新型コロナ長期戦に備えて

どうやら、人出も減る傾向になく、感染者数もますます増えていきそうな空気です。高齢者は、重症化率が高いので、不要不急の外出を控えるようにと絶えず言われ続けています。私も、天気の良い日には1時間程度の散歩だけで、ほとんど家に籠っています。

ちょうど1年前の1月20日に、硬膜外出血で入院したのを契機に、60年近く乗り続けていた車を手放すことにしました。当時は、新型コロナ流行の直前であり、車のない生活が、こんなに不自由なものとは思いもしませんでした。

昨夏には大病を患い、長期間の入院を余儀なくされましたので、あまり不自由さを感じませんでしたが、秋の訪れとともに、体力が回復し、活動を再開し、身体の衰えを防ぐためにと、せめてゴルフの打ち放し場にでも行こうと思うのですが、感染対策上できるだけ公共交通機関を使いたくありません。

正月以来、寒さもあり、私が一歩も家から出ずに、家の中をいつもウロウロしていると、家内も根をあげ始めています。岡本梅林公園の梅だよりも聞こえてきました。春の訪れが待たれます。

ワクチンも、どうやら3月末には高齢者が接種できそうです。今年は、コロナの網目をかいくぐりながら、少しずつ活動をはじめようと思っています。 2021-1-20

私のお正月2021

元旦の朝、目を覚まし、寝室のカーテンを開けると、年末からの寒波で薄っすらと雪を被った六甲山頂が、新年の朝日に映えて美しく輝き、市中が新型コロナ禍にあるのが信じられない、素晴らしい眺めでした。

山頂に聳える電波塔が、何か観音像のように見え、思わず手を合わせ、1日も早いワクチン接種、新型コロナ終息を祈願しました。

年末年始はお静かにという国や県の求めに応じて、例年なら近郊のホテルに家族が集い、賑やかに過ごす正月ですが、夫婦二人きりでの静かな正月も新鮮でした。半世紀以上にわたり寄り添えたことに感謝し、互いの健康を願い、雑煮を頂きました。

元日の夜は、ZOOMによる家族新年会です。4家族の集まりで、最初はどうなるかと心配でしたが、流石に孫たちはWeb会議に慣れており、巧みなカメラワークと会話で盛り上がり、最後には息子家族がバイオリン・ギターのおうち演奏を披露してくれました。アンコールには、ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団のNew Year Concertと同じように、ヨハン・シュトラウスの「ラデツキー行進曲」で締め括られました。

何もかもが、新しいスタイルのお正月です。感染終息の暁には、これまで経験したことのない新しいスタイルの生活、素晴らしい世界が開けるのが楽しみです。

2021-1-3


 

ポストコロナ社会への期待  ー デジタルで共生社会がー

ポストコロナ社会は、テレワークとデジタル化というだけで、一体どんな社会が待ち受けているのか、多くの人はよくイメージできずにおられるのではないでしょうか?

人間の仕事が、AIの活用やロボットに奪われるのではないかという不安、あらゆる個人情報が国や企業に一括管理され、個人の守秘性がなくなるのではという不安感をお持ちの方も少なくないと思います。

オードリー・タンさん曰く、デジタル空間は無限の可能性を持つ

新型コロナ流行当初にデジタルを活用し、マスク在庫状況をはじめ感染状況の可視化で、流行を最小限に抑えた、台湾のデジタル担当閣僚オードリー・タン氏の卓越した能力の報道に驚かれた方は多いと思います。

LGBTである彼女は、16歳で女性となりました。学校は中学までしか行かず、独学でプログラマーとしての実力をつけ、19歳で渡米し、アップル社においてSiri開発の立役者となりました。タン女史は1981年生まれ。ミレニアル世代のトップランナーです。

ミレニアル世代が新しい時代をリードする

ミレニアル世代とは、1980年から1995年の間に生まれた世代と定義され、2020年に25歳から40歳を迎えた世代です。

この世代がこうして括られるのは、その成長がデジタルの台頭とともにあったためです。インターネット環境の整備が飛躍的に進んだ時代に育ち、情報リテラシーに優れ、インターネットでの情報検索やSNSを利用したコミュニケーションを自然に使いこなす、ITに極めて高い親和性を持つ世代です。この生まれながらにして、デジタル化という激動の中で育った彼らだからこそ、新しい時代を先導するエネルギーがあるように私には思えます。

Diversity & inclusion(多様性を取り込んだ社会)とConviviality(自立共生社会)

最近出版されたタン女史の自伝によると、デジタル技術を活用すれば、この2020年を境にどのような社会が待ち受けているのか、彼女には明確にイメージできているように思えます。そのキーワードは、Diversity & inclusion(多様性を取り込んだ社会)とConviviality(自立共生社会)です。彼女が目指している「自立共生社会」は、一地域、一国だけでなく、地球全体での共生社会です。

彼女自身がLGBTであることからも、新型コロナ流行後の世界に求められているのが、Diversity & inclusionとConvivialityであるという主張は容易に納得できます。Diversityも、 Inclusionも、経済界でよく用いられている単語です。Diversityは、国籍や性別、学歴を問わない多様な人材活用に、Inclusion(インクルージョン)は、元々フランス語で、直訳すると包含、包括という意味です。ビジネスに当てはめると企業内すべての従業員が仕事に参画する機会を持ち、それぞれの経験や能力、考え方が認められ、活かされる状態を言います。

「共生(ともいき)」は元々仏教用語

「共生(ともいき)」ということばは、元々仏教用語にあったようで、日本人には馴染みの単語です。「共生」とは、「共に生きる」ということですから、直訳すれば「自然と共に生きる」、「地域と共に生きる」ということになります。

つまり、「人間は天地自然の恵みの中で生き生かされているのだから、それをよくわきまえて、むやみやたらな開発はしないで、自然を大切にし、自然のサイクルに合った生き方をしましょう」。また、「人は一人で生きているのではない。家族をはじめとして、隣近所、町や村の中で多くの人々と係わりながら生きているのだから、その関係を大切に、助け合いながら生きましょう」ということになります。

「共生」が、障害者支援や環境問題に対する政策の枕詞に

日本政府は、障害者支援や環境問題に対する政策の枕詞として、「共生」という言葉をこのところ多用しています。2020年東京オリンピック・パラリンピックを契機として、障害の有無等にかかわらず、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合う「心のバリアフリー」を推進し、障害のある人等の活躍の機会を増やし、共生社会の実現を目指しています。 文部科学省は、平成24年7月より共生社会の形成に向けたインクルーシブ教育システム構築のための特別支援教育の推進に取り組み始めています。

「共生社会」とは、これまで必ずしも十分に社会参加できるような環境になかった障害者等のマイナリティーが、積極的に参加・貢献できる社会です。それは、誰もが相互に人格と個性を尊重し支え合い、人々の多様な在り方を相互に認め合える全員参加型の社会です。

Conviviality(自立共生社会)とは

Conviviality(自立共生社会)という言葉が用いられるようになったのは、イヴァン・イリッチ著の「Convivialityのための道具」という本に由来するようです。本書が出版された1973年は、今日と同じように産業社会における人間性の喪失が大きな社会的不安を招いていた時代です。

Conviviality(コンヴィヴィアリティ)は、日本語では「自立共生」と訳されていますが、行き過ぎた産業主義社会が、人々を単なるサービスの消費者にしてしまったことを問題として指摘し、自立共生な社会のあり方を描いています。

日々の暮らしの中で人は学び、病気に苦しむ人がいれば手を差し伸べ、家族を失えば親族で弔っていた人間の暮らしが、産業化と分業化・専門化によって、教育は学校が、医療は病院や医療者が、弔いは葬儀屋が提供するサービスになり、人々の手から人間らしい振る舞いの機会を奪ってしまったのでは?と、イリッチは問いかけています。

半世紀前にも今と同じような社会現象が

この書が刊行されたのが1973年ですから、我が国においても戦後の高度経済成長により貧富の格差が拡大し、まさに産業中心主義に世の中が大きく変化している時代でした。先行きの不透明感から、全国に大学紛争の嵐が拡がった時代です。

その後、「個々人の尊厳をベースにした真の自立共生社会はユートピアの世界である」と、私たちの世代の者は大学紛争後ずっと思い続けていました。だが、デジタルは無限の資源だと言われると、それも決して実現不可能な課題ではなさそうな気もしてきます。

デジタル民主主義と「自立共生社会」

いま、米国で行われている大統領選挙の報道を見ていると、何だか滑稽です!

デジタル民主主義の根幹は、「政府と国民が双方向的に議論できるようにしよう」ということです。オードリー・タンさんは、「国民の意見が伝わりにくい」とされる間接民主主義の弱点を、インターネットなどの力により誰もが政治参加しやすい環境に変えていこうとしているのです。

彼女がすでに取り組み、実現しているのが台湾での選挙制度です。より民主的な選挙を行うために、有権者一人1票ではなく、99票のカードが与えられ、有権者は複数の候補者に配分して投票できるそうです。さらに、4年に一度の選挙ではなく、デジタルを活用すれば毎日でも国民投票が可能だと言います。

多くの国が採用している間接選挙制度の根底からの見直しが必要な時代になっているようです。民主主義国家と言いながら、所得格差が拡大し、社会の分断が進んでいます。 日本が一億総中流の国であるというのは今や完全な幻想で、その貧困率は世界的に見ても高いものです。2020年7月17日に厚生労働省が発表した「2019年 国民生活基礎調査」の結果から、2018年(平成30年)の子どもの貧困率(17歳以下)は13.5%、約7人に1人の子どもが貧困状態にあり、日本も社会的格差が大きいことを示しています。

小児保健従事者は子どもの声を代弁しよう

ラジオやテレビといったメディアでは、情報の流れは一方通行です。パソコンやインターネットの登場で、SNSを通じて誰もが自分が言いたいことを発信できるようになりました。メディアは、SNSでの炎上、誹謗・中傷といったネガティブな面を取り上げ、子どもたちの積極的な活用に向けた意見が少なすぎるように思えます。

日常的に子どもたちに寄り添っている小児保健従事者は、子どもに関する情報を共有するだけでなく、子どもから発信される多様な意見を代弁し、政府の施策に反映されるような社会にしたいものです。

ポストコロナでは、デジタル化による選挙制度改革を推し進め、多様な民意が政府の施策に反映され、自立共生社会へ向かうことを期待しています。


2020/12/18

「若葉」目次

神戸大学小児科同門会雑誌「若葉」への寄稿文

名誉教授からの一言 
 2020年はいろんなあことがありました  2021
いのちを考える 傘寿を迎えて   2020
子どものトランスジェンダーへの対応を2019
小児科医が医療の花形となる日が   2018
「書く」ということ    2017
明治、昭和、そして平成    2016
阪神淡路大震災の当日に思ったこと    2015
2014年、午年に因んで    2014
最近の世相から、思うこと三つ 2013
Mac とともに、Steve Jobsへの感謝を込めて    2012
情報社会へ変わり行く世界   2011
医療界にもダイバーシティー(diversity)を    2010
コンビニ医療こそ、小児医療の原点   2009
Be patient!我慢してください    2008
教育基本法改定と大学- 60年安保世代が思うこと-     2007
「人」を軽視する経済至上主義      2006
大学生活を懐かしむ    2004

「若葉」巻頭言.pdf  1989-2003

退官に当たって   若葉31号 教授退官記念特集号 2003
小児 科医不足が深刻に    若葉30号 2002年
新しい世紀を迎えて  若葉29号  2001年

私の研究回顧録  神戸大学最前線  2006年5月

わが母校誕生のころ-本学の神話時代-(2) 中村和茂著

昭和20年となりて

 1月1日には午前9時より講堂にて4万拝の式が催され、学生40名余出席、小川校長より訓話がありました。3学期は8日(月)より始まり、先ず例により湊川神社に参拝し身を清めてから講義が始まった訳です。ところが年末より次第に激しさを増した敵機の空襲は年が明けると共に一層厳しくなり、警戒警報が鳴ると共に講義は中断、教官も学生も待避ということになるのですから講義の進行は思うにまかせぬようになりました。学生の欠席は目にみえて多くなり、又元気すぎて学生の方が辟易した橋寺先生のドイツ語が珍しいことに13日(土)に休講となりました。17日(水)の時間には先生は一応出てこられましたが、何時なく元気がありません。先生は食糧難のため栄養失調症になられたのです。

1月11日に本校第2回生入学試験の第1次発表が行われました。昭和20年度入学志願者心得には第一、資格として、“本校ハ専門学校令ニ依リ医学ノ要綱ヲ教へ、医術ノ真締ヲ授ケ、斯道研究ノ素地ヲ培ヒ以テ皇国医道ノ本美ニ徹セシメ進ンデ負荷ノ大任ニ対ヘマツル医人ヲ錬成スルモノナリ、依ツテ右ヲ体庸シ左ノ各項ノ一ニ該当スル者タルコトヲ要ス。”とあり、入学試験期日は文部省の定めた第1期、その選抜方法は文部省の指示により“第1次選抜銓衡”は出身中等学校長よりの報告書類によってのみ選衡され、入学者定員の約2倍の人数が選抜されました。この方法は何も本校のみに限ったものでなく交通機関が軍にとられてしまい、一般市民の利用が極度に制限され、又食糧難のため旅館などの宿泊も思うにまかせず、全国的に学生を集めて入試を行うことが不可能に近くなったため、やむを得ず文部省がとった手段だったようです。

2次試験の方は1月23日(火)より26日(金)迄本校で身体検査、口頭試問及び筆答試問が行われたようで、その結果綜合判定により1月31日(水)に合格者が発表され、初めて我々のクラスの弟分が決まったのでした。

講義中に警戒警報の陰気なサイレンが

話が前後しますが、1月19日(金)午後1時すぎ、内科診断学の講義中でしたが、例により警戒警報の陰気なサイレンの音が鳴りわたり、間もなく空襲警報のサイレンの音に変わりました。私達はその頃待避場所を基礎学舎の南の校庭に下る斜面の下(現在の運動部の倉庫)に選んでおりました。思い思いに鉄兜やら綿入れの頭巾やらを被って、退屈な講義はなくなるし、ほっとした思いで三々五々その辺りに集って煙草を喫いながら雑談をしていたのですが急に、激しい高射砲の音がするではないですか。南西の空を見るとB29の大編隊が可なりの低空でまさしくこちらへ向かってまいります。

しまった、やられたと思った途端、ドドと言うものすごい地響き、最後の編隊が頭上を通り過ぎたときは本当にやれやれ助かったとお互い喜び合いました。後でわかったのですがB29は全部で50機、この空襲で明石の川崎航空機工場は一瞬にして潰滅してしまいました。てっきり、ついその先の新開地が川崎造船でもやられたと思っていたのですが、20キロ近くも離れたところがやられていたわけだったのです。

しかし1月20日(土)午後には武田創教授より解剖実習の注意があり、今も同じ場所の実習室で1月29日(月)より2月24日(土)迄連日、記念すべき本学第1回の解剖実習が行われました。2月4日(日)には再び神戸は空襲をうけ兵庫の海岸近くにあった製粉工場はまる2昼夜燃え続け、神戸の巷は次第に焼け爛れてゆきました。

学生の入営延期が認められない?

そうこうするうちに8日(木)の朝刊をみますと、私達にとって大変なことが載っているのです。紙上では具体的なことはよくわからなかったのですが、戦況の切迫に伴い学生の入営延期がほとんど認められなくなったというのです。従来は理科系大学・高専の学生は卒業迄兵隊にとられることは勘弁してもらえる“きまり”となっており、小生などもつい先日徴兵検査は受けたのですが、大威張りで入営延期願いを出して、やれやれこれで4年間命が延びたとほっとしていた矢先だったのです。

よく読むとどうやら医学関係の学生は延期が認められるらしいのですが、1年でも浪人して入学したものは延期が認められない様子なので、その日の教室はこの話で持ち切り、兵隊へ送りこまれるか学生生活をのんびり楽しめるかの瀬戸際ですから、一同真剣そのもの、比較的のんびりしていたのは中学4年修了で入学した若干の人ぐらいでした。

学生間でもめにもめた入営延期中止かどうかの問題も2月13日、副校長格の分玉少尉よりの説明で医科に関する限り従来とあまり変りがないことがわかり、学生一同やっと一息入れることが出来ました。

しかしその頃になると軍の方の事務も粗雑となり、入営延期届を出していても連隊区司令部の方で誤って召集令状を出す様な事態が発生したりなどしました。一旦召集令状をもらった被害者?はいくら徴兵延期の権利のある学生でも入営せねばならず、学生の中に2、3人そんな訳で召集令状をもらったものが出て来ました。こんな入営者が発生するとその都度、軍側であるべきはずの配属将校たる徳岡政之介大佐がその連隊へわざわざ出かけていってうまく事情を説明し学生を貰い受けて来られるのですが、その情には学生達ただただ感謝あるのみで、“先生頼みます”の連発だったわけです。

激しさを増す空襲

空襲の方は激しさを増すばかり、ちょっと日記を繰っただけでも、

2月16日(金)東京へ艦載機延1000機来襲、
2月17日(土)今晩は阪神地方へ来襲かと思ったがやっぱり東京やられる。
2月19日(月)夜3度も敵機来り、大阪湾に機雷投下。
2月22日(木)このところ、毎晩敵機1、2機来る。
2月25日(日)早朝より雪、夕方には30センチ、午後敵数機来る。夜東京へ730機来襲。
3月4日(日)東京へB29 150機、又雨、日増しに暖かくなる。
3月6日(火)学校へ防空宿直。などと書いています。

学課の方は2月26日学年試験の日課が発表され、3月12日(月)ドイツ語、発生学。13(火)内科、教練。14日(水)内科、化学。15日(木)細菌、人文、16日(金)生理、病理。17日(土)解剖と決りました。しかし、学生の間では専ら近く神戸も東京、名古屋と同じく大空襲を受けるに違いない、学年末試験が本当にやれるかどうかという心配か?、希望か?わからない、今の学生諸君には到底理解出来ない気分が漂っていました。こんな何とも言えない、強いて言えば己の生命への本能的な危険を感じ、もはや勉学どころでなくなった我々に勉強しろなど一言も口にされずに、唯坦々と休講もなく講義をされたのは解剖学の島田吉三郎先生でした。さきにも述べました解剖実習中にも警戒警報が度々鳴りましたが、学生達が慌てて、それ実習はこれ迄とばかり実習室から逃げるように飛び出して行っても、最後迄学生のためにピンセットの手を止められない先生でした。心配していた阪神地区の大空襲は一向になく、定期試験第1日、第2日と迄は予定通り平穏に進みました。

3月14日(水)早朝とうとう来るべきものが来ました。

“空襲警報!!只今敵機約90機は尾鷲上空に集結中、阪神地区への来襲の公算大”とラジオが報じ終わらぬうちに、大阪は焼夷弾の洗礼をうけ、焔、天を焦がし、尼崎市北郊の私の家辺り迄真昼のような明るさになりました。この空襲の最後の編隊の攻撃で父が開業していた尼崎の医院も灰燼に帰してしまったのです。その日は定期試験の第3日目、内科と化学だったわけですが、どういう風にして受験したか、日記にもありませんし、記憶にもありません。

翌15日に学校では今晩はきっと神戸に来るという噂が専らでした。と言うのは、B29は当時占領されたサイパンからやって来ましたが、敵も準備もあり、そうそう毎日は来襲出来なかったのでしょう。大抵隔日にやって来るのが慣しとなっていました。

しかし、心配した16日早朝は(いつも午前2時頃から4時頃迄が大空襲の時間になっていましたが)、B29は1機も来襲せず、その日は生理と病理の試験がきちんと行われました。

しかし、かつてないことにその日は朝から爆撃もせずにB29が1機づつ2度も来て、当時としては超高度で飛行雲を引き乍ら飛び去って行きました。今晩は間違いない。皆そう考えました。“今夜の空襲のために早く寝とけよ”お互いにそう言いあって分かれたのですが、明日は武田創先生の解剖学の試験。午後10時が過ぎるとそろそろ心配になって来ました。寝床からそろり、そろりと這い上がり、机に向って、今も忘れません。ノートを開いて中枢神経系小脳のところ迄読んだときです。予想通り、空襲警報が鳴りわたったのです。

忘れもしない3月17日

学校が一時的にせよ機能を失った瞬間、何げなく私の見ていたノートの項目が、現在私が情熱をかたむけている研究分野とは何だか変な気がいつも致します。午前2時過ぎ。聞きなれた腹にこたえるB29の爆音がしたと思うと、異様な地響きと共に近所の高射砲陣地からの激しい音が始まりました。恐る恐る庭に作った防空壕から抜けて出てみますと、西の空がパっパっと明るくなっています。“神戸がやられた”と咄嗟に2階へ上り西の窓を開けてみますと、赤い焔が天を焦し、焔の数が次から次へと数を増しています。そして神戸の街はまたたくうちに1つの大きな焔になってしまいました。上空には笠を被せたように大きな白雲が拡がり始め、このため目標がつけにくいのでしょうB29の編隊は次第に低空飛行となり、機体が焔に照らし出されて夜目にもはっきり見られるようになりました。そして焼夷弾が丁度花火を天空から逆に地上に向かって打出すように神戸の街に突き刺さってゆくのがはっきりと見られました。

B29は次から次へと繰返し、繰返し爆撃を続けます。中には高射砲弾に当って火をふいたり、一瞬にして空中で四散するのも見られました。“ああ、とうとう神戸も灰燼に帰した。あの焔の中で我々の学校も今燃え続けている。明日からは解剖の試験どころか、神戸の中心街は何一つ残っていないだろう“と窓から西の空を眺め、ぼんやりとそんなことを考えたりなどしているうちに、空襲も午前4時過ぎにやっと終りを告げました。

午前6時、電車が動き出すのを待って学校へ馳せ参ずべく神戸に向いましたが、阪急は芦屋まででストップ、やむを得ず阪神電車の通ずるのを待って三宮へ、市内は予想以上に惨憺たるもの。見渡す限りの荒野、あるものは唯焼け爛れたセメント建造物だけ、何ともいえない熱気と匂いが漂っています。火災を避けながら神戸駅近くの国鉄のガードを北側へくぐり抜けると、見なれた人家は1軒もなく、すぐその先に学校と病院が立っていました。

“学校は残っている“感激しました。道には八角柱の焼夷弾の不発のものがゴロゴロころがっていますし、未だあちこちが燃え続け、危険この上もありません。湊川神社東側の道を学校へ急いだのですが路傍には焼夷弾の直撃を受けたのでしょう、防空頭巾を被りモンペをはいた若い婦人が2人、空を掴んだままこと切れていました。

もっとひどかったのは大倉山交叉点でした。市電の三叉路の中央にちょっとした防空壕があったのですが、その中にぎっしり人が詰ったまま、折り重なって蒸し焼きになっています。辺りの焼跡からはもうもうと煙が足もとに立ちこめ、暑くてオーバーなど着られたものではありません。

学校と病院は確かに残っていましたが、木造建築は勿論全焼、鉄筋のものも遠目からは焼残っているように見えたものも、近づいてみると中は焼け落ちて残っているのは唯外廓だけ、現在の基礎学舎の西側の3分の1は各階共中身は灰になっていましたし、病院の方も本館の美しいタイルの外装は剥げ落ち、各棟共屋上には焼夷弾が針山のごとく無数に突きささっていました。建物の中には未だ燃え続けているものもあり、早速我々のように駆けつけた学生は各所に分かれて消火を始めました。

私は当時の栄養部の建物を懸命になって消火しておられた、確か石川教授達だったと思う一団に加わりました。さすがの火災も燃えるものが無くなると自然に火の方から勢いが衰え、昼過ぎにはほぼ鎮火しました。やれやれと焚き出しの握り飯をほおばっているところへ、配属将校から今から福原の屍体を収容に行くからシャベルを用意しろとの命令です。この話は結局吾々の学校にはお鉢が回らず“帰ってよろしい”ということになりました。

行きはよいよい帰りはこわいで、日は暮れかかるし、乗物は無いしで、見渡す限りの焼け跡を学校から加納町へ向って一直線に歩きました。兵庫区、生田区もひどいでしたが、葺合区もこれに負けず、加納町3丁目の交叉点の路傍には名前のわからない黒焦げになった屍体が確認用の白札をつけて、ここに3体、あそこに5体と並べてありますし、二宮町の辺りだったと思いますが、戦災者の屍体が何重にも重ねられて野焼きにされるのに出くわしました。紫色の煙が夕闇に漂い、附近を煤けた服をまとった男女が着のみ着のままで唯目的もなく右往左往するようすは、この世の様とは思えぬ光景でした。

神緑会学術誌 第33巻 77-79頁、2017年8月より

2022.6.15.

兵庫県立こども病院時代の記録から

2003年4月から2008年3月までの5年間、神戸市須磨区の高倉台にあったこども病院で小児医療の最前線で働けたことは、大変貴重な時間を過ごすことができました。就任後、職員間のコミュニケーションのツールとして情報誌「げんきカエル」を創刊しました。

「げんきカエル」の名称の由来は、病院建設時に出てきた岩の名前です。写真のような置物として、病院の廊下に飾ってありました。

詳細:兵庫県立こども病院時代の記録  pdf

  • 病院長就任にあたって 2003.4.7
  • 情報交換は創造へのエネルギー  げんきカエル 創刊号 2003.10.1.
  • こども病院がもつこれからの役割     げんきカエル 2003.10.1.
  • やさしい医療を目指そう、ほほ笑みで 新年のごあいさつ    げんきカエル 第3号   2004.1.1
  • ほほ笑みの医療こそ、こどもの医療 新年のごあいさつ げんきカエル 2005.1.1
  • ご家族とともに実践する小児医療 新年のごあいさつ     げんきカエル   2006.1.1
  • 小児医療は三位一体で 新年のごあいさつ    げんきカエル  2007.1.1

詳細:兵庫県立こども病院時代の記録  pdf