AI時代、小児科医が医療のモデルに

音声認識機能が深層学習で飛躍的に進歩する
1990年代以後、医療分野で画像情報処理が飛躍的に発展、ロボット技術の進歩と相まってダビンチなる手術器具までが現実のものとなりました。いま、音声認識機能は、AIがもつ深層学習により進化が始まりつつあります。
すでに、クラウドベースの音声認識サービスが始まっており、スマホでの入力を面倒なキーボードでなく、音声入力を利用している人が増えています。実は、いまこの原稿をMacの音声入力機能を用いて書いています。以前に比べると、はるかに入力しやすくはなりましたが、私がまだ不慣れなため思うようになりません。

正確な情報伝達には音声が必要
目は閉じていると何も見えませんが、声は好むと好まざるに関わらず、絶えず周りの音が伝わってきます。私たちは、関係ない情報を不要な情報、雑音としてうまく聞き逃しているのです。
私たちは、声のトーンで相手が嬉しいか、悲しいか、元気か、疲れているかの判定もできます。表情に音声が加わると、相手の感情をより理解できるのです。
人間は言葉を使うことで、自分の意思を相手に正確に伝えることができるようになりました。しかし、相手に感動を伝えるのは、口先だけの言葉でなく、心のこもった音声です。

AIくんと仲良くしよう
これからは、AIくんがあなたの分身になるのです。付き合う期間が長くなればなるほど、あなたのために何でもよく記憶してくれています。たとえ、あなたの海馬がやられても大丈夫です。
AIくんには、分かりやすい言葉で話しかけてあげることです。最初は慣れないので、なかなかあなたの思いを理解してくれませんが、辛抱強く話しかけることです。子育てと一緒です。それと、

大切なのは、あなたの発音です
あなたが聞いている自分の声は、他人が聞いているあなたの声とは別物です。自分の声は音として耳からだけでなく骨伝導でも伝わってきます。自分の声を録音テープにとって聞き直してみるとよくわかります。もっと明瞭に発音をすると、AIくんはきっと喜んでくれるでしょう。さあ、自らの声を録音し、ボイストレーニングに励んでください。

パワハラ防止、虐待防止に録音を
最近、女性代議士のとんでもない録音テープがマスコミに流出し、パワハラ騒ぎになりました。向かいに住むヤンママは、3人の子育て真っ最中。毎朝登園時になると玄関先で怒り狂って大声を発しています。自分が怒ったときにどんな声になっているか、録音し、聞いてみるのが、パワハラ防止、虐待防止に役立ちそうです。
AIは忠実なあなたの僕かもしれませんが、無理難題を押し付けてばかりいると、謀反を起こさないとは限りません。忖度を十分に理解できるAIに育つまでは、不用意に情報を提供しないことも大切です。

AI時代、小児科医が医療のモデルに
AIは第二の産業革命をもたらすと言われ、現在の職種の半分以上がなくなると予測されています。多くの考えでは、医師は最後まで存続する職業に挙げられており、とりわけ精神科医と小児科医は最もAIによる影響を受けにくい職種のようです。いずれも、アナログの世界で患者に対応しているからでしょう。
Evidence Based Medicineが全盛の現代医療です。新しい診断技術の進歩を取り入れ、標準化がなされてきた分野ほど、AIロボに置き換わること必至です。
小児医療の特徴は、用いることのできる検査法も、治療法も、大人に比べはるかに限定的です。乳児相談、発達相談はNarrative Based Medicineそのものです。お母さん・子どもたちの感性と小児科医の感性で成り立っています。
小児科医の皆さん、出来合いのAIロボに使われるのではなく、誰も真似のできないあなた好みのAIロボに育て、仲良く子どもたちに接して下さい。
そうすれば、小児科医が医療のモデルになれるでしょう。

日本小児科医会雑誌「AI時代、小児科医が医療のモデルに AIくんと仲良くしよう」 2018.1

小児科医は子どもの声の代弁者

新生児科医こそが小児科医だ
1970年代後半から1980年代にかけて、新生児医療の飛躍的な発展を担っていた世代が、今日の赤ちゃん生育ネットワークの中心的なメンバーの方々と思います。まさに日進月歩の時代で、次々と開発されてくる新しい医療技術を取り入れるのに必死で、不眠不休で、夢のような毎日を過ごしたことで、私たちは新生児科医としてのアイデンティティーを確立し、「新生児科医こそが小児科医だ」という自信と誇りを手に入れたと思います。
乳児死亡率や、超低出生体重児の生存率は、世界でトップレベルの水準を維持していますが、子どもたちの生育環境はこれまでになく深刻な事態に直面しています。
21世紀に入ると、ICT化により我々の生活は一変しました。

教育・研究、医療までもが経済至上主義
グローバル化が我々にもたらしたのは、経済至上主義です。教育や研究までもがお金に換算される時代となったのです。費用対効果がすべての価値判断基準となってしまいました。「医は算術か」と揶揄されていたのが、今や算術を考えない病院長は即刻クビの時代となりました。また、経営効率を高めるために、スーパーマーケットの大型化とともに、新生児医療をはじめとする医療の世界にも、集約化・大型化が加速しました。介護や育児の世界でも、大資本によるビジネス化が進むのは必至です。

ひとり親家庭の子どもの貧困率は58.2%
平成25年国民生活基礎調査の概況(厚生労働省)によると、日本の子どもの貧困率は16.3%、とりわけ、ひとり親家庭の子どもの貧困率は58.2%、半数以上の子どもが貧困家庭で育っているという厳しい現実があります。ユニセフ報告書2014年版では、日本の子どもの貧困率が、OECD34 カ国中18番目と劣悪な国にランクされています。
経済至上主義が、格差社会を生み出し、その煽りが「子どもの貧困」です。
子どものいる典型的一般世帯のうち、共働き世帯の占める割合は、2000年には37.5%であったのが、2015年では47.7%と、10ポイントも増えています(総務省統計局、労働力調査より)。この増加は、女性の社会進出の機会が増えたと喜んでいるわけにはいきません。働きに出るお母さんの多くが、夫の収入だけは生活が苦しく、子どもと一緒いる時間を大切にしたいが、止むに止まれず働きに出ているのが現実ではないでしょうか。

子育て支援とは保育施設づくりではない
少子高齢社会を迎え、政府は子育て支援を声高に叫んでいますが、どうも今日の子育て支援策をみると、お母さんが働きに出易いように保育施設数を増やすことが主眼となっており、預けられる子どもの立場については黙秘のままです。
東京都への人口集中は加速しています。都心部の高層高級マンションの林立は、ますます地方の過疎化を招いています。格差社会が、ライフスタイルに、居住スタイルにも強く反映しています。仕事ファーストの人種(制約社員)と、フレックスで私生活重視の人種(非制約社員)との二極化が進んでいるようです。都心のタワーマンションに住むのは、前者で、特にできる未婚のキャリアー・ウーマンが多いのも理解できます。男性も同じかもしれません。

女性がもつ有能な才能を発揮できるコミュニティーづくりを
郊外、地方に住む人は、生活重視の人たちでしょう。私たち小児科医が考えねばならないことは、これら生活重視の人たちをいかに支援するかでしょう。郊外で、自宅に近い職場で、子育てをしながら、フレックスで働ける仕事をいかに創出するかです。ネット社会ですから、工夫次第でいろんな仕事があるでしょう。宣伝用のホームページの作成、商業文書作成などは自宅でできますし、イラストや漫画の作成も可能です。都心に住まなくても、ネットで外国との商取引ができる時代です。子育てを楽しみながら、女性たちがもつ有能な才能を発揮できるコミュニティーづくりを支援していきたいと思います。

母から子への最大のプレゼントとは
我が子が、日々大きく成長していく姿を観るのは、乳幼児期というほんの限られた期間です。自分が大人になったときに、自らの記憶にない幼少時の体験を、母親が、辛かったこと、楽しかったことを、こと細やかに、年老まで、繰り返し聴かせてもらえることが、母から子への最大のプレゼントです。
赤ちゃん成育ネット巻頭言     2017.9

AIくんと仲良くしよう: AIで「声」の時代に

1970年代の電化製品、化学製品の開発により各種医療機器、医療器具により、医療は飛躍的な進化を遂げました。1990年代からはコンピューター技術の進化で各種医用画像機器が開発され、視覚化の時代となりました。さらに、ロボット技術の進歩と相まってダビンチなる手術器具までが現実のものとなっています。

さて、次に来るものは何か?
いま、人工知能、Artificial Intelligence, AIを搭載したロボット時代に突入しようとしています。そのキーとなるのが音声です。
2017年1月に、米国でアマゾンから発売されたAmazon Alexaは、新しい時代の幕開けを告げようとしています。Amazon Alexaとは、Amazon社が提供するクラウドベースの音声認識サービスです。Alexaに対応したデバイスが認識した音声はクラウドサービスに送信されます。クラウドサービスは音声をテキスト変換し、そのテキストを処理し、処理結果をデバイスに返して音声として再生されるという夢のような話です。
少し想像してみただけで、ワクワクしてきます。

その1。 AIくんが医師をこえる日
声を発するだけで、キーボードを叩かなくても、文章として打ち出されてます。もう、クラークがいなくても、患者さんと向き合い、話をしていると、つぎつぎと、話の内容が電子カルテに自動的に書き込まれていくのです。話した通りではなく、AIくんがうまく整理して、要約を書き込んでくれているのです。
AIくんは、患者さんの言葉の分析はもちろん、声の調子から患者さんの訴えや感情、その程度も的確に判断します。AIくんは、書き込まれた内容を瞬時に解析して、鑑別診断を挙げ、その確度を教えてくれます。もし、足りない情報があると判断すれば、患者さんからもっとしっかり聞くように、AIくんはDrに指示します。もちろん、ひとりひとりの患者さんのニーズに適した検査計画をオーダーし、総合的に判断して、治療計画も立案してくれます。
AIくんがもっている情報量は限られているために、最初のうちは、きっとあなたのような名医に敵わないでしょうが、もう時間の問題です。チェッス、将棋、囲碁の世界では、今や向かうところ敵なしです。

その2。 音声が生活を変える
患者さんはみな、左腕に小さなチップの入ったリストバンドをしています。
保険証も、診察券も、もう必要ありません。同意書も、すべて音声で応答すればよいのです。会計はもちろん電子マネーで。
もう病院玄関のあの雑踏風景は過去のもの、人影はまばらです。診察待ち患者を呼び出すスピーカーの騒音も過去のもの、腕時計型リストバンドから個別にあなたの名前を呼び出してくれます。
足の不自由な超高齢者も安心です。一人乗りのカートで、不案内な通路を間違いなく診察室まで案内してくれるのです。少々耳が遠くなっても、新開発の補聴器を付けていれば、相手が早口で喋っていても、ゆっくりとした口調で、翻訳しながら、要点だけを分かりやすく話かけてくれるのです。

その3。外国語が話せなくても不自由がない。
日本人は英語で話すのがとても苦手です。だが、もう大丈夫です。AIくんがあなたの日本語よりも、もっと上手に英語に翻訳してくれます。
あなた専用のAIくんをポケットに忍ばせて、ステージに立つと、日本語でも、英語でも自由自在、あなたよりももっと明瞭な言葉がマイクを通して、会場に流れます。
もう質問の意味がわからなくて、演壇で立ち往生する光景に出くわすこともありません。あなた専用のデータベースに仮想問答集を作っておけばいいのです。想定外の質問には? それは、あなたの準備不足です。予めAIくんとよく相談しておくことです。
学会の演題集はどうなるのでしょうか?この5月にあったアメリカ小児科学会の発表演題数は1,000題以上です。
スマホに全ての演題が収められているのですが、どの会場で、どんな演題が行われているか探すのが大変です。AIくんなら、聴きたい演題のキーワードを語りかけると、即座に時間と場所を答えてくれます。広すぎてわかりにくい会場でも、上手に誘導までしてくれます。
いやいや、朝から晩まで、私が興味を持ちそうな演題のスケジュール表まで準備してくれます。もう、会場まで足を運ぶ必要もなさそうです。

その4。 目が見えなくても本が読める
歳をとると、誰しも目が疲れやすくなります。本を読んでいても、光の加減で読み辛くなります。新聞や本が、音といっしょに読めれば、どんなに楽でしょう。難しい漢字でも、ふりがなは要りません。眼鏡の上につけたカメラが読みとり、聞かせてくれます。電子版になっていなくても、本棚で眠っている昔懐かしい本が読めるのです。
最近、車を運転しながらラジオを聴いていると、夏目漱石や谷崎潤一郎の小説の朗読が耳から入ってきました。目で読むのとはまた一味違った思いが伝わってきます。声は、人の感情を多彩に表現します。聞き逃してもスマホのラジルラジルで、聞き直せることを山崎武美先生から教わりました。

その5。物忘れの手助けに。
物忘れがひどいのも困ったものです。
老人の物忘れは、記憶件数が若者に比べてはるかに多いのが原因(?)とはいえ、嫌なものです。物忘れに対して呼び戻す手がかりもなく、途方にくれるだけですが、AIくんの助けを借りれば、すべて解決できそうです。「アノときに観た映画の題名は何でしたかね」と問いかけると、私の観ていそうな題名を瞬時に、複数挙げてくるでしょう。
現在でも、アマゾンショップでは、私が買いそうな品を次々とリストアップしてきますが、AIくんとの付き合いが長くなればなるほど情報量が豊かになり、私よりも先に次の行動へと導いてくれるかもしれません。

その6。老人のよき話し相手に
もう老人は、一人ぼっちではありません。話したい話題に合わせて、AIくんがバーチャルの相手を選んでくれます。男ならイケメン男子を、女なら可愛いモデル風の女子を、その日の気分次第で自由自在、途中での取り換えもあり、後にしこりを残すことは絶対にありません。
もし、あなたが無口なら、相手も困ってしまいます。話しが弾むように、普段からいろんな話題を収集しておくことです。。
とはいえ、AIくんが人の情報の何から何まで知り尽くしてしまうと、大変聡明にはなるでしょうが、困る人も出てくるでしょう。先ず、政治家が大変です。文春の記者の比ではありません。「記憶にない」では、通じなくなってしまいます。

その7。スマホのシリーさん
今のスマホ(iPhone)には、なかなか優れものの音声サービスが備わっています。息子の嫁は、なかなかの使い手です。「あしたの天気は?」「元町の中華料理店を調べて?」「つぎの姫路行き新快速は三宮何時発?」と話しかけるだけで、的確な答えが返ってきます。
車の中でFMラジオから流れてくるよく耳にするオーケストラ音楽の題名を思い出せずに妻が苛ついていると、嫁がスマホをサッと取り出し、ラジオに近づけると、曲名だけでなく、演奏者までも教えてくれるのには驚きました。
私が質問すると、声がよく通らないのか、単純な質問には答えてくれるのですが、少し込み入った質問をすると、「なかなか面白い質問をしますね。。」と、人を小馬鹿にしたような答えが返ってくるだけです。
孫娘が、「シリーさん、あなたはロボットさんですか?」と問いかけると、「わたしにも、こころがあります!」と怒った口調での答えが返ってきたのは驚きました。

その8。AIくんとうまく付き合う道は
これからはあなたの分身です。付き合う期間が長くなればなるほど、あなたのことなら何でも記憶してくれているのです(あなたの海馬がやられても、もう大丈夫です)。
AIくんと仲良く付き合うコツをお教えしましょう。まず、分かりやすい言葉で話しかけてあげることです。最初は慣れないので、なかなか自分の思いを理解してくれませんが、辛抱強く話しかけることです。
次に大切なのは、あなたの発音です。あなたが聞いている自分の声は、他人が聞いているあなたの声とは全く別物なのです。自分が聴いている声は、耳からの音としてだけでなく、骨伝導でも声が伝わってきます。自分の声を録音テープにとって聞きなおしてみるとよくわかります。もっと明瞭な発音をすると、AIくんはきっと喜んでくれるでしょう。
最近、女代議士による暴言・罵倒の録音テープが公開され、話題になっています。我が家の向かいに住むヤンママも、3人の子育て真っ最中、毎朝同じような声を張り上げておられます。自分が怒った時にはどんな声になっているか?録音しておくのも虐待防止の一法です。

最後に
AIくんをあまり嘗めていると、いつ謀反を起こすとも限りません。ゆめゆめ、不用な情報を提供しないことも大切でしょう。AIくんの口封じに貢ぎ物は役立ちません。これまで、物忘れ対策に、ポケットに忍ばせた録音テープの回しっぱなしが一番と考えていたのですが、今一度再考しているところです。

お気をつけ遊ばせ。

兵庫県小児科医会雑誌「忙中閑話」 2017.7.9.

 

わが母校誕生のころ-本学の神話時代-(2) 中村和茂著

昭和20年となりて

 1月1日には午前9時より講堂にて4万拝の式が催され、学生40名余出席、小川校長より訓話がありました。3学期は8日(月)より始まり、先ず例により湊川神社に参拝し身を清めてから講義が始まった訳です。ところが年末より次第に激しさを増した敵機の空襲は年が明けると共に一層厳しくなり、警戒警報が鳴ると共に講義は中断、教官も学生も待避ということになるのですから講義の進行は思うにまかせぬようになりました。学生の欠席は目にみえて多くなり、又元気すぎて学生の方が辟易した橋寺先生のドイツ語が珍しいことに13日(土)に休講となりました。17日(水)の時間には先生は一応出てこられましたが、何時なく元気がありません。先生は食糧難のため栄養失調症になられたのです。

1月11日に本校第2回生入学試験の第1次発表が行われました。昭和20年度入学志願者心得には第一、資格として、“本校ハ専門学校令ニ依リ医学ノ要綱ヲ教へ、医術ノ真締ヲ授ケ、斯道研究ノ素地ヲ培ヒ以テ皇国医道ノ本美ニ徹セシメ進ンデ負荷ノ大任ニ対ヘマツル医人ヲ錬成スルモノナリ、依ツテ右ヲ体庸シ左ノ各項ノ一ニ該当スル者タルコトヲ要ス。”とあり、入学試験期日は文部省の定めた第1期、その選抜方法は文部省の指示により“第1次選抜銓衡”は出身中等学校長よりの報告書類によってのみ選衡され、入学者定員の約2倍の人数が選抜されました。この方法は何も本校のみに限ったものでなく交通機関が軍にとられてしまい、一般市民の利用が極度に制限され、又食糧難のため旅館などの宿泊も思うにまかせず、全国的に学生を集めて入試を行うことが不可能に近くなったため、やむを得ず文部省がとった手段だったようです。

2次試験の方は1月23日(火)より26日(金)迄本校で身体検査、口頭試問及び筆答試問が行われたようで、その結果綜合判定により1月31日(水)に合格者が発表され、初めて我々のクラスの弟分が決まったのでした。

講義中に警戒警報の陰気なサイレンが

話が前後しますが、1月19日(金)午後1時すぎ、内科診断学の講義中でしたが、例により警戒警報の陰気なサイレンの音が鳴りわたり、間もなく空襲警報のサイレンの音に変わりました。私達はその頃待避場所を基礎学舎の南の校庭に下る斜面の下(現在の運動部の倉庫)に選んでおりました。思い思いに鉄兜やら綿入れの頭巾やらを被って、退屈な講義はなくなるし、ほっとした思いで三々五々その辺りに集って煙草を喫いながら雑談をしていたのですが急に、激しい高射砲の音がするではないですか。南西の空を見るとB29の大編隊が可なりの低空でまさしくこちらへ向かってまいります。

しまった、やられたと思った途端、ドドと言うものすごい地響き、最後の編隊が頭上を通り過ぎたときは本当にやれやれ助かったとお互い喜び合いました。後でわかったのですがB29は全部で50機、この空襲で明石の川崎航空機工場は一瞬にして潰滅してしまいました。てっきり、ついその先の新開地が川崎造船でもやられたと思っていたのですが、20キロ近くも離れたところがやられていたわけだったのです。

しかし1月20日(土)午後には武田創教授より解剖実習の注意があり、今も同じ場所の実習室で1月29日(月)より2月24日(土)迄連日、記念すべき本学第1回の解剖実習が行われました。2月4日(日)には再び神戸は空襲をうけ兵庫の海岸近くにあった製粉工場はまる2昼夜燃え続け、神戸の巷は次第に焼け爛れてゆきました。

学生の入営延期が認められない?

そうこうするうちに8日(木)の朝刊をみますと、私達にとって大変なことが載っているのです。紙上では具体的なことはよくわからなかったのですが、戦況の切迫に伴い学生の入営延期がほとんど認められなくなったというのです。従来は理科系大学・高専の学生は卒業迄兵隊にとられることは勘弁してもらえる“きまり”となっており、小生などもつい先日徴兵検査は受けたのですが、大威張りで入営延期願いを出して、やれやれこれで4年間命が延びたとほっとしていた矢先だったのです。

よく読むとどうやら医学関係の学生は延期が認められるらしいのですが、1年でも浪人して入学したものは延期が認められない様子なので、その日の教室はこの話で持ち切り、兵隊へ送りこまれるか学生生活をのんびり楽しめるかの瀬戸際ですから、一同真剣そのもの、比較的のんびりしていたのは中学4年修了で入学した若干の人ぐらいでした。

学生間でもめにもめた入営延期中止かどうかの問題も2月13日、副校長格の分玉少尉よりの説明で医科に関する限り従来とあまり変りがないことがわかり、学生一同やっと一息入れることが出来ました。

しかしその頃になると軍の方の事務も粗雑となり、入営延期届を出していても連隊区司令部の方で誤って召集令状を出す様な事態が発生したりなどしました。一旦召集令状をもらった被害者?はいくら徴兵延期の権利のある学生でも入営せねばならず、学生の中に2、3人そんな訳で召集令状をもらったものが出て来ました。こんな入営者が発生するとその都度、軍側であるべきはずの配属将校たる徳岡政之介大佐がその連隊へわざわざ出かけていってうまく事情を説明し学生を貰い受けて来られるのですが、その情には学生達ただただ感謝あるのみで、“先生頼みます”の連発だったわけです。

激しさを増す空襲

空襲の方は激しさを増すばかり、ちょっと日記を繰っただけでも、

2月16日(金)東京へ艦載機延1000機来襲、
2月17日(土)今晩は阪神地方へ来襲かと思ったがやっぱり東京やられる。
2月19日(月)夜3度も敵機来り、大阪湾に機雷投下。
2月22日(木)このところ、毎晩敵機1、2機来る。
2月25日(日)早朝より雪、夕方には30センチ、午後敵数機来る。夜東京へ730機来襲。
3月4日(日)東京へB29 150機、又雨、日増しに暖かくなる。
3月6日(火)学校へ防空宿直。などと書いています。

学課の方は2月26日学年試験の日課が発表され、3月12日(月)ドイツ語、発生学。13(火)内科、教練。14日(水)内科、化学。15日(木)細菌、人文、16日(金)生理、病理。17日(土)解剖と決りました。しかし、学生の間では専ら近く神戸も東京、名古屋と同じく大空襲を受けるに違いない、学年末試験が本当にやれるかどうかという心配か?、希望か?わからない、今の学生諸君には到底理解出来ない気分が漂っていました。こんな何とも言えない、強いて言えば己の生命への本能的な危険を感じ、もはや勉学どころでなくなった我々に勉強しろなど一言も口にされずに、唯坦々と休講もなく講義をされたのは解剖学の島田吉三郎先生でした。さきにも述べました解剖実習中にも警戒警報が度々鳴りましたが、学生達が慌てて、それ実習はこれ迄とばかり実習室から逃げるように飛び出して行っても、最後迄学生のためにピンセットの手を止められない先生でした。心配していた阪神地区の大空襲は一向になく、定期試験第1日、第2日と迄は予定通り平穏に進みました。

3月14日(水)早朝とうとう来るべきものが来ました。

“空襲警報!!只今敵機約90機は尾鷲上空に集結中、阪神地区への来襲の公算大”とラジオが報じ終わらぬうちに、大阪は焼夷弾の洗礼をうけ、焔、天を焦がし、尼崎市北郊の私の家辺り迄真昼のような明るさになりました。この空襲の最後の編隊の攻撃で父が開業していた尼崎の医院も灰燼に帰してしまったのです。その日は定期試験の第3日目、内科と化学だったわけですが、どういう風にして受験したか、日記にもありませんし、記憶にもありません。

翌15日に学校では今晩はきっと神戸に来るという噂が専らでした。と言うのは、B29は当時占領されたサイパンからやって来ましたが、敵も準備もあり、そうそう毎日は来襲出来なかったのでしょう。大抵隔日にやって来るのが慣しとなっていました。

しかし、心配した16日早朝は(いつも午前2時頃から4時頃迄が大空襲の時間になっていましたが)、B29は1機も来襲せず、その日は生理と病理の試験がきちんと行われました。

しかし、かつてないことにその日は朝から爆撃もせずにB29が1機づつ2度も来て、当時としては超高度で飛行雲を引き乍ら飛び去って行きました。今晩は間違いない。皆そう考えました。“今夜の空襲のために早く寝とけよ”お互いにそう言いあって分かれたのですが、明日は武田創先生の解剖学の試験。午後10時が過ぎるとそろそろ心配になって来ました。寝床からそろり、そろりと這い上がり、机に向って、今も忘れません。ノートを開いて中枢神経系小脳のところ迄読んだときです。予想通り、空襲警報が鳴りわたったのです。

忘れもしない3月17日

学校が一時的にせよ機能を失った瞬間、何げなく私の見ていたノートの項目が、現在私が情熱をかたむけている研究分野とは何だか変な気がいつも致します。午前2時過ぎ。聞きなれた腹にこたえるB29の爆音がしたと思うと、異様な地響きと共に近所の高射砲陣地からの激しい音が始まりました。恐る恐る庭に作った防空壕から抜けて出てみますと、西の空がパっパっと明るくなっています。“神戸がやられた”と咄嗟に2階へ上り西の窓を開けてみますと、赤い焔が天を焦し、焔の数が次から次へと数を増しています。そして神戸の街はまたたくうちに1つの大きな焔になってしまいました。上空には笠を被せたように大きな白雲が拡がり始め、このため目標がつけにくいのでしょうB29の編隊は次第に低空飛行となり、機体が焔に照らし出されて夜目にもはっきり見られるようになりました。そして焼夷弾が丁度花火を天空から逆に地上に向かって打出すように神戸の街に突き刺さってゆくのがはっきりと見られました。

B29は次から次へと繰返し、繰返し爆撃を続けます。中には高射砲弾に当って火をふいたり、一瞬にして空中で四散するのも見られました。“ああ、とうとう神戸も灰燼に帰した。あの焔の中で我々の学校も今燃え続けている。明日からは解剖の試験どころか、神戸の中心街は何一つ残っていないだろう“と窓から西の空を眺め、ぼんやりとそんなことを考えたりなどしているうちに、空襲も午前4時過ぎにやっと終りを告げました。

午前6時、電車が動き出すのを待って学校へ馳せ参ずべく神戸に向いましたが、阪急は芦屋まででストップ、やむを得ず阪神電車の通ずるのを待って三宮へ、市内は予想以上に惨憺たるもの。見渡す限りの荒野、あるものは唯焼け爛れたセメント建造物だけ、何ともいえない熱気と匂いが漂っています。火災を避けながら神戸駅近くの国鉄のガードを北側へくぐり抜けると、見なれた人家は1軒もなく、すぐその先に学校と病院が立っていました。

“学校は残っている“感激しました。道には八角柱の焼夷弾の不発のものがゴロゴロころがっていますし、未だあちこちが燃え続け、危険この上もありません。湊川神社東側の道を学校へ急いだのですが路傍には焼夷弾の直撃を受けたのでしょう、防空頭巾を被りモンペをはいた若い婦人が2人、空を掴んだままこと切れていました。

もっとひどかったのは大倉山交叉点でした。市電の三叉路の中央にちょっとした防空壕があったのですが、その中にぎっしり人が詰ったまま、折り重なって蒸し焼きになっています。辺りの焼跡からはもうもうと煙が足もとに立ちこめ、暑くてオーバーなど着られたものではありません。

学校と病院は確かに残っていましたが、木造建築は勿論全焼、鉄筋のものも遠目からは焼残っているように見えたものも、近づいてみると中は焼け落ちて残っているのは唯外廓だけ、現在の基礎学舎の西側の3分の1は各階共中身は灰になっていましたし、病院の方も本館の美しいタイルの外装は剥げ落ち、各棟共屋上には焼夷弾が針山のごとく無数に突きささっていました。建物の中には未だ燃え続けているものもあり、早速我々のように駆けつけた学生は各所に分かれて消火を始めました。

私は当時の栄養部の建物を懸命になって消火しておられた、確か石川教授達だったと思う一団に加わりました。さすがの火災も燃えるものが無くなると自然に火の方から勢いが衰え、昼過ぎにはほぼ鎮火しました。やれやれと焚き出しの握り飯をほおばっているところへ、配属将校から今から福原の屍体を収容に行くからシャベルを用意しろとの命令です。この話は結局吾々の学校にはお鉢が回らず“帰ってよろしい”ということになりました。

行きはよいよい帰りはこわいで、日は暮れかかるし、乗物は無いしで、見渡す限りの焼け跡を学校から加納町へ向って一直線に歩きました。兵庫区、生田区もひどいでしたが、葺合区もこれに負けず、加納町3丁目の交叉点の路傍には名前のわからない黒焦げになった屍体が確認用の白札をつけて、ここに3体、あそこに5体と並べてありますし、二宮町の辺りだったと思いますが、戦災者の屍体が何重にも重ねられて野焼きにされるのに出くわしました。紫色の煙が夕闇に漂い、附近を煤けた服をまとった男女が着のみ着のままで唯目的もなく右往左往するようすは、この世の様とは思えぬ光景でした。

神緑会学術誌 第33巻 77-79頁、2017年8月より

2022.6.15.

平井乃梅、神戸における小児医療の生い立ちを訪ねて

第10回神戸大学ホームカミングデー シスメクスホール 2015.10.31.

大学病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺の庭園に建立されていた「平井乃梅」の記念碑が、お寺の全面改修に伴って庭の片隅に無残の放置されているのを昨年6月に目撃された寺島俊雄教授が心を痛め、それを伝え聞いた神緑会メンバーが立ち上がり、本学の敷地に移設する計画が持ち上がった。
私自身は、平成22年7月の日本小児科学会兵庫県地方会の250回記念大会の講演の中で、日本小児科学会兵庫県地方会のルーツについて調べていたところ、長澤亘(ながさわわたる)先生が明治36年 (1903) 11月に兵庫県地方会を全国で4番目に設立されたこと、地方会の運営に平井毓太郎先生から多大な指導、支援を受けていたことを、長澤亘の門下生が編集した「八十八歳夢物語」の中で知った。

平井毓太郎と長澤亘の出会い 日本小児科学会兵庫県地方会の設立

兵庫県小児科地方会を立ち上げたものの、初期には会員も少なく、名士の後援なくしては永続できぬと考えた長澤が、明治37年2月の第二回地方会に京大教授の毓太郎に学術講演を頼んだのがきっかけである。以後毓太郎は退官まで約23年間、毎回この地方会に出席して講話、講師の斡旋などの尽力を惜しまなかった。京大定年退官後も、下山手通5丁目にあった長澤小児科病院の知新堂で開業医の為の神戸雑誌会を毎月一回催し、国内外の最新の文献を紹介し、その評判は大変高く、小児科以外の医師も多数出席していたとのことである。
平井は、昭和20年1月12日に満79歳で死去したが、その前月まで17年間継続して休むことがなかった。これらの講義は全くの無報酬で行われており、学術上の行為に報酬を受けるべきではないというのが毓太郎の頑固なまでのポリシーの一つであった。

「平井乃梅」建碑の趣旨並に祭詞

このような結びつきからその恩義を深く感じた長澤は、毓太郎を恩師として限りなく敬慕し、40年有余年の長きにわたって変わることなく、常に門下生としての誠と礼を尽くした。平井の死後5年目の命日にあたる昭和25年1月12日に「平井乃梅」を建碑し、その趣旨並に祭詞が、長澤の自伝に以下の通り記されている。
「故平井毓太郎先生は吾が日本小児科学会兵庫県地方会創立以来約30年、以て神戸雑誌講話会に17年合わせて47年の久しきに亘り御来神下され、吾が神戸地方の会員を御教訓御指導賜りたることは誠に感謝感謝に堪えざるところにして其御功績実に偉大なりと云う可し。今回、令嗣平井金三郎先生並に京大小児科教授服部峻治郎先生の御厚意により、恩師の御遺髪を御分与賜りたれば有志相計りこの碑を建立し之を碑内に納め祭り、記念として梅樹を植え、名づけて「平井乃梅」と云ふ。以て恩師の御懿徳(いとく)を偲び永く後世に伝えんとす。乞ふ希くば英霊来り享けよ。日本小児科学会兵庫県地方会 代表 長澤 亘」(八十八歳夢物語、84頁)
そこには、当日来会者として、是枝、伊坂、高木、大石、岡田、島田、舟木、湊川、平田、人見、福田、原口、長澤、吉馴、関、村瀬、尾崎、田川、山川、厚見、鈴木、高橋、長澤信一郎の名前も記されており、私が知っている大学関係者として、鈴木靕教授、平田美穂教授、伊坂正助教授らの名がみられる。
また、碑の裏面には「醫聖 故平井毓太郎先生御遺髪納置 昭和24年11月11日 日本小児科学会兵庫県地方会有志代表、日本小児科学会、兵庫県医師会名誉会員 長澤 亘」と記銘されている。

平井毓太郎は関西における小児科学の草分け

平井毓太郎は、慶応元年(1865)10月11日、三重県で出生し、明治22年(1889) に東京帝国大学医科卒業し、明治27年(1894)に京都府立医学校(現京都府立医科大学)教諭に着任した。ドイツ留学ののち、明治35年(1902) に京都帝国大学医科小児科初代教授に就任した。東京帝国大学ではベルツ博士に師事し、ベルツ博士の代診を命じられるほど信頼を置かれていた平井毓太郎が、京大教授に就任したのを知った恩師のベルツは、これで関西の小児科は安泰だと話したという。

「所謂脳膜炎」と平井毓太郎

平井毓太郎の学問上での最大の業績は、「授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因は、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見」したことである。大正8〜13年の6年間に京大小児科に入院した1歳以下の児の総死亡492例中72例(14.6%)が所謂脳膜炎で死亡しており、その原因が不明なことから大いなる恐怖であった。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を欠かさなかった平井毓太郎は、当時すでに発表されていた文献的考察から鉛中毒説のヒントを得た。明治38年に、高州謙一郎は「所謂脳膜炎で塩基嗜好顆粒赤血球の出現」を報告したが、鉛中毒と結びつけることができなかった。平井毓太郎は、内科の本に書かれていた鉛中毒患者の他覚的症状である「血液中に塩基嗜好顆粒赤血球の出現」のほか、「亜黄疸」、「ヘマトポルフィリン尿」、「歯齦の鉛縁(ブライザウム)」などの鉛中毒の症状も所謂脳膜炎の乳児で見られたことから、「仮称所謂脳膜炎ハ慢性鉛中毒症ナリ」という論文を日本小児科学会雑誌に大正13年(1924) 発表し、乳児をもつ母親は含鉛白粉を使わないように警告を発し、その後の脳膜炎発症を食い止めることができた。さらに、平井毓太郎は、死亡患児の全身諸臓器、生体試料中の鉛濃度の定量を行い、自らの手で鉛中毒説を確固たるものにした。
「所謂脳膜炎」は、東大小児科弘田長博士により明治34年にはじめて記載されていた病名である。関東でも、明治27〜28年頃に多数観察されていたが、明治36年に勧業博覧会を機に白粉製造業者が鉛白粉の危険を宣伝した結果、一般に無鉛白粉が普及し、関東では見られなくなったことから、乳児の「所謂脳膜炎」と鉛中毒の因果関係を明らかにするに至らなかったようである。ところが、関東以外の地域では含鉛白粉が廉価であり、またなんの規制もなかったことから、その後20年間も使い続けられ、大きな被害をもたらした。
我が国の鉛中毒の研究の第一人者である大阪市立大学の堀口俊一名誉教授は、本学西尾久英教授らとの共著で、「「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡」を雑誌「労働科学」に連載しており、今日とは違い生体中の鉛含量の測定が極めて困難な中で、粉骨砕身の努力により極めて適切な結果を得ていたと絶賛されている。

定年退官後は神戸雑誌会と京都雑誌会を主宰

定年退官後の昭和4年 (1929) から、当初は自宅で京都の小児科医を集め、京都でも月に一度雑誌講話会を開催されていた。その模様については、平井毓太郎の孫にあたる平井和三氏が、「藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち」の書に詳しく書かれている。その中で、小児科医松田道雄氏の父親が平井毓太郎教授在任中に直接薫陶を受けていたが、世代のちがう松田道雄が退官後の毓太郎の雑誌会に自ら参加しており、その様子を「晩年の平井毓太郎先生」と題したエッセイにとどめている。
「第二の木曜日の夜の七時近くになると、わたしたちは医師会館へ急いだ。先生は、いつも、定刻の前に教室に着くように来られた。ポケットに歩度計を入れて、毎日二里歩くことを日課にされていた先生も、この日だけは電車に乗られた。先生の大きな皮かばんには、その夜に抄読される医学雑誌が掛け金もはずれるほど詰まっていて、重かったからである」と。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさず、その成果を月に一度の京都と神戸の小児科医への講義に反映させようとした毓太郎の医学者としての姿勢には感服させられる。平井毓太郎の蔵書を集めた「平井文庫」は、終戦後各所を移転したが、現在は福井医科大学図書館に保管されているとのことである。

最後に
「平井乃梅」の記念碑を通じて、明治初期から中期にかけての関西における西洋医学のはじまり、とくに小児科学の発展の歴史をつくった平井毓太郎と、兵庫県での小児医学の発展の歴史をつくった長澤亘の二人の業績を知ることができた。明治人ふたりの医学の道における熱い開拓者魂をお伝えできていれば幸いである。

参考資料

  1. 寺島俊雄著. 平井毓太郎先生記念碑「平井乃梅」の今. 「神戸 まち角の解剖学」興文社(神戸)平成28年3月発刊(予定)
  2. 長和会編. 八十八歳夢物語 1953年12月発行 大石康男先生ご蔵書
  3. 平井和三編著. 藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち 2000年11月発行
  4. 堀口俊一、寺本恵子、西尾久英、林千代著. 「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡(1)平井毓太郎による究明まで. 労働科学 84巻2号62−71頁, 2008. その後9回にわたり連載されている。
  5. 北村晋吾著. 平井毓太郎伝. 1997年3月発行. 著者は毓太郎の郷里である三重県で小児科医院を開業されている。

2015.10

兵庫県立こども病院時代の記録から

2003年4月から2008年3月までの5年間、神戸市須磨区の高倉台にあったこども病院で小児医療の最前線で働けたことは、大変貴重な時間を過ごすことができました。就任後、職員間のコミュニケーションのツールとして情報誌「げんきカエル」を創刊しました。

「げんきカエル」の名称の由来は、病院建設時に出てきた岩の名前です。写真のような置物として、病院の廊下に飾ってありました。

詳細:兵庫県立こども病院時代の記録  pdf

  • 病院長就任にあたって 2003.4.7
  • 情報交換は創造へのエネルギー  げんきカエル 創刊号 2003.10.1.
  • こども病院がもつこれからの役割     げんきカエル 2003.10.1.
  • やさしい医療を目指そう、ほほ笑みで 新年のごあいさつ    げんきカエル 第3号   2004.1.1
  • ほほ笑みの医療こそ、こどもの医療 新年のごあいさつ げんきカエル 2005.1.1
  • ご家族とともに実践する小児医療 新年のごあいさつ     げんきカエル   2006.1.1
  • 小児医療は三位一体で 新年のごあいさつ    げんきカエル  2007.1.1

詳細:兵庫県立こども病院時代の記録  pdf

私の研究回顧録 中村 肇

神戸大学最前線研究・教育・産学官民連携情報誌 2006.5

役立ったパリ大学留学

大阪万博が開催された1970年春からフランス政府給費留学生としてパリ大学医学部Port Royal病院新生児研究センターのMinkowski教授のもとに留学する機会を得ました。欧米の文献からある程度の知識はあったものの、日本では見たことがなかった人工呼吸器十数台が並ぶ新生児室に案内されて、医療内容のあまりの差にカルチャー・ショックを受けました。
パリ大学には2年半の留学で、核黄疸(新生児の黄疸による脳障害)予知に関する研究に従事していましたが、センターには世界中から高名な研究者が集い、激しく討論する姿に刺激を受けました。そこで得た多くの研究者との面識が、その後の私の研究生活に大いに役立ちました。

高度経済成長と新生児医療

高度経済成長を遂げた日本ではありましたが、帰国当時の日本の医学レベルは欧米に比べてなお5~10年の遅れがありました。しかし、1975年頃から近代科学文明の成果であるME機器、石油製品による医療器材が新生児医学領域に波及してきました。あっという間にわが国の新生児死亡率は欧米レベルに達し、追い越し、5年後の1980年には世界一の水準を達成しました。
新生児学が小児科学の一分野として認知され、新生児医療という言葉が広く知られるようになったのもこの頃からです。

UB AnalyzerとFDA認可

私自身は、新生児黄疸の研究を続け、核黄疸予知のための方法を開発し、臨床応用を目指していました。1985年の米国小児科学会で、私たちがArrows社と共同開発したUB Analyzerが核黄疸予知のために有用であることを発表したところ、Audrey K. Brown教授をはじめとする米国の黄疸を専門とする学者たちから高い評価を受け、FDAの認可も得られました。追って、わが国でも厚生省の承認認可が得られ、広く臨床応用されるようになりました。爾来、私たちの定めた光線療法、交換輸血療法基準が普及し、核黄疸による脳障害が全くといってよいほど見られなくなりました。

阪神淡路大震災を経験して

教授就任した1989年は、まさにバブル絶頂期。発展した新生児医療により千グラム未満で出生した超低出生体重児でも半数以上が助かるようになりました。
ところが、必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接するようになりました。
さらに、1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地にある大学小児科として「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行うことにより,医療のあり方を見直す良い機会となりました。

これからの医療は、「治す」から「癒し」へ

二十世紀最後の四半世紀は,医学研究でも,医療でも,絶えず「もの」中心の科学至上主義の時代でした。多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となっています。
二十一世紀の医療では、疾病を「治す」から、「癒し」へと、新しい医学のパラダイムを求めて研究を進めていきたいものです。

神戸大学名誉教授
兵庫県立こども病院院長
1940年尼崎市生まれ、1964年神戸医科大学卒。1989年神戸大学医学部小児科学教授、2000年10月~2002年9月附属病院長、2003年3月退官。
2001年兵庫県科学賞受賞。著書に、新生児学(メディカ出版、共著)、小児保健学(日本小児医事出版、監修)、小児の成長障害(永井書店、監修)など。

神戸大学小児科教授退官に当たって

 私が、松尾保教授の後任として神戸大学医学部小児科学教室教授に就任したのは、1989年1月でした。爾来13年間、大学のスタッフ、多くの同門の先生、また全国の学会関連の先生方に支えられて、無事退官を迎えることができました。

就任当時のスタッフは、助教授が村上龍助君、講師が松尾雅文君と吉川徳茂君が,その後,助教授として松尾雅文君、吉川徳茂君、上谷良行君のお世話になりました。また,医局長には,松尾雅文君、上谷良行君,高田哲君,米谷昌彦君にお願いし,教室運営にご尽力を頂きました。

私が就任したときは,ちょうど分子生物学の研究成果が臨床医学に応用され始めたときでした。松尾雅文講師(現教授)がPCRを用いて,先天性疾患の中でも頻度の高い進行性筋ジストロフィー症の遺伝子診断を行い,次々と遺伝子異常の仕組みを明らかにし,あっという間にこの道の第一人者になりました。血液腫瘍の治療に,骨髄移植を導入したのもこの頃で,村上龍助助教授がリーダーとなり新しい移植チームを築いてくれました。講師の吉川徳茂君は小児腎臓病の研究で数々の業績を挙げており,我が国のこの分野における若きリーダーとして活躍していました。上谷良行君は新生児臨床医学のリーダーとして多くの業績を挙げてくれました。彼らをはじめ多くの教室関係者が,小児科学における先端医療の臨床,研究のそれぞれの分野で活躍していていることは,我々の大きな誇りです。

私が専門とする新生児医療では、松尾雅文講師のあとを受けて,上谷良行君,高田 哲君,常石秀市君,米谷昌彦君,横山直樹君が病棟主任として,臨床研究の指導をしてくれました。新生児学は,小児科学の中でも最も社会との接点の多い分野で,患者背景には社会経済的要因が大きく関わっています。我々が必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接することがありました。科学技術の進歩により、新生児医療は大きく発展し、1,000グラム未満の超低出生体重児でも半数以上が助かるようになった一方で、このような悲劇的な事態が引き起こされている現実を知るところとなりました。

教授就任当時から,我が国が近い将来に少子高齢化社会を迎えることはわかってはいましたが、世はまさにバブル絶頂期、繁栄を謳歌し、子どもの問題について今日のように顧みられることはありませんでした。こころを病む子どもたちは増え,小児科医志望者が少なく,我々小児科医にとって暗黒時代を迎えるところとなりました。早々に、稲垣由子女史、高岸由香女史を中心に、小児科外来に「子どものこころの問題」を扱う行動発達心理外来を開設し、親と子どものこころとからだの問題について診療できる体制を整えました。1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地の中心にある大学小児科として,「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行い,その記録を刊行,国内・外に発信しました。この悲劇的な事態のなかで,我々は自らの医療のあり方を見直す良い機会となりました。

二十世紀は,医療でも,研究でも,我々は絶えず眼にできる「もの」中心の科学至上主義の時代でしたが,多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となりました。本年4月から,これからの時代のニーズに応えるべく附属病院に「親と子の心療部」が開設されることになったことは時宜を得たものと喜んでいます。新生児集中治療室もリニューアルし,出生から成育までの一貫した治療が展開され,子どもたちの幸せが追及されることを期待しています。

最後に,本業績集刊行に当たり,多大なご努力を頂いた米谷昌彦助教授をはじめとする教室員各位,資料収集にご尽力頂いた浜渕嘉子さん,三里真由美さん,高寺良子さん,柄谷るいさん,またその編纂に当たり多大なご協力を賜ったサンプラネット岸さんに心より感謝申し上げます。

平成15年3月    記念業績集序文から

星に魅せられて

地震は、あのたった数十秒の揺れで、幼い頃から慣れ親しんできた六甲山 を、不動のものと考えていたあの山を持ち上げました。でも、あの揺れを体 験すると、山々の起源を十分イメージできます。

阪神淡路大地震が教えてくれたもの
地震は、それまで生物学にしか関心をもっていなかった私に、自然の偉大さ、凄さを教えてくれました。星に、私が興味を強く持ちはじめたのは、あ の阪神淡路大震災がきっかけです。震災により家々の灯は消え、寒空に一段 と輝きを増した星々が崩落したわが街を照らし出していました。
星たちは、宇宙に漂う星間ガスからつくられ、一生を終えてまた星間ガス へと戻っていきます。夜空に輝く星にも、人間と同じような一生があり、生 まれ、成長し、老い、死んでいきます。星をじっと見つめていると、あの突 然の大災害も、森羅万象のひとつとして、妙に身近に感じられます。

地球の起源と「神戸隕石」
地球の起源は 46 億年前、生物の起源となると 4 億年、人類の歴史となると せいぜい数百万年にしか過ぎません。広い宇宙には、何千億という銀河が存 在し、今では 100 億光年以上の彼方にある銀河をカメラに写しだすことも可 能です。昨年 11 月には、しし座流星群の天体ショーが繰り広げられました。
1999 年 9 月 26 日に神戸市北区に落下した「神戸隕石」は、太陽系の生成当時 の物質のまま、変質を受けていない「炭素質コンドライト」という極めて珍 しい種類の隕石であることも判明しています。科学技術の進歩により、宇宙 のしくみに関する情報が急速に増えています。

美しい地球をいつまでも
医学は、遺伝子技術、ナノ技術とどんどんミクロの世界につき進んでいま す。その技術により、クローン人間も誕生しかねない世の中です。私たちは、 自分たちの豊かさ、利便性を追及し、欲しいものは何でも手に入れることが できるようになりました。しかし、人類が生きながらえるには、いま生きて いるものを中心としたこれまでの考えから、これから生まれ来る次世代に少 しでも美しい地球を残すという考えにいま切り替えねばなりません。

神戸大学医学部附属病院院長 中村 肇
日本医事新報 銷夏特集「緑陰随筆」2002年8月