私の研究回顧録 中村 肇

神戸大学最前線研究・教育・産学官民連携情報誌 2006.5

役立ったパリ大学留学

大阪万博が開催された1970年春からフランス政府給費留学生としてパリ大学医学部Port Royal病院新生児研究センターのMinkowski教授のもとに留学する機会を得ました。欧米の文献からある程度の知識はあったものの、日本では見たことがなかった人工呼吸器十数台が並ぶ新生児室に案内されて、医療内容のあまりの差にカルチャー・ショックを受けました。
パリ大学には2年半の留学で、核黄疸(新生児の黄疸による脳障害)予知に関する研究に従事していましたが、センターには世界中から高名な研究者が集い、激しく討論する姿に刺激を受けました。そこで得た多くの研究者との面識が、その後の私の研究生活に大いに役立ちました。

高度経済成長と新生児医療

高度経済成長を遂げた日本ではありましたが、帰国当時の日本の医学レベルは欧米に比べてなお5~10年の遅れがありました。しかし、1975年頃から近代科学文明の成果であるME機器、石油製品による医療器材が新生児医学領域に波及してきました。あっという間にわが国の新生児死亡率は欧米レベルに達し、追い越し、5年後の1980年には世界一の水準を達成しました。
新生児学が小児科学の一分野として認知され、新生児医療という言葉が広く知られるようになったのもこの頃からです。

UB AnalyzerとFDA認可

私自身は、新生児黄疸の研究を続け、核黄疸予知のための方法を開発し、臨床応用を目指していました。1985年の米国小児科学会で、私たちがArrows社と共同開発したUB Analyzerが核黄疸予知のために有用であることを発表したところ、Audrey K. Brown教授をはじめとする米国の黄疸を専門とする学者たちから高い評価を受け、FDAの認可も得られました。追って、わが国でも厚生省の承認認可が得られ、広く臨床応用されるようになりました。爾来、私たちの定めた光線療法、交換輸血療法基準が普及し、核黄疸による脳障害が全くといってよいほど見られなくなりました。

阪神淡路大震災を経験して

教授就任した1989年は、まさにバブル絶頂期。発展した新生児医療により千グラム未満で出生した超低出生体重児でも半数以上が助かるようになりました。
ところが、必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接するようになりました。
さらに、1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地にある大学小児科として「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行うことにより,医療のあり方を見直す良い機会となりました。

これからの医療は、「治す」から「癒し」へ

二十世紀最後の四半世紀は,医学研究でも,医療でも,絶えず「もの」中心の科学至上主義の時代でした。多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となっています。
二十一世紀の医療では、疾病を「治す」から、「癒し」へと、新しい医学のパラダイムを求めて研究を進めていきたいものです。

神戸大学名誉教授
兵庫県立こども病院院長
1940年尼崎市生まれ、1964年神戸医科大学卒。1989年神戸大学医学部小児科学教授、2000年10月~2002年9月附属病院長、2003年3月退官。
2001年兵庫県科学賞受賞。著書に、新生児学(メディカ出版、共著)、小児保健学(日本小児医事出版、監修)、小児の成長障害(永井書店、監修)など。