最近の世相から、思うこと三つ

若葉「名誉教授からの一言」   2013

昨年末には、中学2年生のいじめ自殺が、年が明けると、高校2年生の体罰から自殺という悲しい出来事が相次いで起こっています。自殺死に追い込まれなくても、その何十倍も、何百倍もの「いじめ」や「体罰」が全国で繰り広げられているよう思えてなりません。また、年々増加する母親による乳幼児虐待と、子どもたちの近くに位置する小児科医として、子どもたちを取り巻く社会環境が余りにも悪すぎるのを看過するわけには行きません。

その1. 問題は、親世代を含めての徳育に

いじめ事件が起こると、生徒へのアンケート調査が行われます。事実確認だけなら、先生が生徒に直接話を聞けば済むことで、なぜ生徒にレポートさせるのか悲しくなります。同じ屋根の下にいて、face-to-faceの会話ではなく、レポートでないと伝えられない、これが、毎日顔を合わせている教師と生徒のコミュニケーションでしょうか。

私が学生であった頃には、「大学の自治」ということで、キャンパス内への警察の介入には徹底的に抵抗していました。大学人としての誇りでした。しかし、常軌を逸した全共闘の暴力行為で、学園への警察の介入に対する抵抗感がなくなったようです。

医療現場も、教育現場もモンスターに怯えています。社会全体でモンスター狩りをしないと、性善説に立つ医療者や、教師は萎縮し、結果的に子どもたちを不幸にしてしまいます。親世代向けの「人のみち」の再教育が必要です。

その2. ならぬことはならぬものです

新春から綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」がはじまりました。第1回目を観ただけですが、私自身は日本人の心のルーツに触れた思いで、今後の社会的反響が楽しみですます。

会津藩の砲術指南の山本家に生まれた八重は、広い見識をもつ兄・覚馬を師と仰ぎ、裁縫よりも鉄砲に興味を示し、会津の人材育成の指針“什の掟”(子弟教育7カ条)「ならぬことはならぬもの」という理屈ではない強い教えのもと、会津の女として育っていきます。

明治元年に、板垣退助率いる新政府軍に対し、最新のスペンサー銃を会津・鶴ヶ城から撃つ女、その姿は「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれています。のちに、京に出て、アメリカ帰りの夫、新島襄の妻となった八重が、男尊女卑の中、時代をリードする「ハンサムウーマン」となっていく物語です。

会津藩における藩士の子弟を教育する組織、什(じゅう)は、6歳から9歳までの児で組織されています。「什長」というリーダーが選ばれ、年長児が組の長となります。年長者を敬う心を育て、自らを律することを覚え、団体行動に慣れる為の幼年者向け躾を、「遊び」と「お話」を通じて学習します。子どもたちが子どもたち自身で学習するこの仕組みは、大変素晴らしい制度だと思います。

そこでは、7つの什の掟が、必ず毎日繰り返されます。

  1. 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
  2. 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
  3. 虚言を言ふ事はなりませぬ
  4. 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
  5. 弱い者をいぢめてはなりませぬ
  6. 戸外で物を食べてはなりませぬ
  7. 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです。

第七項は現代の価値観に合いませんが、その他は日本人だけでなく、人種、国籍に関係なく世界中の人々にも当てはまるものです。このような躾は、「教育」ではなく、「学習」です。それには、大人からではなく、年齢の近い年長児から自分の目で学ぶのが効果的で、社会性の芽生え始めた4〜5歳から小学校低学年期が最適です。

昨今の親をみていると、我が子に対していかにも自信無げに「しつけ」を行っているように思えます。人として許されること、許されないことは、「ならぬことはならぬもの」として、毅然とした態度で我が子に接して欲しいものです。この「ならぬことはならぬものです」は、現在、NN運動として会津若松の地域コミュニティ活動に取り入れられているそうです。

その3. 大人の世界ではコンプライアンスを

神戸大学も法人化して、半民間化したため、一般企業のように監査室や監事のポストができました。私もこれから2年間、神戸大学の監事の職に就くことになりました。

監査には、会計監査と業務監査があり、その役割を一言で言うと、大学人がお行儀よく、教育、研究に従事しているかをチェックして、学長に進言することです。要するに、コンプライアンスの大きい組織体であるよう見守る役割です。

医療の領域で用いられているコンプライアンスは、肺のコンプライアンス、服薬に対してコンプライアンスという語が用いられていますが、企業社会でいうコンプライアンスとは、「公正・適切な企業活動を通じ社会貢献を行なうこと」です。


コンプライアンスは『法令遵守』とだけでない

コンプライアンスを『法令遵守』とだけとらえるのは間違いです。法律を守るのは当然のことであり、それは最低限のレベルに違反していないだけです。これを逆手にとり法の不備をつき「法令に違反していない」と、違法ギリギリの行為をしている企業もありますが、このような行為は企業の社会的信用を失い、取り返しのつかない事態になります。

国立大学も法人化により、自立した経営が求められるようになりました。お金が絡んでくると組織ぐるみの不正が発生する可能性が生まれます。また、従前なら大学人には許されていた、一般社会からみた「非常識」は許されなくなりました。教育機関には、一般企業人よりも、より厳しいコンプライアンスが求められるようになっています。人の命をあずかる医療も同じです。

医療におけるコンプライアンス

医療におけるコンプライアンスを考えるに当たって大切なことは、患者はいつも弱者であるということです。医療者と患者は決して対等の立場にはありません。一つ一つの医療行為が、什の掟、「五、弱い者をいぢめてはなりませぬ」に当たらないか、相手の無知につけ込んでの「四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」に当たっていないか絶えず心したいものです。

医療行為というものは、法令だけに留まらず、医療倫理に基づくところが大です。医療倫理は、地域、文化などにより多様化しており、医療技術の進歩とともに時々刻々変化しています。医療倫理は、医療技術の進歩にいつも遅れてついてきます。新しい医療技術を取り入れる場合には、倫理規定がまだ追いついていないために、違反かどうか明白にはなっていません。

「ならぬことはならぬ」の強い信念で

そこでも、結局のところ、「ならぬことはならぬ」の強い信念で医療者自身が、所属する組織が、他の規範となるべく、積極的に法令や条例以上の医療倫理・社会貢献を遵守する行動が求められます。神戸大学小児科教室がコンプライアンスの大きな、素晴らしい教育・研究・臨床の組織として、日本の、世界の規範となることを念じています。

2013年1月記