明治、昭和、そして平成

若葉「名誉教授からの一言」 2016

平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」

平成27年秋の神戸大学医学部のホームカミングデーで、病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺にある京都帝国大学医学部の初代小児科教授の平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」と、設立代表者である長澤亘(ながさわわたる)先生について話をする機会を得ました。

関西における近代小児科学の草分けである平井先生と兵庫県地方会の生みの親である長澤先生を歴史上の人物と思って調べていたところ、私自身のこれまで生きてきた75年間、時計針を逆方向に回すと、何と1865年、慶応元年。ちょうどお二人がお生まれになった年に当たることに気づきました。

そこで、明治維新直前の、西郷隆盛が薩長同盟の成立や王政復古に大活躍していた時代にタイムスリップし、明治、昭和、平成に思いを巡らせてみた。

明治の文明開化  近代医学の黎明期

明治維新後、欧米文明を取り入れた日本の近代化は急速に進み、医学はドイツ医学の影響を強く受けて発展しました。ドイツでコルツ教授に師事し、小児科学を専攻し、帰国した弘田長(つかさ)先生が、東京帝国大学医科大学初代教授に就任したのが1889年(明治21年)12月です。

平井毓太郎先生が東京帝国大学医科大学を卒業した1889年(明治21年)には、まだ東京帝国大学には小児科学講座はなく、平井に教えを説いたのは内科学のベルツ博士でした。平井もドイツに留学した後、1902年(明治35年)に京都帝国大学医学部の初代小児科教授に就任されました。弘田も、平井も、神戸港から多くの人に見送られて船に乗り、ドイツに向かったとのことです。

長澤亘先生が兵庫県地方会を設立した

長澤は、1889年(明治21年)に県立神戸医学校卒業後、1893年(明治25年)に東京帝国大学医学部小児科撰科入学し、小児科学の研鑽をつみ、2年後には「ウッヘルマン氏小児科学」の翻訳出版されました。東海道本線の新橋駅・神戸駅間の全線が開業したのが1889年(明治22年)なので、開通後まもない列車で上京したことになります。

神戸に戻った長澤が、兵庫県地方会を設立したのは1903年 (明治36年)です。まだ近代小児科学を本格的に学んだ医師が兵庫県下には皆無の時代で、全国で4番目の小児科地方会でした。

当時の世相をみると、1885年(明治18年)頃から、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換、兵力倍増の軍拡計画が進められ、1894年(明治27年)には、朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐり清国との間で日清戦争、その10年後の1904年~1905年には、老大国ロシア帝国との間での満州を主戦場とした日露戦争においていずれも勝利を収め、大日本帝国は世界の「五大国」へと成り上がった時代でした。しかし、最後には悲劇的な太平洋戦争に突入していったのです。

戦後の高度経済成長と医学の進歩

私が生まれた1940年は太平洋戦争直前、医学部を卒業したのは、1964年(昭和39年)で、ちょうど戦後20年に当たります。医学生時代には邦文の医学書がまだ少なく、英語、ドイツ語の教科書で医学を学んだ時代です。

維新後に活躍された先達と同じく、同級生の多くが新しい医学を学ぼうと米国へ、ドイツへと留学した時代です。私は1970年にパリ大学医学部に留学、新生児学を学びました。新生児センターのNICUに人工呼吸器がずらりと並んでいるのをみた時には、日本の医療レベルとのあまりの差に受けたショックは今でも忘れられない。

1964年は、東海道新幹線が開業、10月には東京オリンピック開催と、戦後からの復興、世界第2位の経済大国へと高度成長を遂げた節目の時代でした。1972年にフランスから帰国。我が国の新生児医療は飛躍的発展には、我々世代の留学時代の経験が大いに役立ったように思います。10数年後の1980年代半ばには、我が国が「新生児死亡率世界一」を達成し、われわれ世代の大きな誇りとなっている。

平成の大改革 グローバル化の時代

明治の文明開化と戦後の復興、いろんな点で重なって見えます。この70年の間に、隣国では朝鮮戦争が、アジアではベトナム戦争があったが、日本は戦争を免れてきたことは何よりの幸せでした。

戦争こそありませんでしたが、日本人の意識、価値観が大きく変わりました。

日本は経済至上主義へとシフトし、まさに「平成の大改革」です。大学は独立法人化し、「グローバル化」、「イノベーション」を合言葉に、経営努力が求められる時代となりました。成果の見える研究、とくに経済的価値のある研究が評価され、成果の見えにくい教育は後回しの感が否めません。

ICT時代ですから、「グローバル化」は不可欠ですが、何事もAmerican standardのグローバル化はないでしょう。教育において、デジタル要素が多い知識についてはまだしも、アナログ要素の強い精神性については、標準化、グローバル化は不向きです。

ロボット技術が進化した時代になっても、最後まで残る職業は教師と医師と言われています。疾患のロボット診断ができたとしても、人の病を治すには、患者対医師の、人と人の関係、アナログ要素が不可欠だからです。時流に流されることなく、しっかりと医の原点を見つめてください。

平成28年1月記

お薦めしたい本 内村鑑三著 「代表的日本人」
日本が近代化を進めていた明治時代、1908年(明治41年)に、キリスト教的思想家として知られる内村鑑三(1861~1930)が、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人を取り上げ、英語で、日本人の精神性を世界に向けて発信した本。
内村は、「明治維新以後、学校が知識を得て立身出世するための踏み台となってしまった。学校の役割、使命はそこにはない。学校とは「真の人間」なるための場所である。それを思い出さねばならない。」と述べている。彼が現代の教育現場をみれば、いかに語るであろうか。