いよいよ明日からオリンピック

2021-7-22

日本では、いよいよ明日から東京オリンピックが始まります。
東京の新型コロナ感染者がオリンピックに合わせたように日々増加しており、今や、政府は何ら打つ手がなく、放置したままです。

なぜ、このような事態になったのか?

これまで、日本では欧米に比べて桁違いに感染者数、死亡数が少なかったのは、日本人のもつ感染症に対するガードの固さ、周囲への気配りなど、感染症対策に真面目に取り組んできたおかげです。
元々欧米人と東洋人とは異文化の人種です。辛抱強く耐えるのが日本人の特性です。

オリンピックを開催すれば、人流が増加し、感染者数が増えるのは自明のことです。国際社会に対してしっかりと「ノー」と言えなかった日本政府の責任は重大です。

オリンピックは黒船来襲のようなもの

江戸時代末期の黒船来襲時には、尊皇攘夷の若き志士たちが立ち向かい、日本国を守ってくました。
今回は、復興五輪として新生日本を世界に発信するはずのものが、腰砕けの中で、IOCの意見に押し切られた感が拭えません。彼らは、ワクチンという武器を引さげて、島国日本に攻め込んできたようなものです。国産ワクチンを持たず、接種率が上がらなかった日本の悲しさです。

高齢者の多くがワクチン接種済みですから、以前のように死亡者は増えないでしょうが、中年〜若年層の重症者が増加しているのが問題で、大きな傷が残りそうです。

今回の日本のオリンピックへの対応を見ていると、ずるずると太平洋戦争に巻き込まれた日本、気がつけば国土が焦土化していたという最悪のパターンにならないこと念ずるだけです。

第2章 医学部学生時代 激動の1960年代

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第1話 医学部学生時代
第2話 小児科に入局した頃 1965年
第3話 大学紛争の渦中で 1960年代後半

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第1話 医学部学生時代

私は、1958年に神戸医科大学の医学進学課程のある姫路工業大学に入学しました。

2回生の時には、日米安保反対の提灯デモが、姫路城の周りで連日繰り返されており、同級生数名と文化人団体の中に紛れて参加したことがあります。

1960年4月から、湊川神社の北にある神戸医科大学で医学を学び始めました。

医学部の授業は他学部とは違い、どの科目も実習時間が長く、1年生の時には1年間近く解剖実習を受けたように思います。実習に出席しなければ、単位が取れないので、慌ただしい4年間が夢のように過ぎました。

60年安保闘争とインターン制度廃止運動

1959年から1960年にかけて、日米安保条約の改定を巡って、学生の反対運動が全国的に広がったのが、60年安保闘争です。

6月15日には、全学連が、国会構内になだれ込むなど警官隊と激しく衝突し、学生・警官双方の重軽傷者は数百人にのぼりました。この衝突で東大生、樺美智子さんが死亡されました。

彼女は、私の中高ともに2年先輩であり、高校時代は自治会の役員もしておられ、われわれの憧れのマドンナでした。

当時は、学生運動が盛んで、私自身も、日米安保反対運動で米国領事館へのデモに参加し、学部3年になった頃にはインターン制度無用論が湧き上がり、しばしば集会を開いていました。

結局、われわれの学年は従前通りにインターンを済ませたのち、医師国家試験を受験しましたが、数年後には、激しいインターン・ボイコット運動の末、廃止されました。

卒業式の1週間前に、医学進学課程からのクラスメートの道子と結婚しました。披露宴はクラス会のようなものでした。

金婚式どころか、もうすぐ60年になります。道子が大きなお腹で、仰向けに寝て国家試験の勉強をしていたのが思い出されます。

無医村でのボランティア活動

課外活動で一番記憶に残っているのは、社医研でのボランティア活動です。毎年、夏休みには、兵庫県北部の鳥取県との境にある湯村温泉から、渓谷沿いに10数キロ登った人里離れた山深いところに、岸田地区という無医村がありました。

今から思えば卒後2、3年目の先輩医師をリーダーに、医学部学生や看護学生が10数名参加した、合宿生活です。

検診といっても、血液検査はまだ一般的でなく、尿検査、検便虫卵検査と血圧測定くらいだったと思います。

冬は雪深いところで、この地区は但馬牛の畜産農家が多く、大きな親牛が飼われていました。普段は訪れる人もないため、私たちは大変歓迎されていました。

国民皆保険、厚生省と日本医師会の抗争

国民全員が何らかの公的医療保険制度に加入する国民皆保険がスタートしたのが1961年4月です。世界的に見て日本が自慢できる国民皆保険制度は、日本医師会と厚生省(現厚生労働省)の激しい抗争の末にできたものです。

日本医師会は、国民皆保険の実施を前にして、診療報酬の引き上げや制限診療(保険診療で認められる診療行為の範囲を事前に決めること)の撤廃を強く主張、自らの主張を通すため、保険診療のボイコットに相当する「保険医総辞退」や、都心での集会を行っていました。

当時の日本医師会は、医師の団体ではありますが、国民の健康・医療を守る責任のすべては医師にあるという強い使命感を持っていたように思います。

ポリオの流行と生ワクチン

ポリオウイルスは、脊髄の運動神経細胞への親和性が高く、子どもの身体に重大な障害やマヒを起こす疾患で、その後遺症を持ち続けている方は、今日でもたくさんおられます。

学生時代にポリクリ実習で内科の病棟に行くと、ポリオウイルスが原因で呼吸筋が麻痺し、自立呼吸ができなくなり、「鉄の肺 (陰圧式人工呼吸器)」の助けで、生活されている患者さんがおられました。

ポリオは、世界中で流行しており、日本でも、1960年には、北海道を中心に5,000名以上の患者が発生する大流行があり、大きな社会問題となっていました。

日本では、注射用のソークワクチンの国内生産が追い付かず、輸入も不十分だったため、深刻なワクチン不足が発生し、各地でワクチンの奪い合い騒動が起きました。

国民の声に後押しされて、厚生省は、1961年にソ連から生ポリオワクチンを緊急輸入し、一斉に投与することにより、流行は急速に終息したという歴史があります。

60年後のいま再び、新型コロナ流行対策でも、諸外国に比べてワクチン接種での対応の遅れがみられるのは日本人の性癖でしょうか。 トップへ

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第2話 小児科に入局した頃 1965年

なぜ、小児科医を目指したか

私は、小児科医院を開業していた母親に育てられ、叔父と従兄も小児科医だったので、小さい頃から小児科医は人の役に立つ、やりがいのある仕事と感じていました。

中学生の頃には、多くの友人たちは、医師の家系にある私が「小児科医」になるものと決めつけており、私もその気になっていたようです。

学生時代のポリクリ(臨床実習)では、小児病棟が日当たりの良い最上階に位置していたこともありますが、他の病棟では見られない明るい光がいつも差し込んでいるように感じました。

病める子たちに接している看護師さんをはじめとするスタッフの立ち居振る舞いがそうさせていたのでしょう。

私が神戸医科大学を卒業したのが昭和39年(1964年)で、東京オリンピックの年です。1年間の神戸医大附属病院でのインターンを済ませ、医師国家試験にも合格し、医局から特段の勧誘を受けることもなく、当然のように平田美穂教授の小児科の門を叩いていました。

初顔合わせでは、何と大学の同級生が6名も集まっていました。 

いろんな伝染病が流行っていた

私が入局した1965年当時は、毎年、冬には麻疹が大流行しており、初めて麻疹患者の口内を診たときの粘膜の異様な発赤、コップリック班は、あまりにも教科書通りで印象的でした。

我が国では、1966年にKL法(不活化ワクチンと生ワクチンの併用)による麻しんワクチン接種が開始されました。

当時の生ワクチンは、副反応が強く、その反応を軽減する目的で不活化ワクチンとの併用で実施されていましたが、異型麻疹等の問題がありました。

1969年からは新たに開発された高度弱毒生ワクチンに切り替えられました。

つぎつぎと各種感染症に対するワクチンが開発され、入局年度が1年違うだけで、感染症に対する臨床体験がかなり異なっています。

下痢・脱水で乳幼児が死亡

夏には、法定伝染病の赤痢や腸チフス(サルモネラ症)の流行もありました。毎年流行するのは特定の地域の病院で、大学から交代で応援出張に駆けつけていました。

秋も終わりに近づくと、乳幼児で激しい下痢を伴う冬季白色便下痢症,白痢が毎年流行していました。

コレラ便に似た米のとぎ汁様の白っぽい下痢便を出すので、小児仮性コレラとも呼ばれ、激しい脱水を伴い、救急室で死亡する例もありました。その後、その原因がロタウイルスによる下痢症と判明しました。

入局当時は、輸液といえば、大腿四頭筋に太い針を挿入し、泣き叫ぶ子を押さえつけながら、「大量皮下注射」するのが主流でした。その後、静脈切開や手作りの留置針で試行錯誤しながら、静脈確保を試みるようになりました。

これらの感染症は、1970年代に入ると、あっという間に見られなくなりました。井戸水が水道水になり、下水道の整備が進んだからです。 トップへ

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第3話 大学紛争の渦中で 1960年代後半 

1960年代後半には、学生によるベトナム戦争への反戦運動が、フランスを発端に世界中で展開されており、大学以外でも市民によるさまざまな反体制運動で盛り上がっていました。

こうした時代にあって、東京大学では1968年1月末に大学本部のある安田講堂を学生が占拠し、警察機動隊が本郷キャンパスに突入するという大学紛争となり、全国の大学に飛び火しました。

医学部にはインターン制度廃止を訴える全国医学生連合(医学連、のちに青医連)があり、さらには無給医制度という時代遅れの体制が残っていたことが紛争の火種となりました。

「ゲバラの日記」と「都市の論理」

1960年代は、科学技術の進歩により、いずれの国も大きな経済的発展を遂げ、物質的には豊かな社会にはなりましたが、格差社会が露わになったのが、世界中を巻き込んだ学生運動の背景にあったようです。

当時の学生運動家によく読まれていた本が、カストロとともに、キューバ革命の立役者の一人であったチェ・ゲバラの「ゲバラの日記」と羽仁五郎の「都市の論理」です。

「都市の論理」では、社会改革を実現するには、まずこれまでの家族関係そのものの否定が不可欠だとの主張されていました。

「小児科無給医会」を結成

全国の医学部では、学生を中心に、若手医師をも巻き込んで、研修医制度を巡って教授会と対立し、無期限ストライキなど、学生と大学との対立状態が続きました。

私たちの小児科医局でも、全国的な動きに呼応して、39年卒と40年卒を中心に「小児科無給医会」を結成し、「無給医制度の廃止」と「学問と研究の自由の保証」を旗印に、当時の教授平田美穂先生を中心とした「小児科教官会議」と対峙していました。

全国的な大学紛争は、その後も数年続きましたが、昨日まで同じ釜の飯を食っていた先輩、後輩の気まずい対立は、長くは続きませんでした。

当初、私は先頭に立って医局解体を叫んでいた一人でしたが、もう30歳近くなり、妻や3人の子どもがいる身、徹底的に改革を目指して踏ん張るだけの意欲を持ち合わせていないことに気づきました。

40年卒の根岸先生が同門会誌に松尾保名誉教授への追悼文に触れられているように、我々に直接研究指導を行って下さった松尾保先生をはじめ、多くの先輩の先生を困らせ、申し訳なく思っています。

大学を離れることに

私自身は、大学医局内に居り場がなくなり、新しくできた明舞団地の病院に一人勤務することになりました。連日100名以上の患者が押し寄せてきましたが、人手のなくなった大学医局に応援を頼むこともできず、黙々と働いた日々でした。

ある日、大学の助教授をしていた従兄から、「おまえは米国領事館へのデモに参加していたから、アメリカ留学は無理だろう。フランスのパリ大学はどうか?」という助言がありました。

かねてより、外国留学を夢見ていましたので、早速フランス語の勉強を始めました。三宮にあるフランス語教室に通い、ラジオ・テレビのフランス語講座を聴き、何とか年末に行われる「フランス政府給費留学生」試験に合格し、翌年4月に渡仏することになりました。   トップへ

コロナ下での熱中症の気づきと対処

倦怠感がある・頭がふらつく・発熱や頭痛など、熱中症の症状の多くが、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の症状と共通しています。リンク元のアンカーテキスト

熱中症の初期には、「頭痛」や「めまい」、「だるさ」、「吐き気」など、ありふれた症状がみられます。熱中症による脱水で特に影響を受けやすいのが、脳・消化器・筋肉です。いずれの臓器も、機能の維持には、多くの水分が必要なのです。

体調不良の原因が、高温や高湿度にあると疑えば、涼しい場所に移動し、十分な水分摂取を行うなど、正しい熱中症対策を行ってください。これらの対策を行っても症状が改善しない場合には、原因が熱中症か、COVID-19かの判別は難しく、専門機関を受診するようにしてください。

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熱中症を招く脱水は、実は免疫力の低下にもつながります。とくにwithコロナの今、ウイルス感染リスクを高める危険性もあり、熱中症対策が感染予防対策につながることも知っておきましょう。

2021/07/16

八〇歳を過ぎると、時の流れが加速

八〇歳を過ぎると、時の流れが加速した気がします。

むかし、ある会合で恩師の眼科学の井街名誉教授と同席させて頂きました。井街先生が80歳過ぎ、私は教授になりたての50歳前後のことだったと思います。

「最近は時間が経つのが早い、あっという間に1年が過ぎ去っていく」と、現役教授仲間で話し会っていると、突然に「君たちは1年かもしれないが、私には1分が早くなった」と話されていたのを思い出します。

昨今は、情報科学技術の進化により、世の中が加速度的に変化しているといわれますが、今の自分の周りで見られる変化の速さが、万人共通か、年齢的なものかよくわかりません。

80歳を過ぎると、いろんな所作が緩慢になり、また持久力も落ちたことを自覚します。ある事をやり遂げるには、若い頃に比べると、数倍の時間を要します。

何もできてないのに、一日が経ってしまう。この事実が、高齢者にとっては、時間が加速度的に過ぎ去っていく感じにさせているようです。

もし、高齢者が、時間を大切にしようと考え、焦って仕事をするならば、時計の針が回るスピードを遅らせても、きっと身体のあちらこちらが悲鳴をあげて、時計の針は止まってしまうでしょう。

2021.07.15

老人のつぶやき 目次

2021

加齢と相対性理論 2021.8.16 new
人生の時間軸 2021.8.9 new
きょう広島原爆の日 投下から76年     08.06    new
いよいよ明日からオリンピック     07.22    new
八〇歳を過ぎると、時の流れが加速       07.15    new
高齢者にやさしい日本の若者たち  07.06   new
ワクチン接種でホッと一息    06.29
渋沢栄一と「論語と算盤」 05.10
2030年:全てが「加速」する世界に備え 3.31
お彼岸に百人一首 03.29
私がみた奇妙な夢の話 02.18
新型コロナ禍での老人と若者たち02.13
新型コロナ長期戦に備えて 01.21
私のお正月2021 01.01

2020

「不要不急」と言われると・・・ 10.31

ストレス解消には「五感」、とくに嗅覚で

五感とは、視覚・聴覚・味覚・嗅覚・触覚の5つの感覚のことです。

子どもの心と身体を健やかに保つには、「五感」によい刺激を与え、日々のストレスを解消することです。

新型コロナによる長期の外出制限、マスクの着用や友達との距離をおいた生活は、大人以上に子どもへの大きなストレスになっています。

マスクは、人の表情を隠すだけでなく、人や自然の匂いも感じさせ難くしています。

土・樹木・風といった自然の匂いは、匂いと呼んでいいのか分からないほど空気に溶け込んで、季節の変化を香りで感じさせてくれます。森の中には、木々の発散する香りの成分「フィトンチッド」があふれており、清々しい爽快感をわれわれに与えます。

夏休みには、近くの樹々の生い茂る公園や、山に入り、周りに他人のいないことを確かめて、そっとマスクを外し、深呼吸し、親子で身も心もリフレッシュしてください。

2021/7/14    子どもの健康コラム

高齢者にやさしい日本の若者たち

首都圏では新型コロナの感染者数が微増しており、蔓延防止措置がオリンピック後まで延長されるようです。今のワクチン接種率では、我が兵庫県も、遠からず感染者数の増加に転じることでしょう。

賢明な日本国民は、政府の日和見的な政策に期待をかけずに、日々発表される感染者の数を見て、さっさと行動に移しているようです。お陰で、日本は、世界的に見て感染者数も、死亡者数ももっとも低いグループに入っています。

福祉大国スウェーデンの失政

スウェーデンは、新型コロナ拡大後、他の欧州諸国のように厳格な都市封鎖を行いませんでした。レストランや小売店は営業を続け、学校も閉鎖しなかった結果、人口約1千万人の同国で、死者は約1万4千人に上り、人口当たりにすると日本の12倍になります。感染者数も18倍と桁違いに多い数字です。

私自身にとって、スエーデンは高福祉国家の理想のモデルであり、また医学研究の面でも、世界をリードする国家であると考えていました。ところが、この度のコロナ対策では、集団免疫を目指すとの政策が打ち出されました。

新型コロナ拡大後も、他の欧州諸国のように厳格な都市封鎖を行わず、レストランや小売店は営業を続け、若者たちがレストランでビールのジョッキーを傾けながら歓談している画像には驚きました。

高い死亡率の原因は、当然重症化しやすい高齢者であり、あれだけの死亡者数に達したということは、医療現場で『命の選別』があったにちがいありません。

一番我慢をし続けている日本の若者たち

かつての福祉国家スエーデンは、経済成長とともに、民営化が進み、格差社会に変貌してしまったことが、今回のような結果に結びついたのでしょう。

日本のまん延防止に最も貢献しているのは若者世代です。家庭内にウイルスを持ち込まないように、我慢し続けてきたのが、日本の若者たちです。

私のような高齢者が今こうしていられるのは、老人を大切にする日本の文化、それを体現している若者たちへの感謝の気持ちでいっぱいです。

2021-7-6

ワクチン接種でホッと一息

新型コロナで亡くなるのは高齢者で、年齢とともに指数関数的にその率が高まります。不要不急の外出を控えろと言われると、巣篭もりしかありませんでした。でも、ワクチン接種で、気分的には随分と目の前が明るくなった気がします。

新型コロナ流行前まで毎月のように会っていた同年代の友人とは、時折メール交換するくらいで、これまで経験することがなかった水入らずでの家内との二人暮らし。当初はお互いに馴れない生活で、気まずいものがありましたが、コロナ生活も一年を過ぎると、だいぶん生活のコツ、距離のとり方のコツがわかってきたように思います。

毎日報道される感染者数の増減に一喜一憂しながらの生活、これまでにいろんな雑誌への寄稿文が溜まっているので、ホームページのリニューアルを計ったり、ブログを立ちあげてみたりしています。

2021.6.29.

ホンアジサイとガクアジサイ

6月26日

梅雨の合間を見つけて、神戸市の森林植物園にあじさい(紫陽花)を観に行きました。ここでは、数多くの品種のあじさいが育てられていますが、今が見頃のホンアジサイとガクアジサイを紹介しましょう。

ホンアジサイとガクアジサイ

どちらも、アジサイ科アジサイ属の落葉低木の一種です。ホンアジサイは大きな装飾花をもつことから、街中のあちらこちらの庭先で見られ、馴染みの深い品種です。ホンアジサイの原種が、日本に自生するガクアジサイと言われています。

「移り気」「浮気」「高慢」と「謙虚」

ホンアジサイは「移り気」「浮気」「高慢」というネガティブな花言葉を持つのに対して、ガクアジサイの花言葉は「謙虚」となっています。これは、ホンアジサイよりもガクアジサイの方が、装飾花の数が少なく、その姿が謙虚に見えることにちなんでいるとされています。2021.6.26

 

第1章 私は戦後民主主義教育の第1期生

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第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入
第2話 民主主義教育の第1期生
第3話 自然との触れ合い
第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙
第5話 戦後たった5年で明るい光が
第6話 中・高校時代は高度経済成長期

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第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入

私は、尼崎市開明地区という阪神尼崎駅南の旧市街で、1940年2月に生まれました。真珠湾攻撃は翌年の1941年12月8日です。

3年後の1944年11月には、アメリカ軍はマリアナ諸島の基地からB29爆撃機部隊による日本本土への空襲を開始しました。

東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸という大都市をつぎつぎと爆撃目標とし、私が住んでいた尼崎は大阪に付随する大都市域として、再三にわたり空襲を受けました。

疎開したその夜に、B29爆撃機による空襲

1945年3月13日夜から14日未明にかけての焼夷弾空襲で、自宅が炎上しました。私自身はまだ5歳になったばかりでハッキリとした記憶はありませんが、母親がその時の恐ろしさ、苦労について、再三再四、話してくれました。

自分の住んでいる所が爆撃目標として位置付けられていることは、地区の住民には予測できていたようです。

幸運にも、空襲当日の13日の昼の間に、父親が必要最小限の家財道具を積んだ荷車に、私を乗せ、10kmほど離れた尼崎市稲葉荘という田園地帯に疎開し、辛うじて難を逃れました。

でも、妹の出産を直近に控えていた母親だけは、すでに爆心地の産院に入院していました。周囲一帯が炎上する中で一夜を過ごすことになりましたが、無事出産を終えたそうです。

神戸大空襲の記憶

稲葉荘への疎開後も、アメリカ軍による焼夷弾攻撃は日増しに激しくなり、空襲警報のサイレンがなると、防空頭巾を被り、防空壕に避難したことをよく覚えています。

神戸市内には、川崎航空機(現川崎重工業)、川西航空機(現新明和工業)といった航空機メーカーが存在していたことから、激しいアメリカ軍の攻撃目標となり、市街地は壊滅的打撃を受けました。

6月5日の神戸大空襲の模様は、父親に手を引かれ、自宅近くの武庫川の堤防から見ていましたので、鮮明に脳裏に焼きついています。

阪神淡路大震災で一晩中夜空を真っ赤に染めていた神戸長田と、空襲時の光景には重なるものがあります。 トップへ

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第2話 民主主義教育の第1期生

終戦の翌年4月に、国民小学校に入学しました。しばらくは、教科書も、鉛筆も、ノートもありませんでした。ランドセルだけは、従兄のお下がりの牛皮のものを担いでいました。

学校は二部授業といって、早行きと遅行きがありました。学校で何を学んでいたのか、全く記憶にありません。

新しい戦後の教育改革として、連合軍総司令部の指導・監督のもとに、学校教育法が制定され、新制小中学校が発足したのは、私が小学2年生になった1947年の春です。

私が入学したのは1946年4月ですから、最初の1年間は何か空白だったようです。

戦後教育は、戦前の教育とは対照的に道徳・修身は一切なくなっており、規範のない、自由なものであった気がします。

当時の教育こそが民主主義教育なのだと、戦後75年を経った今、改めて感じます。決まったモデルがないために、自由気ままに、自らの考えで物事に取り組んでいくのが、われわれの学年の習性になったようにも思えます。

軍用ジープが行き交う国道2号

私が住んでいた稲葉荘と武庫川を挟んで対岸にある甲子園ホテルが、米軍に接収されており、朝夕には国道をジープなどの軍用車が行き交っていました。

兵士たちが沿道に子どもを見つけると、チョコレートやチュウインガムなどを放り投げてくるのです。当時の私は、成長盛りで空腹であったと思いますが、なぜか、それに手を出した記憶は全くありません。 トップへ

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 第3話 自然との触れ合い

私は、小学校4年生まで、周りには田んぼばかりの稲葉荘で過ごしました。夏には田んぼの間を流れる小川でドジョウやタニシをとり、秋にはイナゴをとって持ち帰ると、母が食材として重宝してくれました。

夏には、近所の友だちと武庫川に泳ぎによく出かけました。川での遊泳は、突然深瀬があったりして、毎年命を失う子がいたようです。

父親が、竹を焼いて折り曲げ、作ってくれたソリで、草の生い茂る土手の上から滑り降りていました。

今でも悔しい思い出

私は、体格が良かったので、年長の男の子とよく遊んでいました。その子は、どこで手に入れたのか1匹のヤンマ(大型のトンボ)の胴体に糸を結びつけ、頭上に飛ばすと、別のヤンマが寄ってくるのです。

いとも簡単にそれを網で捕まえています。指をくわえて見ていた私に、捕えたヤンマの1匹を惜しそうにくれました。

早速、家に持ち帰り、胴体に糸を結わえて、同じように飛ばしたのですが、私のヤンマには他のヤンマが全く近づいてきません。その子がおとりにしていたのは雌ヤンマだったのです。

その後も雌ヤンマを手に入れることができなかった無念さは、今でも残っています。

私は運動が大好きでしたので、近隣の男の子たちと、来る日も来る日も。日が暮れるまで野球をしていました。

「阪神タイガースこどもの会」にも入会しました。甲子園球場での集いに参加し、土井垣、藤村、別当、若林らの有名選手を近くでみられたのは、楽しかった思い出の一つです。

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第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙

小学3年生の時に、学校から先生に引率されて、生まれて初めて観たのが、この映画『鐘の鳴る丘』です。

筋書きはよく覚えていませんが、画面ひとつひとつからの衝撃が、脳裏に刻まれ、同級生とともに涙した記憶は鮮明です。

『鐘の鳴る丘』は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送された菊田一夫原作の人気ラジオドラマです。1948年(昭和23年)に松竹で映画化されました。

そのあらすじは

戦地から復員した主人公修平が、不幸な子供たちを明るく導こうと信州の緑の丘の上に少年の家をたてて暮すという、戦災孤児救済問題をテーマにした作品です。

私が覚えているのは、戦災で家や家族を失った孤児たちが、肩を寄せ合って野宿し、駅で靴磨きをしたり、盗みやケンカに明け暮れ、生きる望みを失いかけている浮浪児たちの姿だけです。野坂昭如の小説「「火垂るの墓」と重なるところが多々あります。

当時の私も、つぎの当たった衣服をまとい、食糧難の中にあったと思いますが、戦災孤児たちの姿を見て、両親と一緒に同じ屋根の下で過ごせている自分に、幸せを噛み締めていたにちがいありません。 トップへ

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第5話 戦後たった5年で明るい光が

終戦から5年で、日本は戦後の暗い時代を抜け出し、1947年8月には推定3万5千人いた浮浪児が、一人また一人と上野の街を離れていったそうです。(朝日年鑑1948年版による)

私自身も、小学5年生の春から、小児科医院を開業していた叔父が急逝したために、母がその後を継ぐことになり、再び生家に近い旧尼崎市街の寺町に戻ることになりました。もうその時には、私の周りでは、何の不自由もない日常生活をとり戻していたように思います。

日本の経済復興の裏には、アジア隣国の戦火が

第二次世界大戦直後から、アジア・アフリカの植民地では、支配国である連合国に対して独立運動が激化していました。

急速に表面化した米ソの「冷戦」のもとで、大規模な国際紛争に発展し、とりわけ、隣国での朝鮮戦争(1950〜53)により、占領軍の支配下にあった日本は、特需により大きく経済復興に結びついたようです。

また、フランスの植民地からの独立を目指したベトナムに対するアメリカ軍の介入により、泥沼化したベトナム戦争は1975年まで続くことになります。

ここでも、日本は軍隊こそ派遣していませんが、日本から多くの軍事資材が運び込まれ、東アジアにおける独立戦争に伴う軍需景気が、戦後日本の高度経済成長を支えていたようです。

最近再び、「自由で開かれたインド太平洋」戦略という言葉を耳にしますが、私と同じか、上の世代の人間には、何かキナ臭い、不吉な予感がしないでもありません。

サンフランシスコ講和条約

日本と48の連合国との間に結ばれた第2次大戦終結のための平和条約が、1951年9月8日サンフランシスコで調印されました。時の日本代表は吉田茂首相です。

当時の私は、小学6年生でした。それまで日の丸の旗をほとんど街で目にしなかったのですが、至る所で日の丸の小旗がうち振られ、日本中がお祭りモードでした。

これで、敗戦国日本が、再び国家として国際社会から認められたという安堵感があったようです。

この条約は、日本の主権・平等を承認するものでしたが,外国軍隊の日本駐留継続は認めたままでした。

さらに、同時に締結された日米安全保障条約により、その後も日本は対米従属下に置かれたままです。 トップへ

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第6話 中・高校時代は高度経済成長期

1950年代に入ると、何かもが新しく生まれ変わっていく時代でした。私は、中学は芦屋市立山手中学校、高校は兵庫県立神戸高校に通いました。

中学入学時(1952年)は、床板が軋む木造の仮設校舎でしたが、1年生の2学期からは、山手に聳える白亜の新校舎に移りました。阪神芦屋駅から30分以上かけて急坂を毎日通い、足腰が鍛えられました。

高校も同じく、六甲山の中腹です。眼下には、神戸港から阪神間、大阪まで、大阪湾全体を見下ろせました。でも、神戸製鋼所の林立する煙突からの黒煙が、風向きによって校舎に押し寄せてきました。

大型の超豪華外国客船が神戸港に入港する時には、授業中の静かな教室に、汽笛が響き渡ってきます。下校時には、友人と船内見学に行き、外国人船員と英語で話せたことも素晴らしい体験でした。

 

柔道部活に明け暮れた日々

高校に入学するや、すぐに父親の勧めもあり、柔道部に入ることにしました。中学時代にも多少の経験があり、体型的にも柔道が適していると判断したからです。

柔道・剣道などの日本の伝統的な格闘技は、戦後数年間、進駐軍により禁じられていました。

神戸高校の前身の神戸一中には、嘉納治五郎という大先輩がおられます。

ところが、私が入部した時には、柔道場はなく、図書館横の場所を仮道場として使っていました。練習前には畳を担いできて敷き、練習後はまた元に戻すという日々でした。

私たちの学年は、これまでの先輩よりも、人数も多く、兵庫県大会では上位に食い込める存在でした。

当時は、大学受験は二の次、三年生の秋の大会が終わるまで部活を続けるのが当たり前でした。

練習が終わり、帰宅し、夕食が済ませ、机の前に座ると、途端に睡魔に襲われます。そのような時は、躊躇なく布団に入り、朝早く起きて、勉強することにしていました。

 

中高の友人は、生涯の付き合い

中高の友人は、異なる分野に進みました。歳を重ね、現役を退いた今、何か時計の針が反対向きに回るように、親交が日々深まっています。

2021-7-2、2021-7-20更新   トップへ