コレラの世界的流行は続いている

現在までにコレラの世界的流行は7回にわたって記録されています。1817年に始まった第1次世界流行以来、1899年からの第6次世界大流行までは、すべてインドのベンガル地方から世界中に広がり、原因菌はO1血清型の古典コレラ菌であったと考えられます。

しかし、1961年にインドネシアのセレベス島(現スラワシ島)に端を発した第7次世界大流行は、O1血清型のエルトールコレラ菌です。この流行が現在も世界中に広がっていて、終息する気配がありません。WHOに報告されている世界の患者総数は、ここ数年20~30万人に上っています。


コレラとは

最も重要な感染源は、患者の糞便や吐瀉物に汚染された水や食物です。消化管内に入ったコレラ菌は、胃の中で多くが胃液のため死滅しますが、少数は小腸に到達し、ここで爆発的に増殖してコレラ毒素を産生します。

コレラ菌自体は小腸の上皮部分に定着するだけで、細胞内には全く侵入しません。しかしコレラ毒素は上皮細胞を冒し、その作用で細胞内の水と電解質が大量に流出し、いわゆる「米のとぎ汁様」の猛烈な下痢と嘔吐を起こします。

私が小児科医になった頃は、コレラは法定伝染病のひとつであり、重症下痢患者の鑑別診断には、赤痢、腸チフスと並べて、必ず挙げていました。今の日本では、下水道が完備され、コレラの国内発生はなくなっていますが、時々は海外から持ち込まれることもあるようです。現在、日本で承認されているコレラワクチンはありませんが、DUKORALという経口(飲むタイプのワクチン)の不活化ワクチンが輸入され、トラベルクリニックで取り扱っている場合が多いようです。アフリカや東南アジアの汚染国に出かける時には、ワクチン摂取をお勧めします。


後藤新平とコレラとの戦い 「もう一つの戦争」

さて、我が国においても、1858年と1862年に、外国船から持ち込まれたコレラが大流行しました。西南戦争時にもコレラが大流行しており、政府軍の兵士たちが船で神戸港に戻ってきたことから、国内に広がるのを阻止すべく、神戸港には検疫所ができました。しかし、その関所を破った保菌者が、東海道を上り、京都で次々と発病したと言います。この年にコレラによる死者は全国で8,000人、2年後には年間死亡者が10万5千人に及んだそうです。

当時の日本では、平時でも数万人の患者が発生しており、その大半が死亡していたようです。とりわけ、戦場での衛生環境は劣悪で、多くの兵士がコレラで死亡していました。1895年に日清戦争で大勝利を収めた日本軍が中国大陸から凱旋する船にも、多くのコレラ患者が乗船しており、「もう一つの戦争」と呼ばれる伝染病との戦いが、広島の似島の検疫所で繰り広げられていました。凱旋してきた兵士23万人の検疫、隔離、非感染者の衣類等の消毒が、たったの3ヶ月で行われたと欧米諸国からも高く評価されました。それをなし遂げえたのは豪腕後藤新平の力によるものでした。後藤新平は医師であるとともに、その後内務官僚を経て内相、外相、東京市長を務めた。特に関東大震災後の帝都復興でその辣腕を振るったことでよく知られています。

(山岡淳一郎:後藤新平、日本の羅針盤となった男、草思社文庫、2014)


検疫事業とCost Performance

今、日本では新型コロナの大流行で、学校、イベントが中止され、経済活動も低下しています。ダイアモンド・プリンセス号での船内感染への取り組みを見ていると、決して想定外の出来事ではなく、起こるべくして起こった大流行の波及です。不適切な対策が700人に及ぶ感染者(乗船者の6人に1人)と10名近い死者を出したのです。もっと死者数が増えていてもおかしくない状況だったと思います。

今日のような経済活動重視の社会では、絶えずコスト・パーフォンマンスが求められ、それが医療にまで及んでいます。今回のように非日常的な事件が起こると、もはや立ち向かえなくなってしまいます。

今回のような膨大な経済的損失を考えると、平時から検疫システムとマンパワーの質と量の充実への投資をもっとすべきであったことがよくわかります。周辺国と隣接していない島国日本は、各港での検疫体制さえ完備しておれば、容易に水際作戦が成功するはずです。


2020.3.16