小児科医不足が深刻に

若葉「巻頭言」2002.6.15.

21世紀は、9.11のニューヨーク・テロ、世界貿易センタービル倒壊という極めて衝撃的な幕開けとなりました。国内では、一段と膨大化した国債発行残高、不景気風は収まらず、完全失業率は5.0%と10年ぶりの高い数値となっています。これらは国民への福祉の縮減という形で跳ね返り、これまでの我が国の高い医療水準を支えてきた医療制度も改変の憂き目にあり、医療者としては不安材料が一杯です。

小児科医師不足が深刻に

しかし、我々小児科医にとっては、小児科医不足のために医療費削減以前の難問が山積みです。夜間の小児救急医療・新生児医療に従事する医師不足は深刻で、大学医局にいる医員や大学院生が、兵庫県下の小児二次救急医療機関に東奔西走し、「二次救急医療機関の輪番制」の実態は「医員・大学院生の若手医師グループ内の輪番制」に他ならないのが実態です。

先般の関西医大での研修医の過労死が労災認定されたという報道を他山の石とせず、我々としても若手小児科医師の健康管理に十分な配慮をするよう努めているところです。幸い、平成13年度は23名というかってない新入局者を迎えることができました。このような窮状を理解し、意気に燃えて小児科医を志願してくれた若者たちが、バーンアウトしないように、夢と希望に満ちて、納得のいく医療に携われるような環境を作り出さねばなりません。

小児救急のニーズに応えるには

現在、われわれの同門会員は500名、日本小児科学会兵庫県地方会会員が650名います。うち、病院勤務の小児科医は、それぞれ197名、262名です。うち、8割近くの医師が神戸市内の医療機関に勤務しています。このように限られた人数の、しかも偏在している人材で、社会が求めている小児救急のニーズに応えるにはどうすればよいか?

答は簡単です。「病院には小児科を設置しなければならない」という固定観念を棄て去ることです。昔と違い今日では、ひとたび患者を入院させると、当然のことながら365日、24時間の観察を必要とし、患児のそばには誰か小児科医が必ずいなければなりません。「不十分な体制で医療を行っていた」としても、万が一予期せぬ事態が発生したならば、必ずや注意義務違反として主治医はその責任を追及されます。また、病院当局も「不十分な体制で医療を提供した」としてその責任は免れません。最低でも1チーム5〜6人の医師がいなければ、過労のために安全な医療を提供することが不可能なことは自明です。医療過誤の多くが、医療者の過労によるものであることはよく知られた事実です。無理は禁物です。被害者に対する弁明には当然のことながらなり得ません。医師の自己責任になります。患者も、医師も双方が被害者です。

小児医療機関の地域化・統合化を

我々は、医療の移り変わりを理解しなければなりません。少子化が進み、最近では出生数は120万近くまで減少しています。最も多かったときに比べると60%近くです。また、医学・医療の進歩により入院を必要とする重症例は激減しています。従って、個々の病院における小児のための入院ベッド数は余っているのが実情です。旧態依然とした病院小児科の存続は、有り余る小児科勤務医師がいるならともかく、その蓋然性をなくしています。小児医療機関の地域化・統合化を進め、拠点病院でのみ入院患者を扱う体制づくりが必要です。

幸い、兵庫県当局も昨年来、小児救急(災害)医療システムの整備に関する基本方針策定委員会を立ち上げ、本格的に取り組む姿勢を示してくれています。要するに、小児救急の問題を解決するには、小児科医が働きやすい環境づくりを如何に進めるかです。

小児の救急医療は、救急救命医療とは性格を異にする

今日の小児救急医療は、これまでの救急救命医療とは性格を異にするものとなってきています。少子化であるがゆえに軽微な症状でも受診を希望されるケースが増えています。地域における急病診療所で一次小児救急体制を確立することが急務です。大都会では小児科医のみの出務体制も可能でしょうが、地方では小児科医以外をも含めた出務体制でなければ不可能です。いすれにしろ、早急に医療圏の規模と出務可能な人的資源の算定を行い、より合理的な体制づくりをしなければなりません。

2001年3月から新病棟での診療を開始

神戸大学医学部附属病院は、去る3月から新病棟での診療を開始し、「最新の医療とやさしい環境をあなたに」をスローがンにしています。来年1月からは新しい医療情報システムの導入も決まり、カルテの電子化を目指し、現在鋭意準備中です。IT社会に突入し、否応なしに情報開示を求められます。医療全体のIT化を如何に進めるかが、当面の最大の課題です。小児の救急医療もITを活用すれば、もっともっと効率のよい医療を提供できる気がします。

相次いで全国規模の学会が神戸で

昨年12月の「第7回日本子ども虐待防止研究会」を神戸で開催して以来、全国規模の学会が相次いでいます。6月には「第16回小児救急医学会」、7月には「第38回日本新生児学会」、10月には「第49回日本小児保健学会」、11月には「第45回日本先天代謝異常学会」と目白押しです。これらの学会主催を通じて、子どもたちの幸せにつながるよう努めたく思っています。全国から多くの小児科医をお迎えするに当たっては同門の先生方には改めてご協力のほどをお願い申し上げる次第です。

私の一週間 医学部教授時代

5月13日(月曜)
9 時早々に、K1 病院 T 医師、K2 病院 N 医師が相次いで来室し、来年早々に医院を開業したい旨の報告を受ける。彼らはいずれも40代に入ったところで、まだまだ病院で後進の指導にあたって欲しい。個人開業で地域医療に従事するのは小児科医として大きな魅力であることは理解できるが、それ以上に彼らを病院に引き留めるだけのものがないということか?
11 時 30 分から、定例院内会議に出席。医師、看護部、薬剤部の総括リスクマネージャー、事務部の面々と「ひやりはっと報告」、「ご意見」を分析、対策を協議する。
昼食は、神戸外国大学松浦南司教授ととる。彼は経営マネージメントが専 門で、医療経営に大変な関心を抱いている。彼の協力を得て大学病院に医療経営研究センターを設立し、これからの法人化を目指して活動を開始する予定である。
16 時から、月 1 回の診療責任者会議(医局長会議)に出席し、1か月間の 病院活動について報告するとともに、意見交換する。会議では、懸案の「外来予約制度の見直し」と待ち時間短縮のためのワーキンググループを立ち上げ、具体的な対策を立ててもらうことにした。職員に対して、B 型肝炎、麻疹の予防接種とともに、C型肝炎の検査実施について検討。

5月14日(火曜)
8 時から、定例のモーニング・カンファレンスに出席し、院生YKの研究報告を聞く。モデル動物を使ってのIUGRの脳発達に関する研究であるが、仮説、研究目的をもっと絞り、ゴールを目指して欲しい。
12 時 30 分から、母子センター・一般病棟の回診を行う。新しい研修医(正式採用は6月1日であるので今は見学生)とはじめて一緒に回診することになる。今年は総勢 23 名の入局であるが、すでに関連病院で 6 名が研修を開始しており、大学病院で研修するのは 17 名である。忙し過ぎない、暇すぎない、程よい研修計画を米谷医局長に練ってもらっている。うまくいくかな。回診では新研修医17名に BSLの学生7人が加わり、入院患者数を上回る人数。若い彼らのプレゼンテーションは新鮮でいい。
16時30分から、院内各部門の責任者を招集する。6月に開催されるワールドカップ時の救急患者受け入れ機関となっているので、フーリガンなどによる広域災害救急対策について協議。神戸では、6 月 5 日にロシアーチュニジア、6月7日にスエーデンーナイジェリア戦がが、さらに 6 月 17 日夜には決勝ト ーナメント戦が予定されている。
18 時に、K3 病院の院長、事務長ならびに市の助役の来訪を受ける。この 4 月から小児科医師数が 4 名から3 名に減少したにもかかわらず、従来通りに、小児2次救急輪番を週2~3 回を受け持つよう病院から要請され、それではと ても責任を持って勤務できないと彼らが固辞したことから、その善後策につ いて相談に来られた。医局では、私が来春定年であることも関係し、新規開 業者が後を絶たず、小児科勤務医師不足が深刻な状況にある。病院側が労務 環境を改善し、彼らを説得する以外に道はないと告げる。 T – Yb 4 – 2 首位奪回

5月15日(水曜)
10 時から、神戸大学本部で国立大学法人化に向けての検討部会、財務会計部会に出席する。病院収入は神戸大学全体の収入の6~7割を占めることから、平成16年からの法人化後の病院経営は大きな課題である。収入増には人材確保以外に道はないと考えている。
13 時から、病院運営委員会を開催、新病棟に移転後、在院日数、紹介率はかなりアップしている。来年4月実施の包括医療に向けて対策を練る必要がある。
15 時から、医学部教授会に出席する。
18 時、K4 病院院長と会う。
夜、K3病院A医師より、このままではとても勤務を続けることはできないと病院長に辞職を申し出たところ、病院側から「辞表を受理できない、退職するなら懲戒免職にすると告げられた」という怯えきった内容のメールが届く。これは 恫喝であり、許せない。T-Yb4-2 薮5勝

5月16日(木曜)
9時30分、K5 病院院長と会う。小児科医の確保と増員を求められる。小児救急は複数市町が組んで広域ネットワークを考えなければ問題解決にならないと、こちらから協力要請する。
10時、N社の営業担当者と会う。最近米国で開始されたサービスとして、入院中の新生児の様子をインターネットで家庭に送るサービスの日本における可能性を尋ねられる。日本でも、ハイリスク新生児は退院後にいろんな問題を抱えていることから、長期にわたる母子分離への支援策としてその開発推進を要請した。
11時30分、毎朝の定例院内会議に出席。相変わらず、転倒・転落のひやりはっと報告が出されている。患者はいずれも高齢者であり、十分にオリエンテーションをし、いろんな対策を練ってはいるが、なかなか解決困難で看護部では頭を抱えている。ご意見箱には、外来の待ち時間の指摘がある。
13時30分から、神戸大学評議会に出席。その後、引き続いて神戸大学将来計画委員会が開催された。国立大学法人化に備えて、中期目標・中期計画をまとめるためのワークシート作成について討論する。神戸大学の理念は、「真摯、勇気、自由、協同の伝統を尊重し、開放的で進取の気性に富む高等教育研究機関としての役割を果たす」ことである。 T – Yb 8 – 0 井川、 無四球完封

5月17日(金曜)
朝5時に起床。新大阪6時53分発ののぞみ2号で上京、都市センターホールでの全国医学部長病院長会議に出席。全国の国公私立79大学から集まり、喫緊の課題である、「卒後臨床研修義務化」と「大学病院の包括医療制度」を中心に議事が進められた。
卒後臨床研修義務化は、平成16年度からとなっており、去る4月22日に 医道審議会から「中間とりまとめ」が出されたが、研修医の身分、待遇、指導医の確保などについての具体的なかたちは全く示されていない。大学病院での研修については、厚生労働省と文部科学省とのせめぎ合いばかりが目立ち、肝心の研修医の立場に立った議論になっていない。現在病院長をしている我々は、インターン闘争を経験した世代であり、我々が過去の体験を生かして、研修医の味方として活動しなければ、だれも彼らの立場を代弁するも のはいないという認識にある。もっとも来賓として来られた篠崎医政局長も44卒とのことで、当時の事情はよくご存知のはずである。 4時に会議が終了し、とんぼ返り。夕食は自宅で。 T-D雨天中止

5月18日(土曜)
10 時に大学病院に向い、同門の吉田澄子先生から寄贈される絵画を受け取る。8号Fの大作で、画題は「花とキャベツ」、彼女の自慢の作品の一つとのことである。新病棟の大ホールに飾らせてもらう予定。
13時30分から、神戸大学内の神緑会館で開催される日本小児科学会兵庫県地方会に出席。新入局者たちが早速お手伝いを。途中、2時から30分間、27年度卒業生のクラス会に出席し、新病棟の紹介と寄付の依頼。また、4時から30分間、医学部後援会(父兄会)に出席し、大学病院紹介といまの臨床医学教育について説明する。
17時30分、地方会が終了するや否や、医学部後援会懇親会に出席、学生の父兄と懇談する。多くの親御さんが、クラブ活動に精を出して、いつも帰りが遅く、勉学に支障しないか気を揉んでおられる。そのぐらいでないと良い医者にはなれないと励ます。
21 時帰宅。家内は娘達と泊まりがけで出かけており、独りぼっち。メールの確認と返事。小児科教室ホームページに、提言「世界の中の子ども達」をアップロードす。明日の講演のスライドを取りそろえる。今夜はテレビを見ないでおこう。 T – D 1 – 5

5月19日(日曜)
朝から、土砂降りの雨。10 時からの神戸市こども家庭センター主催の「子育て市民講座」の講演に出かける。演題は、「脳の発達からみた育児」で神戸市の一般市民、保健福祉関係者を対象にしたものである。発達期脳の脆弱性と可塑性を中心に話を進める。3歳児神話の持つ意味について、3歳までの育児の重要性と女性を家庭に閉じこめる問題とは別問題であることを。乳児が人間不信に陥らないように、養育者(必ずしも母親である必要はない) との「基本的信頼感の形成」を妨げない育児環境の提供を図ることの大切さ を強調してきた。
午後からは、芦屋市立美術館で開催されている日本画家の故山田皓斎展に家内と行く。山田皓斎氏は私の中学高校時代の親友山田泰将君のご尊父である。泰将君が招待状を送ってきてくれた。彼の妹である女優岸ユキさんも日本画家として有名である。
夜は、溜まっている原稿書きに追われる。 T – D 2 – 6  Never, Never, Never Tigers
小児科臨床 「私の一週間」平成14年掲載
神戸大学医学部小児科教授・附属病院長時代の日記から。平成15年3月退官。

21 世紀の周産期医療を考える

20世紀後半四半世紀における医療技術の進歩は、「新生児科」、「新生児集中治療室」 といった新しい医療分野を築き上げ、とくに、昭和50年代にみられた新生児医療技術の進歩は歴史的にみても特筆すべきものであった。高度経済成長の波に乗って、我が国の新生児死亡率は欧米先進国に追いつき、あっという間に世界一の水準になった。近代医療の中で、最も著しい進歩を遂げたのが新生児医療ではなかったかと思う。その我々がいま新たな問題に直面している。

第1点は、新しいマンパワーの確保
新生児医療をこれまで支えてきた世代から次の世代への交代期に入ったが、新しいマンパワーの確保が困難な状況となり、新生児医療、否小児医療の存続さえ危ぶまれる状況下に陥っている。この8月に日本医師会から出された「2015 年医療のグランドデザイン」をみても、高齢者医療のみに視点を当て、21 世紀の日本国民の健康政策から、小児医療、新生児医療は欠落している。

第2点は、魅力的な教育プログラムを提供
ようやく達成できた高度な医療水準が、一般社会では当たり前のごとく受け入れられ、標準化されている。我々が、今後もその国民のニーズに応え、高度な医療を安定して提供し続けるには、医療従事者の質の保証(Quality assurance)、危機管理教育・トレーニングプログラムの開発・訓練が不可欠である。それには、新しいHuman resource の獲得、新生児医療の重要性を若い医師に理解させ、彼らに魅力的な教育プログラムを提供する必要がある。

第3点は、地域社会と連携した支援体制
周産期医療の究極の目的である「障害なき成育」を追及するには、 NICUでの救命医療とともに、退院後のフォローアップを通じて家族への支援が不可欠である。 ハイリスク新生児には、これまでのように病院内での医療活動だけでは解決できない問題が多く、地域社会と連携した支援体制なくしては子どもたちの健全な成育を保障できなくなっている。
以上の3点を解決できるようなプログラムの作成・実行が、これからの新生児学の教育と研究の課題である。
21 世紀の周産期医療「新生児学の教育と研究」 周産期医学、2001 年 1 月号掲載

医者の不養生

狭心症発作に襲われ、自らが成人病を患ったことにがっくりしているところへ、前田盛教授から医者の不養生の見本として「死からの生還」について投稿するよう要請されたのである。自らの恥さらしの様なものなので拒否し続けてきたが、皆さんのお陰で無事この世に生還できた御恩と、私の体験が多少なりとも専門医と患者のはざまを埋める上でお役に立つのではないかと思い直し、筆をとることにした。しかし、依頼のタイトルであった「死からの生還」では、まだ臨死にまでいってはなかったので誤解を招くと思い、変更させて頂いた。

まさかまさかの虚血性心疾患
私は、若いときから幸い健康に恵まれ、中学、高校ともに学校を一日も休んだことがなかった。小児科入局後も風邪で発熱することもなく、ここまで全て体力まかせで突き進んできていた。実のところ、定期健診もろくに受けず、小児科の先輩である瀬尾先生、竹峰先生が癌に倒れられたときにカメラを呑んだものの、飲酒、喫煙、肥満、不摂生と健康に良くないとされることすべてを抱え込んでいた。成人病リスクファクターはあくまでも確率の問題であって、自らは関係のないグループに属していると言い聞かせ、タバコをふかしながら生活していた。そこへ、まさかまさかの虚血性心疾患である。

狭心症発作を疑ったが
正月休みに家族で城崎に行き、玄武洞の石段を上っていると、いつになく胸苦しくなり、しばらく立ち往生することになり、これは少し変だぞという気にはなっていた。しかし、しばらくすると何事もなかったように症状は消えてしまい、そのようなエピソードがあったことすら忘れてしまっていた。正月休み最後の1月4日日曜日の夜にコンピューターに向かってデータの整理をしていたところ、突然暑くもないのに額に汗がにじみ、胸部に絞扼感を覚えた。狭心症発作を疑ったが、休日深夜のことでもあるし、朝まで我慢するか、病院に行くか悩んでいた。ベッドに横たわっても一向に改善しないので、小児科夜間救急体制をとっている六甲アイランド病院の山田至康医師に電話したところ、循環器内科に頼りになる当直医師がいるのを確認できたので、娘の運転する車で救急外来を訪れた。
病院に着いたときには、少し症状が軽くなっていたので、ニトロを処方してもらって帰宅しようと考えていた。ところが、血圧、心電図をみている橋本医師の顔が次第にひき攣っていくのをみて、こればヤバイぞという気持になり、入院を命ぜられ、病室まで車椅子で運ばれ、絶対安静を指示され、ことの重大さに気づいた次第である。

思い出したのは阪神大震災直後のこと
橋本医師の問診に答えながら思い出したのは、3年前の阪神大震災直後のことである。自宅が全壊し、大学に近い五宮町に一時避難していた時のことだ。朝、坂を下ってくる途中で冷気を吸い込むと、よく喉の奥が絞めつけられる感じがしていた。タバコに火をつけ、大きく胸に空気を吸い込むと症状は軽くなり、大学に辿り着きエレベーターに乗った頃には症状は消え、その後は何事もなかったように毎日を過ごしていた。私が考えていた心臓病の胸痛ではなく、また呼吸困難というほどでもなかったので、よもや虚血性心疾患の症状とは思いもしなかった。妻に話すと、「あなた、登校拒否と違う? タバコを止めたら」ということになり、以後は誰にも相談することなく、自分でも忘れていた。

左前下行枝に90%の狭窄
入院翌日には、PTCAの処置を受け、「左前下行枝に90%の狭窄があり、危ないところでしたよ、先生」と横山教授から告げられ、「先生は、自分の病気について全く理解がないので困ったものです」と、彼が書いた文献の束が早速病室に届けられた。
PTCAを施行した当夜は鼡径部を圧迫した身動きできない姿勢で、タバコの禁断症状と闘いながら悶々と一夜を過ごすこととなった。その後の負荷心電図検査もパスしたが「PTCAの3分の1は再狭窄」という不安と闘いながら、厳しい食事指導を担当ナースから受け、薬袋を抱え無事帰宅できた。

「加減して生きる」のは大変
手帳には「ヘルプカード」を挟み、ポケットにはニトロを忍ばせての生活が始まった。「あまり無理をしないように」、「ほどほどに」と忠告されてもなかなか「加減して生きる」のは大変だ。退院した翌週の1月23日から神戸で日本周産期学会を開催し、上谷助教授をはじめとする教室員の働きで、無事盛会裡に終了することができた。ほっとするとともに、この学会を機に日常性を取り戻すことができた。
新聞、雑誌、総合医学雑誌をみていると、「心筋こうそく」、「狭心症」、「虚血性心疾患」という活字がやたらと眼につく。2月12日の日経新聞の記事で、「しめつけられるような胸の痛みと冷や汗、こんな心筋こうそくの症状が起きても、救急車を呼んだり、救急病院に駆け付けたりせずに様子をみようという人が一般の約半数に上っている」というのがあった。心筋こうそくは、発症してから治療開始まで2時間を超えると死亡率が急に高くなるという。当日娘が側にいなければ、私もこの「様子を見る」グループに属していたかも知れない。どうなっていたのだろう。

胸痛は、痛みというよりは漠然とした不快感 vague pain
心筋こうそく=致死的疾患、だから、胸痛 -> 呼吸困難・チアノーゼ -> 死への恐怖と、その症状は非常に息苦しいものと短絡的に考えていた。横山教授が書かれた内科学成書の狭心症の診断の項には、「胸痛は、痛みというよりは漠然とした不快感vague painといった程度のことが多い」と、「胸痛の性状は絞めつけられる感じ、圧迫される感じ、重苦しさと表現されることが多く、ときには灼けるような感じや痛み」と記載されている。また、発作の持続時間が短いことも受診への決断を鈍らせる。実際のところ、このような症状を的確に判断するのは今でも難しい。若い娘をみれば胸キュンだし、心配事があると胸が痛む。気にしだすと症状はより強くなる。今こうして、このような原稿を書いていると、当時を思い出し、また胸が痛み出す。ちょっとした症状で毎度救急外来を訪れると医師も大変だ。ポケットに忍ばせたニトロが私に安心感を与えてくれている。
ストレスが悪いという。喫煙が悪い、高血圧、糖尿病、高脂血症が増悪因子という。永年親しんできた喫煙ともさよならし、大好きなロース、チーズとも別れを告げ、カロリー摂取も自分では控えているつもりである。私なりにライフスタイルをかなり変える努力をしてきた。もし、次の再検査で良くなっていないのなら、これらの因子が血管内皮細胞増殖因子に作用して血管閉塞を引き起こすリスクファクターだったろうか疑いたくなる。

筋金入りの心臓で活躍している医者が結構たくさんいる
インターベンション可能なこの疾患に罹ったのは、不幸中の幸いと自らを慰めている。一昔前なら死んでいたのであろうか。心筋こうそく、狭心症を含めた虚血性心疾患の診断・治療は医学の中でも最も進歩した領域の一つだ。各種の薬物療法、PTCA、PTCRなどの侵襲的療法の進歩のお陰で命拾いをさせて頂いた。この疾患は術後のQOLについても申し分がない。筋金入りの心臓で活躍している医者が結構たくさんいることを、今回初めて知った。その連中が逞しく酒を呑み、豪快に気炎を上げている姿をみると大いに勇気づけられる。自分もやっと病気と仲よくできるようになったところである。

神緑会学術雑誌、第14巻105-6頁、1998