模となる反日デモが中国各地で発生し、日本企業への大規模な襲撃が引き起こされている最中でした。

上海婦幼保健院との医学交流
2012年9月16日から、上海婦幼保健院において、新生児医療の日中医学交流のために私たち一行は上海を訪れました。上海婦幼保健院は、宋慶齢元国家副主席 (上海出身)が、設立された産科小児科病院で、年間数千の分娩を扱い、近代的なNICUも完備されていました。2日間にわたり、学術講演会、意見交換会を行い、上海郊外での地域周産期医療提供体制についても見学することができました。
会議では、中国側の手厚い配慮のおかげで、反日活動とは縁のない雰囲気で、私どもは普段通りに振る舞うことができていました。

ただ事ではない桂林訪問
会議終了後、現役で働いている医師たちは、直ちに帰国の途につきましたが、私と仁志田先生は、すでに現役を退いており、自由な活動が可能な身でしたので、かねてから望んでいた桂林に行くことにしました。
上海から桂林に向かう国内便に乗ると、隣の座席の中国人が大きく広げた新聞には、「打倒小国日本」というバカでかい活字が目に飛び込んできました。
ここで初めて、「これはただ事ではない。」と感じました。でも、仲間が五人いるし、うち一人は中国人で大変親日家の通訳顧振申さんなので、さほど不安感はありませんでした。
その顧振申さんも、事態の異常さに気づいたのか、私たちに「あまり大きな声で日本語を話さないように」と耳打ちしてくれました。

それでも幻想的な桂林の水墨画風景
観光船やイカダによる漓江下りでは、カルスト地形による特徴的な形の山々と、その間を縫って流れる川の風情を、象が水を飲んでいるような象鼻山、コブのあるラクダのような駱駝岩などユニークな桂林の水墨画風景を満喫できました。
陽朔での夜は、中国で有名な映画監督、張芸謀がプロデュースする、陽朔の美しい自然をバックに繰り広げられる1時間ほどのショーまで観ることができました。

中国滞在中は、さほど私自身には危機感がなかったのですが、帰国すると家内からものすごい非難の言葉を浴びせかけられました。

2021.6.4記

唐招提寺御影堂障壁画展をみて

神戸市立博物館では、東山魁夷の唐招提寺御影堂障壁画展が4月末から6月6日まで開催されています。宣言解除を待っていたのですが、制限緩和もあり、家内の誕生祝いをかねて、昨日午後に鑑賞に出かけました。

鑑真和上千二百年忌を記念して、国宝鑑真和上坐像安置のための御影堂が1964年に現在地に移築し、当初の姿に復元されました。東山魁夷は和上の強い精神力への讃仰の心から制作を引き受け、1970年から10年以上の歳月を費やして、唐招提寺御影堂障壁画を完成したのです。

障壁画「山雲」、「濤声」から伝わる精神的力強さは、コロナ禍の現代人を勇気付けてくれます。東山魁夷は、神戸で少年時代を過ごしており、六甲の山・海が影響しているのかもしれません。


唐招提寺御影堂障壁画山雲(部分)1975


唐招提寺御影堂障壁画桂林月宵(部分)1980

2021.6.3.

反日デモの渦中での桂林旅行の思い出