教育基本法改定と大学 – 60年安保世代が思うこと –

若葉「名誉教授からの一言」  2007

教育基本法の改定とは

いま教育が初等教育から大学教育まで多くの問題を抱えているがゆえに、安倍内閣では教育基本法を一刻も早く改正しようとする動きに結びつき、あっという間に法案が成立してしまった。恥ずかしながら、私自身は教育基本法案が上程されるまで、現行法も新しい法案もじっくりと読んでいませんでした。

中身のない改革のための改革か

HPを検索し、読んでみたがよくわからない。朝日新聞に「国家主義の傾向懸念」という見出しで掲載されていた立花隆氏の論文を読むと、なおさら問題点が判然としなくなりました。

問題点が何かと問われても明解に人に説明することができない。どうやら、改革ばやりの昨今の風潮である中身のない改革のための改革、何か変化させねばという焦りからくるナンセンスな改革主義の一つと考えれば納得がいくのですが。

今の教育が抱えている諸問題は、決して教育基本法に問題があるわけではなく、改定したところで解決する問題ではなさそうです。

私の学んだ戦後教育と今の教育

私は、1940年2月生まれであり、敗戦翌年の1946年4月に小学校入学という戦後教育の一回生です。教育基本法が施行されたのが1947年ということだから、絶えず手探りの中で教育を受けてきたことになります。

従来法の第一条(教育の目的)、第二条(教育の方針)をみると、極めて当たり前のことが書かれており、何の違和感もありません。とりわけ、第二条の教育方針に書かれている「学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によって、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。」は、我々の世代にとって過去の国粋主義に決別し、新しい生き方を指し示すものでした。

「大学の自治」は守らねばならないもの

私が学生時代、否、ごく最近まで、「大学の自治」は守らねばならないものと、時の政権に対峙して、大学人は闘っていました。ところが、バブル崩壊後の低迷する経済の中で、日本のとる道は「科学による経済立国」しかないという経済界の認識が支配的となり、経済至上主義が大学運営にまで及ぶところとなりました。

文部科学省が、研究費という札束で、大学の教育・研究を支配する体制を作り上げていったのです。国立大学が法人化した今、「大学の自治」という言葉は完全に死語となり、大学人がそれを話題にすることもなくなりました。それどころか、研究費獲得額レースに狂奔する大学人の姿をみていると、これから一体どんな人材が大学から輩出されていくのか杞憂しています。

大学運営が経済至上主義でいいのか

かつては、教育者や医者は、清貧をもって尊し、金銭を口にするのは賎しいこととされていました。今は経済抜きでの大学運営・病院運営は考えられない時代となっています。教育・研究の評価、医療の評価において経営を第一義とする現状をみていると、目先の利に走る分野が優先され、非採算性部門の切捨てが当然のごとく進められています。米国流の競争社会、格差社会をモデルとして、この現状を容認するならば、それまでですが、日本がもつ古来からの美学はもはやそこにはありません。

新しい教育基本法案第七条には、

新しい教育基本法案第七条には、「大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。」という新しい条文が新設されています。言い換えれば、企業のニーズに応える研究・人材育成が大学の使命となったのです。時の政権に利し、富を生み出す可能性のある研究は重要視されるが、哲学などの人文科学系の研究は軽んぜられる。

しかし、その2には、「大学については、自主性、自律性その他の大学における教育および研究の特性が尊重されなければならない。」と記されています。その実現には、これから大学人がどのような姿勢をとるかによるのです。

本音ばかりでは世が荒む

安倍内閣になるや否や、核武装の是非を口にする時代となりました。非核三原則を国是とした私の世代の人間には考えられないことです。昔から、核保有を是とする輩もいましたが、決して表立って口にすることはありませんでした。

本音と建前

これまでの政治家は本音と建前を上手に使い分けて世を治めていたが、昨今の政治家の言動を見ていると、本音で話し、何が悪いかと開き直る。一見明快でマスコミ受けするが、内容は軽薄で、極めて短絡的なものの考え方しかできなくなっています。

私自身を振り返ってみると、戦後派として建前よりも本音で生きてきた方ですが、あれほどまでに建前を無視することはできません。世の中本音ばかりが横行すると、人間関係は刺々しい、殺伐とした社会となります。建前があるからこそ、人間として奥行きが出、伝統、文化が伝承されていく気がします。

今こそ、小児科医が

「聖域なき改革」を旗印に小泉内閣がスタートして以来、教育、医療の分野への経済原理の持ち込みが一気に加速し、教育、医療を荒廃させました。経済利益のためには人を使い捨てにする企業、リストラ、格差社会と、社会的弱者を生み出しました。

子どもの自殺・いじめを、学校教育の問題と捉える向きもありますが、本音でしか生きられなくなった大人の競争社会の様相をメデアで毎日みていると、子どもたちの純な心に刺々しい楔が打ち込まれていくのです。

教育基本法を変えたところで、決して子どもの自殺、いじめは減らない。子どもは宝、子どもは未来と、念仏を唱えてみたところで、今の大人の生き様をみていると、決して自分たちが大切にされているという実感はないでしょう。

育児支援といっても、育児をする親の環境が優先し、育児される子どもの環境に配慮したものでしょうか?

育児のみならず、ビジネス中心に動き出した教育・医療も同じです。そこには教育を受ける学生の視点、医療を要する患者の視点が欠けています。子どもも、医療を要する患者も、ともに社会的弱者です。

この社会的弱者と日々接する我々小児科医こそが、ビジネス中心で切り捨てられていく弱者の立場に立って、彼らの権利を守るために活動せねばならない。