第1章 私は戦後民主主義教育の第1期生

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第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入
第2話 民主主義教育の第1期生
第3話 自然との触れ合い
第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙
第5話 戦後たった5年で明るい光が
第6話 中・高校時代は高度経済成長期

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第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入

私は、尼崎市開明地区という阪神尼崎駅南の旧市街で、1940年2月に生まれました。真珠湾攻撃は翌年の1941年12月8日です。

3年後の1944年11月には、アメリカ軍はマリアナ諸島の基地からB29爆撃機部隊による日本本土への空襲を開始しました。

東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸という大都市をつぎつぎと爆撃目標とし、私が住んでいた尼崎は大阪に付随する大都市域として、再三にわたり空襲を受けました。

疎開したその夜に、B29爆撃機による空襲

1945年3月13日夜から14日未明にかけての焼夷弾空襲で、自宅が炎上しました。私自身はまだ5歳になったばかりでハッキリとした記憶はありませんが、母親がその時の恐ろしさ、苦労について、再三再四、話してくれました。

自分の住んでいる所が爆撃目標として位置付けられていることは、地区の住民には予測できていたようです。

幸運にも、空襲当日の13日の昼の間に、父親が必要最小限の家財道具を積んだ荷車に、私を乗せ、10kmほど離れた尼崎市稲葉荘という田園地帯に疎開し、辛うじて難を逃れました。

でも、妹の出産を直近に控えていた母親だけは、すでに爆心地の産院に入院していました。周囲一帯が炎上する中で一夜を過ごすことになりましたが、無事出産を終えたそうです。

神戸大空襲の記憶

稲葉荘への疎開後も、アメリカ軍による焼夷弾攻撃は日増しに激しくなり、空襲警報のサイレンがなると、防空頭巾を被り、防空壕に避難したことをよく覚えています。

神戸市内には、川崎航空機(現川崎重工業)、川西航空機(現新明和工業)といった航空機メーカーが存在していたことから、激しいアメリカ軍の攻撃目標となり、市街地は壊滅的打撃を受けました。

6月5日の神戸大空襲の模様は、父親に手を引かれ、自宅近くの武庫川の堤防から見ていましたので、鮮明に脳裏に焼きついています。

阪神淡路大震災で一晩中夜空を真っ赤に染めていた神戸長田と、空襲時の光景には重なるものがあります。 トップへ

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第2話 民主主義教育の第1期生

終戦の翌年4月に、国民小学校に入学しました。しばらくは、教科書も、鉛筆も、ノートもありませんでした。ランドセルだけは、従兄のお下がりの牛皮のものを担いでいました。

学校は二部授業といって、早行きと遅行きがありました。学校で何を学んでいたのか、全く記憶にありません。

新しい戦後の教育改革として、連合軍総司令部の指導・監督のもとに、学校教育法が制定され、新制小中学校が発足したのは、私が小学2年生になった1947年の春です。

私が入学したのは1946年4月ですから、最初の1年間は何か空白だったようです。

戦後教育は、戦前の教育とは対照的に道徳・修身は一切なくなっており、規範のない、自由なものであった気がします。

当時の教育こそが民主主義教育なのだと、戦後75年を経った今、改めて感じます。決まったモデルがないために、自由気ままに、自らの考えで物事に取り組んでいくのが、われわれの学年の習性になったようにも思えます。

軍用ジープが行き交う国道2号

私が住んでいた稲葉荘と武庫川を挟んで対岸にある甲子園ホテルが、米軍に接収されており、朝夕には国道をジープなどの軍用車が行き交っていました。

兵士たちが沿道に子どもを見つけると、チョコレートやチュウインガムなどを放り投げてくるのです。当時の私は、成長盛りで空腹であったと思いますが、なぜか、それに手を出した記憶は全くありません。 トップへ

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 第3話 自然との触れ合い

私は、小学校4年生まで、周りには田んぼばかりの稲葉荘で過ごしました。夏には田んぼの間を流れる小川でドジョウやタニシをとり、秋にはイナゴをとって持ち帰ると、母が食材として重宝してくれました。

夏には、近所の友だちと武庫川に泳ぎによく出かけました。川での遊泳は、突然深瀬があったりして、毎年命を失う子がいたようです。

父親が、竹を焼いて折り曲げ、作ってくれたソリで、草の生い茂る土手の上から滑り降りていました。

今でも悔しい思い出

私は、体格が良かったので、年長の男の子とよく遊んでいました。その子は、どこで手に入れたのか1匹のヤンマ(大型のトンボ)の胴体に糸を結びつけ、頭上に飛ばすと、別のヤンマが寄ってくるのです。

いとも簡単にそれを網で捕まえています。指をくわえて見ていた私に、捕えたヤンマの1匹を惜しそうにくれました。

早速、家に持ち帰り、胴体に糸を結わえて、同じように飛ばしたのですが、私のヤンマには他のヤンマが全く近づいてきません。その子がおとりにしていたのは雌ヤンマだったのです。

その後も雌ヤンマを手に入れることができなかった無念さは、今でも残っています。

私は運動が大好きでしたので、近隣の男の子たちと、来る日も来る日も。日が暮れるまで野球をしていました。

「阪神タイガースこどもの会」にも入会しました。甲子園球場での集いに参加し、土井垣、藤村、別当、若林らの有名選手を近くでみられたのは、楽しかった思い出の一つです。

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第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙

小学3年生の時に、学校から先生に引率されて、生まれて初めて観たのが、この映画『鐘の鳴る丘』です。

筋書きはよく覚えていませんが、画面ひとつひとつからの衝撃が、脳裏に刻まれ、同級生とともに涙した記憶は鮮明です。

『鐘の鳴る丘』は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送された菊田一夫原作の人気ラジオドラマです。1948年(昭和23年)に松竹で映画化されました。

そのあらすじは

戦地から復員した主人公修平が、不幸な子供たちを明るく導こうと信州の緑の丘の上に少年の家をたてて暮すという、戦災孤児救済問題をテーマにした作品です。

私が覚えているのは、戦災で家や家族を失った孤児たちが、肩を寄せ合って野宿し、駅で靴磨きをしたり、盗みやケンカに明け暮れ、生きる望みを失いかけている浮浪児たちの姿だけです。野坂昭如の小説「「火垂るの墓」と重なるところが多々あります。

当時の私も、つぎの当たった衣服をまとい、食糧難の中にあったと思いますが、戦災孤児たちの姿を見て、両親と一緒に同じ屋根の下で過ごせている自分に、幸せを噛み締めていたにちがいありません。 トップへ

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第5話 戦後たった5年で明るい光が

終戦から5年で、日本は戦後の暗い時代を抜け出し、1947年8月には推定3万5千人いた浮浪児が、一人また一人と上野の街を離れていったそうです。(朝日年鑑1948年版による)

私自身も、小学5年生の春から、小児科医院を開業していた叔父が急逝したために、母がその後を継ぐことになり、再び生家に近い旧尼崎市街の寺町に戻ることになりました。もうその時には、私の周りでは、何の不自由もない日常生活をとり戻していたように思います。

日本の経済復興の裏には、アジア隣国の戦火が

第二次世界大戦直後から、アジア・アフリカの植民地では、支配国である連合国に対して独立運動が激化していました。

急速に表面化した米ソの「冷戦」のもとで、大規模な国際紛争に発展し、とりわけ、隣国での朝鮮戦争(1950〜53)により、占領軍の支配下にあった日本は、特需により大きく経済復興に結びついたようです。

また、フランスの植民地からの独立を目指したベトナムに対するアメリカ軍の介入により、泥沼化したベトナム戦争は1975年まで続くことになります。

ここでも、日本は軍隊こそ派遣していませんが、日本から多くの軍事資材が運び込まれ、東アジアにおける独立戦争に伴う軍需景気が、戦後日本の高度経済成長を支えていたようです。

最近再び、「自由で開かれたインド太平洋」戦略という言葉を耳にしますが、私と同じか、上の世代の人間には、何かキナ臭い、不吉な予感がしないでもありません。

サンフランシスコ講和条約

日本と48の連合国との間に結ばれた第2次大戦終結のための平和条約が、1951年9月8日サンフランシスコで調印されました。時の日本代表は吉田茂首相です。

当時の私は、小学6年生でした。それまで日の丸の旗をほとんど街で目にしなかったのですが、至る所で日の丸の小旗がうち振られ、日本中がお祭りモードでした。

これで、敗戦国日本が、再び国家として国際社会から認められたという安堵感があったようです。

この条約は、日本の主権・平等を承認するものでしたが,外国軍隊の日本駐留継続は認めたままでした。

さらに、同時に締結された日米安全保障条約により、その後も日本は対米従属下に置かれたままです。 トップへ

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第6話 中・高校時代は高度経済成長期

1950年代に入ると、何かもが新しく生まれ変わっていく時代でした。私は、中学は芦屋市立山手中学校、高校は兵庫県立神戸高校に通いました。

中学入学時(1952年)は、床板が軋む木造の仮設校舎でしたが、1年生の2学期からは、山手に聳える白亜の新校舎に移りました。阪神芦屋駅から30分以上かけて急坂を毎日通い、足腰が鍛えられました。

高校も同じく、六甲山の中腹です。眼下には、神戸港から阪神間、大阪まで、大阪湾全体を見下ろせました。でも、神戸製鋼所の林立する煙突からの黒煙が、風向きによって校舎に押し寄せてきました。

大型の超豪華外国客船が神戸港に入港する時には、授業中の静かな教室に、汽笛が響き渡ってきます。下校時には、友人と船内見学に行き、外国人船員と英語で話せたことも素晴らしい体験でした。

 

柔道部活に明け暮れた日々

高校に入学するや、すぐに父親の勧めもあり、柔道部に入ることにしました。中学時代にも多少の経験があり、体型的にも柔道が適していると判断したからです。

柔道・剣道などの日本の伝統的な格闘技は、戦後数年間、進駐軍により禁じられていました。

神戸高校の前身の神戸一中には、嘉納治五郎という大先輩がおられます。

ところが、私が入部した時には、柔道場はなく、図書館横の場所を仮道場として使っていました。練習前には畳を担いできて敷き、練習後はまた元に戻すという日々でした。

私たちの学年は、これまでの先輩よりも、人数も多く、兵庫県大会では上位に食い込める存在でした。

当時は、大学受験は二の次、三年生の秋の大会が終わるまで部活を続けるのが当たり前でした。

練習が終わり、帰宅し、夕食が済ませ、机の前に座ると、途端に睡魔に襲われます。そのような時は、躊躇なく布団に入り、朝早く起きて、勉強することにしていました。

 

中高の友人は、生涯の付き合い

中高の友人は、異なる分野に進みました。歳を重ね、現役を退いた今、何か時計の針が反対向きに回るように、親交が日々深まっています。

2021-7-2、2021-7-20更新   トップへ