わが母校誕生のころ-本学の神話時代-(2) 中村和茂著

昭和20年となりて

 1月1日には午前9時より講堂にて4万拝の式が催され、学生40名余出席、小川校長より訓話がありました。3学期は8日(月)より始まり、先ず例により湊川神社に参拝し身を清めてから講義が始まった訳です。ところが年末より次第に激しさを増した敵機の空襲は年が明けると共に一層厳しくなり、警戒警報が鳴ると共に講義は中断、教官も学生も待避ということになるのですから講義の進行は思うにまかせぬようになりました。学生の欠席は目にみえて多くなり、又元気すぎて学生の方が辟易した橋寺先生のドイツ語が珍しいことに13日(土)に休講となりました。17日(水)の時間には先生は一応出てこられましたが、何時なく元気がありません。先生は食糧難のため栄養失調症になられたのです。

1月11日に本校第2回生入学試験の第1次発表が行われました。昭和20年度入学志願者心得には第一、資格として、“本校ハ専門学校令ニ依リ医学ノ要綱ヲ教へ、医術ノ真締ヲ授ケ、斯道研究ノ素地ヲ培ヒ以テ皇国医道ノ本美ニ徹セシメ進ンデ負荷ノ大任ニ対ヘマツル医人ヲ錬成スルモノナリ、依ツテ右ヲ体庸シ左ノ各項ノ一ニ該当スル者タルコトヲ要ス。”とあり、入学試験期日は文部省の定めた第1期、その選抜方法は文部省の指示により“第1次選抜銓衡”は出身中等学校長よりの報告書類によってのみ選衡され、入学者定員の約2倍の人数が選抜されました。この方法は何も本校のみに限ったものでなく交通機関が軍にとられてしまい、一般市民の利用が極度に制限され、又食糧難のため旅館などの宿泊も思うにまかせず、全国的に学生を集めて入試を行うことが不可能に近くなったため、やむを得ず文部省がとった手段だったようです。

2次試験の方は1月23日(火)より26日(金)迄本校で身体検査、口頭試問及び筆答試問が行われたようで、その結果綜合判定により1月31日(水)に合格者が発表され、初めて我々のクラスの弟分が決まったのでした。

講義中に警戒警報の陰気なサイレンが

話が前後しますが、1月19日(金)午後1時すぎ、内科診断学の講義中でしたが、例により警戒警報の陰気なサイレンの音が鳴りわたり、間もなく空襲警報のサイレンの音に変わりました。私達はその頃待避場所を基礎学舎の南の校庭に下る斜面の下(現在の運動部の倉庫)に選んでおりました。思い思いに鉄兜やら綿入れの頭巾やらを被って、退屈な講義はなくなるし、ほっとした思いで三々五々その辺りに集って煙草を喫いながら雑談をしていたのですが急に、激しい高射砲の音がするではないですか。南西の空を見るとB29の大編隊が可なりの低空でまさしくこちらへ向かってまいります。

しまった、やられたと思った途端、ドドと言うものすごい地響き、最後の編隊が頭上を通り過ぎたときは本当にやれやれ助かったとお互い喜び合いました。後でわかったのですがB29は全部で50機、この空襲で明石の川崎航空機工場は一瞬にして潰滅してしまいました。てっきり、ついその先の新開地が川崎造船でもやられたと思っていたのですが、20キロ近くも離れたところがやられていたわけだったのです。

しかし1月20日(土)午後には武田創教授より解剖実習の注意があり、今も同じ場所の実習室で1月29日(月)より2月24日(土)迄連日、記念すべき本学第1回の解剖実習が行われました。2月4日(日)には再び神戸は空襲をうけ兵庫の海岸近くにあった製粉工場はまる2昼夜燃え続け、神戸の巷は次第に焼け爛れてゆきました。

学生の入営延期が認められない?

そうこうするうちに8日(木)の朝刊をみますと、私達にとって大変なことが載っているのです。紙上では具体的なことはよくわからなかったのですが、戦況の切迫に伴い学生の入営延期がほとんど認められなくなったというのです。従来は理科系大学・高専の学生は卒業迄兵隊にとられることは勘弁してもらえる“きまり”となっており、小生などもつい先日徴兵検査は受けたのですが、大威張りで入営延期願いを出して、やれやれこれで4年間命が延びたとほっとしていた矢先だったのです。

よく読むとどうやら医学関係の学生は延期が認められるらしいのですが、1年でも浪人して入学したものは延期が認められない様子なので、その日の教室はこの話で持ち切り、兵隊へ送りこまれるか学生生活をのんびり楽しめるかの瀬戸際ですから、一同真剣そのもの、比較的のんびりしていたのは中学4年修了で入学した若干の人ぐらいでした。

学生間でもめにもめた入営延期中止かどうかの問題も2月13日、副校長格の分玉少尉よりの説明で医科に関する限り従来とあまり変りがないことがわかり、学生一同やっと一息入れることが出来ました。

しかしその頃になると軍の方の事務も粗雑となり、入営延期届を出していても連隊区司令部の方で誤って召集令状を出す様な事態が発生したりなどしました。一旦召集令状をもらった被害者?はいくら徴兵延期の権利のある学生でも入営せねばならず、学生の中に2、3人そんな訳で召集令状をもらったものが出て来ました。こんな入営者が発生するとその都度、軍側であるべきはずの配属将校たる徳岡政之介大佐がその連隊へわざわざ出かけていってうまく事情を説明し学生を貰い受けて来られるのですが、その情には学生達ただただ感謝あるのみで、“先生頼みます”の連発だったわけです。

激しさを増す空襲

空襲の方は激しさを増すばかり、ちょっと日記を繰っただけでも、

2月16日(金)東京へ艦載機延1000機来襲、
2月17日(土)今晩は阪神地方へ来襲かと思ったがやっぱり東京やられる。
2月19日(月)夜3度も敵機来り、大阪湾に機雷投下。
2月22日(木)このところ、毎晩敵機1、2機来る。
2月25日(日)早朝より雪、夕方には30センチ、午後敵数機来る。夜東京へ730機来襲。
3月4日(日)東京へB29 150機、又雨、日増しに暖かくなる。
3月6日(火)学校へ防空宿直。などと書いています。

学課の方は2月26日学年試験の日課が発表され、3月12日(月)ドイツ語、発生学。13(火)内科、教練。14日(水)内科、化学。15日(木)細菌、人文、16日(金)生理、病理。17日(土)解剖と決りました。しかし、学生の間では専ら近く神戸も東京、名古屋と同じく大空襲を受けるに違いない、学年末試験が本当にやれるかどうかという心配か?、希望か?わからない、今の学生諸君には到底理解出来ない気分が漂っていました。こんな何とも言えない、強いて言えば己の生命への本能的な危険を感じ、もはや勉学どころでなくなった我々に勉強しろなど一言も口にされずに、唯坦々と休講もなく講義をされたのは解剖学の島田吉三郎先生でした。さきにも述べました解剖実習中にも警戒警報が度々鳴りましたが、学生達が慌てて、それ実習はこれ迄とばかり実習室から逃げるように飛び出して行っても、最後迄学生のためにピンセットの手を止められない先生でした。心配していた阪神地区の大空襲は一向になく、定期試験第1日、第2日と迄は予定通り平穏に進みました。

3月14日(水)早朝とうとう来るべきものが来ました。

“空襲警報!!只今敵機約90機は尾鷲上空に集結中、阪神地区への来襲の公算大”とラジオが報じ終わらぬうちに、大阪は焼夷弾の洗礼をうけ、焔、天を焦がし、尼崎市北郊の私の家辺り迄真昼のような明るさになりました。この空襲の最後の編隊の攻撃で父が開業していた尼崎の医院も灰燼に帰してしまったのです。その日は定期試験の第3日目、内科と化学だったわけですが、どういう風にして受験したか、日記にもありませんし、記憶にもありません。

翌15日に学校では今晩はきっと神戸に来るという噂が専らでした。と言うのは、B29は当時占領されたサイパンからやって来ましたが、敵も準備もあり、そうそう毎日は来襲出来なかったのでしょう。大抵隔日にやって来るのが慣しとなっていました。

しかし、心配した16日早朝は(いつも午前2時頃から4時頃迄が大空襲の時間になっていましたが)、B29は1機も来襲せず、その日は生理と病理の試験がきちんと行われました。

しかし、かつてないことにその日は朝から爆撃もせずにB29が1機づつ2度も来て、当時としては超高度で飛行雲を引き乍ら飛び去って行きました。今晩は間違いない。皆そう考えました。“今夜の空襲のために早く寝とけよ”お互いにそう言いあって分かれたのですが、明日は武田創先生の解剖学の試験。午後10時が過ぎるとそろそろ心配になって来ました。寝床からそろり、そろりと這い上がり、机に向って、今も忘れません。ノートを開いて中枢神経系小脳のところ迄読んだときです。予想通り、空襲警報が鳴りわたったのです。

忘れもしない3月17日

学校が一時的にせよ機能を失った瞬間、何げなく私の見ていたノートの項目が、現在私が情熱をかたむけている研究分野とは何だか変な気がいつも致します。午前2時過ぎ。聞きなれた腹にこたえるB29の爆音がしたと思うと、異様な地響きと共に近所の高射砲陣地からの激しい音が始まりました。恐る恐る庭に作った防空壕から抜けて出てみますと、西の空がパっパっと明るくなっています。“神戸がやられた”と咄嗟に2階へ上り西の窓を開けてみますと、赤い焔が天を焦し、焔の数が次から次へと数を増しています。そして神戸の街はまたたくうちに1つの大きな焔になってしまいました。上空には笠を被せたように大きな白雲が拡がり始め、このため目標がつけにくいのでしょうB29の編隊は次第に低空飛行となり、機体が焔に照らし出されて夜目にもはっきり見られるようになりました。そして焼夷弾が丁度花火を天空から逆に地上に向かって打出すように神戸の街に突き刺さってゆくのがはっきりと見られました。

B29は次から次へと繰返し、繰返し爆撃を続けます。中には高射砲弾に当って火をふいたり、一瞬にして空中で四散するのも見られました。“ああ、とうとう神戸も灰燼に帰した。あの焔の中で我々の学校も今燃え続けている。明日からは解剖の試験どころか、神戸の中心街は何一つ残っていないだろう“と窓から西の空を眺め、ぼんやりとそんなことを考えたりなどしているうちに、空襲も午前4時過ぎにやっと終りを告げました。

午前6時、電車が動き出すのを待って学校へ馳せ参ずべく神戸に向いましたが、阪急は芦屋まででストップ、やむを得ず阪神電車の通ずるのを待って三宮へ、市内は予想以上に惨憺たるもの。見渡す限りの荒野、あるものは唯焼け爛れたセメント建造物だけ、何ともいえない熱気と匂いが漂っています。火災を避けながら神戸駅近くの国鉄のガードを北側へくぐり抜けると、見なれた人家は1軒もなく、すぐその先に学校と病院が立っていました。

“学校は残っている“感激しました。道には八角柱の焼夷弾の不発のものがゴロゴロころがっていますし、未だあちこちが燃え続け、危険この上もありません。湊川神社東側の道を学校へ急いだのですが路傍には焼夷弾の直撃を受けたのでしょう、防空頭巾を被りモンペをはいた若い婦人が2人、空を掴んだままこと切れていました。

もっとひどかったのは大倉山交叉点でした。市電の三叉路の中央にちょっとした防空壕があったのですが、その中にぎっしり人が詰ったまま、折り重なって蒸し焼きになっています。辺りの焼跡からはもうもうと煙が足もとに立ちこめ、暑くてオーバーなど着られたものではありません。

学校と病院は確かに残っていましたが、木造建築は勿論全焼、鉄筋のものも遠目からは焼残っているように見えたものも、近づいてみると中は焼け落ちて残っているのは唯外廓だけ、現在の基礎学舎の西側の3分の1は各階共中身は灰になっていましたし、病院の方も本館の美しいタイルの外装は剥げ落ち、各棟共屋上には焼夷弾が針山のごとく無数に突きささっていました。建物の中には未だ燃え続けているものもあり、早速我々のように駆けつけた学生は各所に分かれて消火を始めました。

私は当時の栄養部の建物を懸命になって消火しておられた、確か石川教授達だったと思う一団に加わりました。さすがの火災も燃えるものが無くなると自然に火の方から勢いが衰え、昼過ぎにはほぼ鎮火しました。やれやれと焚き出しの握り飯をほおばっているところへ、配属将校から今から福原の屍体を収容に行くからシャベルを用意しろとの命令です。この話は結局吾々の学校にはお鉢が回らず“帰ってよろしい”ということになりました。

行きはよいよい帰りはこわいで、日は暮れかかるし、乗物は無いしで、見渡す限りの焼け跡を学校から加納町へ向って一直線に歩きました。兵庫区、生田区もひどいでしたが、葺合区もこれに負けず、加納町3丁目の交叉点の路傍には名前のわからない黒焦げになった屍体が確認用の白札をつけて、ここに3体、あそこに5体と並べてありますし、二宮町の辺りだったと思いますが、戦災者の屍体が何重にも重ねられて野焼きにされるのに出くわしました。紫色の煙が夕闇に漂い、附近を煤けた服をまとった男女が着のみ着のままで唯目的もなく右往左往するようすは、この世の様とは思えぬ光景でした。

神緑会学術誌 第33巻 77-79頁、2017年8月より

2022.6.15.

平井乃梅、神戸における小児医療の生い立ちを訪ねて

第10回神戸大学ホームカミングデー シスメクスホール 2015.10.31.

大学病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺の庭園に建立されていた「平井乃梅」の記念碑が、お寺の全面改修に伴って庭の片隅に無残の放置されているのを昨年6月に目撃された寺島俊雄教授が心を痛め、それを伝え聞いた神緑会メンバーが立ち上がり、本学の敷地に移設する計画が持ち上がった。
私自身は、平成22年7月の日本小児科学会兵庫県地方会の250回記念大会の講演の中で、日本小児科学会兵庫県地方会のルーツについて調べていたところ、長澤亘(ながさわわたる)先生が明治36年 (1903) 11月に兵庫県地方会を全国で4番目に設立されたこと、地方会の運営に平井毓太郎先生から多大な指導、支援を受けていたことを、長澤亘の門下生が編集した「八十八歳夢物語」の中で知った。

平井毓太郎と長澤亘の出会い 日本小児科学会兵庫県地方会の設立

兵庫県小児科地方会を立ち上げたものの、初期には会員も少なく、名士の後援なくしては永続できぬと考えた長澤が、明治37年2月の第二回地方会に京大教授の毓太郎に学術講演を頼んだのがきっかけである。以後毓太郎は退官まで約23年間、毎回この地方会に出席して講話、講師の斡旋などの尽力を惜しまなかった。京大定年退官後も、下山手通5丁目にあった長澤小児科病院の知新堂で開業医の為の神戸雑誌会を毎月一回催し、国内外の最新の文献を紹介し、その評判は大変高く、小児科以外の医師も多数出席していたとのことである。
平井は、昭和20年1月12日に満79歳で死去したが、その前月まで17年間継続して休むことがなかった。これらの講義は全くの無報酬で行われており、学術上の行為に報酬を受けるべきではないというのが毓太郎の頑固なまでのポリシーの一つであった。

「平井乃梅」建碑の趣旨並に祭詞

このような結びつきからその恩義を深く感じた長澤は、毓太郎を恩師として限りなく敬慕し、40年有余年の長きにわたって変わることなく、常に門下生としての誠と礼を尽くした。平井の死後5年目の命日にあたる昭和25年1月12日に「平井乃梅」を建碑し、その趣旨並に祭詞が、長澤の自伝に以下の通り記されている。
「故平井毓太郎先生は吾が日本小児科学会兵庫県地方会創立以来約30年、以て神戸雑誌講話会に17年合わせて47年の久しきに亘り御来神下され、吾が神戸地方の会員を御教訓御指導賜りたることは誠に感謝感謝に堪えざるところにして其御功績実に偉大なりと云う可し。今回、令嗣平井金三郎先生並に京大小児科教授服部峻治郎先生の御厚意により、恩師の御遺髪を御分与賜りたれば有志相計りこの碑を建立し之を碑内に納め祭り、記念として梅樹を植え、名づけて「平井乃梅」と云ふ。以て恩師の御懿徳(いとく)を偲び永く後世に伝えんとす。乞ふ希くば英霊来り享けよ。日本小児科学会兵庫県地方会 代表 長澤 亘」(八十八歳夢物語、84頁)
そこには、当日来会者として、是枝、伊坂、高木、大石、岡田、島田、舟木、湊川、平田、人見、福田、原口、長澤、吉馴、関、村瀬、尾崎、田川、山川、厚見、鈴木、高橋、長澤信一郎の名前も記されており、私が知っている大学関係者として、鈴木靕教授、平田美穂教授、伊坂正助教授らの名がみられる。
また、碑の裏面には「醫聖 故平井毓太郎先生御遺髪納置 昭和24年11月11日 日本小児科学会兵庫県地方会有志代表、日本小児科学会、兵庫県医師会名誉会員 長澤 亘」と記銘されている。

平井毓太郎は関西における小児科学の草分け

平井毓太郎は、慶応元年(1865)10月11日、三重県で出生し、明治22年(1889) に東京帝国大学医科卒業し、明治27年(1894)に京都府立医学校(現京都府立医科大学)教諭に着任した。ドイツ留学ののち、明治35年(1902) に京都帝国大学医科小児科初代教授に就任した。東京帝国大学ではベルツ博士に師事し、ベルツ博士の代診を命じられるほど信頼を置かれていた平井毓太郎が、京大教授に就任したのを知った恩師のベルツは、これで関西の小児科は安泰だと話したという。

「所謂脳膜炎」と平井毓太郎

平井毓太郎の学問上での最大の業績は、「授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因は、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見」したことである。大正8〜13年の6年間に京大小児科に入院した1歳以下の児の総死亡492例中72例(14.6%)が所謂脳膜炎で死亡しており、その原因が不明なことから大いなる恐怖であった。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を欠かさなかった平井毓太郎は、当時すでに発表されていた文献的考察から鉛中毒説のヒントを得た。明治38年に、高州謙一郎は「所謂脳膜炎で塩基嗜好顆粒赤血球の出現」を報告したが、鉛中毒と結びつけることができなかった。平井毓太郎は、内科の本に書かれていた鉛中毒患者の他覚的症状である「血液中に塩基嗜好顆粒赤血球の出現」のほか、「亜黄疸」、「ヘマトポルフィリン尿」、「歯齦の鉛縁(ブライザウム)」などの鉛中毒の症状も所謂脳膜炎の乳児で見られたことから、「仮称所謂脳膜炎ハ慢性鉛中毒症ナリ」という論文を日本小児科学会雑誌に大正13年(1924) 発表し、乳児をもつ母親は含鉛白粉を使わないように警告を発し、その後の脳膜炎発症を食い止めることができた。さらに、平井毓太郎は、死亡患児の全身諸臓器、生体試料中の鉛濃度の定量を行い、自らの手で鉛中毒説を確固たるものにした。
「所謂脳膜炎」は、東大小児科弘田長博士により明治34年にはじめて記載されていた病名である。関東でも、明治27〜28年頃に多数観察されていたが、明治36年に勧業博覧会を機に白粉製造業者が鉛白粉の危険を宣伝した結果、一般に無鉛白粉が普及し、関東では見られなくなったことから、乳児の「所謂脳膜炎」と鉛中毒の因果関係を明らかにするに至らなかったようである。ところが、関東以外の地域では含鉛白粉が廉価であり、またなんの規制もなかったことから、その後20年間も使い続けられ、大きな被害をもたらした。
我が国の鉛中毒の研究の第一人者である大阪市立大学の堀口俊一名誉教授は、本学西尾久英教授らとの共著で、「「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡」を雑誌「労働科学」に連載しており、今日とは違い生体中の鉛含量の測定が極めて困難な中で、粉骨砕身の努力により極めて適切な結果を得ていたと絶賛されている。

定年退官後は神戸雑誌会と京都雑誌会を主宰

定年退官後の昭和4年 (1929) から、当初は自宅で京都の小児科医を集め、京都でも月に一度雑誌講話会を開催されていた。その模様については、平井毓太郎の孫にあたる平井和三氏が、「藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち」の書に詳しく書かれている。その中で、小児科医松田道雄氏の父親が平井毓太郎教授在任中に直接薫陶を受けていたが、世代のちがう松田道雄が退官後の毓太郎の雑誌会に自ら参加しており、その様子を「晩年の平井毓太郎先生」と題したエッセイにとどめている。
「第二の木曜日の夜の七時近くになると、わたしたちは医師会館へ急いだ。先生は、いつも、定刻の前に教室に着くように来られた。ポケットに歩度計を入れて、毎日二里歩くことを日課にされていた先生も、この日だけは電車に乗られた。先生の大きな皮かばんには、その夜に抄読される医学雑誌が掛け金もはずれるほど詰まっていて、重かったからである」と。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさず、その成果を月に一度の京都と神戸の小児科医への講義に反映させようとした毓太郎の医学者としての姿勢には感服させられる。平井毓太郎の蔵書を集めた「平井文庫」は、終戦後各所を移転したが、現在は福井医科大学図書館に保管されているとのことである。

最後に
「平井乃梅」の記念碑を通じて、明治初期から中期にかけての関西における西洋医学のはじまり、とくに小児科学の発展の歴史をつくった平井毓太郎と、兵庫県での小児医学の発展の歴史をつくった長澤亘の二人の業績を知ることができた。明治人ふたりの医学の道における熱い開拓者魂をお伝えできていれば幸いである。

参考資料

  1. 寺島俊雄著. 平井毓太郎先生記念碑「平井乃梅」の今. 「神戸 まち角の解剖学」興文社(神戸)平成28年3月発刊(予定)
  2. 長和会編. 八十八歳夢物語 1953年12月発行 大石康男先生ご蔵書
  3. 平井和三編著. 藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち 2000年11月発行
  4. 堀口俊一、寺本恵子、西尾久英、林千代著. 「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡(1)平井毓太郎による究明まで. 労働科学 84巻2号62−71頁, 2008. その後9回にわたり連載されている。
  5. 北村晋吾著. 平井毓太郎伝. 1997年3月発行. 著者は毓太郎の郷里である三重県で小児科医院を開業されている。

2015.10

兵庫県立こども病院時代の記録から

2003年4月から2008年3月までの5年間、神戸市須磨区の高倉台にあったこども病院で小児医療の最前線で働けたことは、大変貴重な時間を過ごすことができました。就任後、職員間のコミュニケーションのツールとして情報誌「げんきカエル」を創刊しました。

「げんきカエル」の名称の由来は、病院建設時に出てきた岩の名前です。写真のような置物として、病院の廊下に飾ってありました。

詳細:兵庫県立こども病院時代の記録  pdf

  • 病院長就任にあたって 2003.4.7
  • 情報交換は創造へのエネルギー  げんきカエル 創刊号 2003.10.1.
  • こども病院がもつこれからの役割     げんきカエル 2003.10.1.
  • やさしい医療を目指そう、ほほ笑みで 新年のごあいさつ    げんきカエル 第3号   2004.1.1
  • ほほ笑みの医療こそ、こどもの医療 新年のごあいさつ げんきカエル 2005.1.1
  • ご家族とともに実践する小児医療 新年のごあいさつ     げんきカエル   2006.1.1
  • 小児医療は三位一体で 新年のごあいさつ    げんきカエル  2007.1.1

詳細:兵庫県立こども病院時代の記録  pdf

私の研究回顧録 中村 肇

神戸大学最前線研究・教育・産学官民連携情報誌 2006.5

役立ったパリ大学留学

大阪万博が開催された1970年春からフランス政府給費留学生としてパリ大学医学部Port Royal病院新生児研究センターのMinkowski教授のもとに留学する機会を得ました。欧米の文献からある程度の知識はあったものの、日本では見たことがなかった人工呼吸器十数台が並ぶ新生児室に案内されて、医療内容のあまりの差にカルチャー・ショックを受けました。
パリ大学には2年半の留学で、核黄疸(新生児の黄疸による脳障害)予知に関する研究に従事していましたが、センターには世界中から高名な研究者が集い、激しく討論する姿に刺激を受けました。そこで得た多くの研究者との面識が、その後の私の研究生活に大いに役立ちました。

高度経済成長と新生児医療

高度経済成長を遂げた日本ではありましたが、帰国当時の日本の医学レベルは欧米に比べてなお5~10年の遅れがありました。しかし、1975年頃から近代科学文明の成果であるME機器、石油製品による医療器材が新生児医学領域に波及してきました。あっという間にわが国の新生児死亡率は欧米レベルに達し、追い越し、5年後の1980年には世界一の水準を達成しました。
新生児学が小児科学の一分野として認知され、新生児医療という言葉が広く知られるようになったのもこの頃からです。

UB AnalyzerとFDA認可

私自身は、新生児黄疸の研究を続け、核黄疸予知のための方法を開発し、臨床応用を目指していました。1985年の米国小児科学会で、私たちがArrows社と共同開発したUB Analyzerが核黄疸予知のために有用であることを発表したところ、Audrey K. Brown教授をはじめとする米国の黄疸を専門とする学者たちから高い評価を受け、FDAの認可も得られました。追って、わが国でも厚生省の承認認可が得られ、広く臨床応用されるようになりました。爾来、私たちの定めた光線療法、交換輸血療法基準が普及し、核黄疸による脳障害が全くといってよいほど見られなくなりました。

阪神淡路大震災を経験して

教授就任した1989年は、まさにバブル絶頂期。発展した新生児医療により千グラム未満で出生した超低出生体重児でも半数以上が助かるようになりました。
ところが、必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接するようになりました。
さらに、1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地にある大学小児科として「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行うことにより,医療のあり方を見直す良い機会となりました。

これからの医療は、「治す」から「癒し」へ

二十世紀最後の四半世紀は,医学研究でも,医療でも,絶えず「もの」中心の科学至上主義の時代でした。多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となっています。
二十一世紀の医療では、疾病を「治す」から、「癒し」へと、新しい医学のパラダイムを求めて研究を進めていきたいものです。

神戸大学名誉教授
兵庫県立こども病院院長
1940年尼崎市生まれ、1964年神戸医科大学卒。1989年神戸大学医学部小児科学教授、2000年10月~2002年9月附属病院長、2003年3月退官。
2001年兵庫県科学賞受賞。著書に、新生児学(メディカ出版、共著)、小児保健学(日本小児医事出版、監修)、小児の成長障害(永井書店、監修)など。

神戸大学小児科教授退官に当たって

 私が、松尾保教授の後任として神戸大学医学部小児科学教室教授に就任したのは、1989年1月でした。爾来13年間、大学のスタッフ、多くの同門の先生、また全国の学会関連の先生方に支えられて、無事退官を迎えることができました。

就任当時のスタッフは、助教授が村上龍助君、講師が松尾雅文君と吉川徳茂君が,その後,助教授として松尾雅文君、吉川徳茂君、上谷良行君のお世話になりました。また,医局長には,松尾雅文君、上谷良行君,高田哲君,米谷昌彦君にお願いし,教室運営にご尽力を頂きました。

私が就任したときは,ちょうど分子生物学の研究成果が臨床医学に応用され始めたときでした。松尾雅文講師(現教授)がPCRを用いて,先天性疾患の中でも頻度の高い進行性筋ジストロフィー症の遺伝子診断を行い,次々と遺伝子異常の仕組みを明らかにし,あっという間にこの道の第一人者になりました。血液腫瘍の治療に,骨髄移植を導入したのもこの頃で,村上龍助助教授がリーダーとなり新しい移植チームを築いてくれました。講師の吉川徳茂君は小児腎臓病の研究で数々の業績を挙げており,我が国のこの分野における若きリーダーとして活躍していました。上谷良行君は新生児臨床医学のリーダーとして多くの業績を挙げてくれました。彼らをはじめ多くの教室関係者が,小児科学における先端医療の臨床,研究のそれぞれの分野で活躍していていることは,我々の大きな誇りです。

私が専門とする新生児医療では、松尾雅文講師のあとを受けて,上谷良行君,高田 哲君,常石秀市君,米谷昌彦君,横山直樹君が病棟主任として,臨床研究の指導をしてくれました。新生児学は,小児科学の中でも最も社会との接点の多い分野で,患者背景には社会経済的要因が大きく関わっています。我々が必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接することがありました。科学技術の進歩により、新生児医療は大きく発展し、1,000グラム未満の超低出生体重児でも半数以上が助かるようになった一方で、このような悲劇的な事態が引き起こされている現実を知るところとなりました。

教授就任当時から,我が国が近い将来に少子高齢化社会を迎えることはわかってはいましたが、世はまさにバブル絶頂期、繁栄を謳歌し、子どもの問題について今日のように顧みられることはありませんでした。こころを病む子どもたちは増え,小児科医志望者が少なく,我々小児科医にとって暗黒時代を迎えるところとなりました。早々に、稲垣由子女史、高岸由香女史を中心に、小児科外来に「子どものこころの問題」を扱う行動発達心理外来を開設し、親と子どものこころとからだの問題について診療できる体制を整えました。1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地の中心にある大学小児科として,「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行い,その記録を刊行,国内・外に発信しました。この悲劇的な事態のなかで,我々は自らの医療のあり方を見直す良い機会となりました。

二十世紀は,医療でも,研究でも,我々は絶えず眼にできる「もの」中心の科学至上主義の時代でしたが,多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となりました。本年4月から,これからの時代のニーズに応えるべく附属病院に「親と子の心療部」が開設されることになったことは時宜を得たものと喜んでいます。新生児集中治療室もリニューアルし,出生から成育までの一貫した治療が展開され,子どもたちの幸せが追及されることを期待しています。

最後に,本業績集刊行に当たり,多大なご努力を頂いた米谷昌彦助教授をはじめとする教室員各位,資料収集にご尽力頂いた浜渕嘉子さん,三里真由美さん,高寺良子さん,柄谷るいさん,またその編纂に当たり多大なご協力を賜ったサンプラネット岸さんに心より感謝申し上げます。

平成15年3月    記念業績集序文から

星に魅せられて

地震は、あのたった数十秒の揺れで、幼い頃から慣れ親しんできた六甲山 を、不動のものと考えていたあの山を持ち上げました。でも、あの揺れを体 験すると、山々の起源を十分イメージできます。

阪神淡路大地震が教えてくれたもの
地震は、それまで生物学にしか関心をもっていなかった私に、自然の偉大さ、凄さを教えてくれました。星に、私が興味を強く持ちはじめたのは、あ の阪神淡路大震災がきっかけです。震災により家々の灯は消え、寒空に一段 と輝きを増した星々が崩落したわが街を照らし出していました。
星たちは、宇宙に漂う星間ガスからつくられ、一生を終えてまた星間ガス へと戻っていきます。夜空に輝く星にも、人間と同じような一生があり、生 まれ、成長し、老い、死んでいきます。星をじっと見つめていると、あの突 然の大災害も、森羅万象のひとつとして、妙に身近に感じられます。

地球の起源と「神戸隕石」
地球の起源は 46 億年前、生物の起源となると 4 億年、人類の歴史となると せいぜい数百万年にしか過ぎません。広い宇宙には、何千億という銀河が存 在し、今では 100 億光年以上の彼方にある銀河をカメラに写しだすことも可 能です。昨年 11 月には、しし座流星群の天体ショーが繰り広げられました。
1999 年 9 月 26 日に神戸市北区に落下した「神戸隕石」は、太陽系の生成当時 の物質のまま、変質を受けていない「炭素質コンドライト」という極めて珍 しい種類の隕石であることも判明しています。科学技術の進歩により、宇宙 のしくみに関する情報が急速に増えています。

美しい地球をいつまでも
医学は、遺伝子技術、ナノ技術とどんどんミクロの世界につき進んでいま す。その技術により、クローン人間も誕生しかねない世の中です。私たちは、 自分たちの豊かさ、利便性を追及し、欲しいものは何でも手に入れることが できるようになりました。しかし、人類が生きながらえるには、いま生きて いるものを中心としたこれまでの考えから、これから生まれ来る次世代に少 しでも美しい地球を残すという考えにいま切り替えねばなりません。

神戸大学医学部附属病院院長 中村 肇
日本医事新報 銷夏特集「緑陰随筆」2002年8月

小児科医不足が深刻に

若葉「巻頭言」2002.6.15.

21世紀は、9.11のニューヨーク・テロ、世界貿易センタービル倒壊という極めて衝撃的な幕開けとなりました。国内では、一段と膨大化した国債発行残高、不景気風は収まらず、完全失業率は5.0%と10年ぶりの高い数値となっています。これらは国民への福祉の縮減という形で跳ね返り、これまでの我が国の高い医療水準を支えてきた医療制度も改変の憂き目にあり、医療者としては不安材料が一杯です。

小児科医師不足が深刻に

しかし、我々小児科医にとっては、小児科医不足のために医療費削減以前の難問が山積みです。夜間の小児救急医療・新生児医療に従事する医師不足は深刻で、大学医局にいる医員や大学院生が、兵庫県下の小児二次救急医療機関に東奔西走し、「二次救急医療機関の輪番制」の実態は「医員・大学院生の若手医師グループ内の輪番制」に他ならないのが実態です。

先般の関西医大での研修医の過労死が労災認定されたという報道を他山の石とせず、我々としても若手小児科医師の健康管理に十分な配慮をするよう努めているところです。幸い、平成13年度は23名というかってない新入局者を迎えることができました。このような窮状を理解し、意気に燃えて小児科医を志願してくれた若者たちが、バーンアウトしないように、夢と希望に満ちて、納得のいく医療に携われるような環境を作り出さねばなりません。

小児救急のニーズに応えるには

現在、われわれの同門会員は500名、日本小児科学会兵庫県地方会会員が650名います。うち、病院勤務の小児科医は、それぞれ197名、262名です。うち、8割近くの医師が神戸市内の医療機関に勤務しています。このように限られた人数の、しかも偏在している人材で、社会が求めている小児救急のニーズに応えるにはどうすればよいか?

答は簡単です。「病院には小児科を設置しなければならない」という固定観念を棄て去ることです。昔と違い今日では、ひとたび患者を入院させると、当然のことながら365日、24時間の観察を必要とし、患児のそばには誰か小児科医が必ずいなければなりません。「不十分な体制で医療を行っていた」としても、万が一予期せぬ事態が発生したならば、必ずや注意義務違反として主治医はその責任を追及されます。また、病院当局も「不十分な体制で医療を提供した」としてその責任は免れません。最低でも1チーム5〜6人の医師がいなければ、過労のために安全な医療を提供することが不可能なことは自明です。医療過誤の多くが、医療者の過労によるものであることはよく知られた事実です。無理は禁物です。被害者に対する弁明には当然のことながらなり得ません。医師の自己責任になります。患者も、医師も双方が被害者です。

小児医療機関の地域化・統合化を

我々は、医療の移り変わりを理解しなければなりません。少子化が進み、最近では出生数は120万近くまで減少しています。最も多かったときに比べると60%近くです。また、医学・医療の進歩により入院を必要とする重症例は激減しています。従って、個々の病院における小児のための入院ベッド数は余っているのが実情です。旧態依然とした病院小児科の存続は、有り余る小児科勤務医師がいるならともかく、その蓋然性をなくしています。小児医療機関の地域化・統合化を進め、拠点病院でのみ入院患者を扱う体制づくりが必要です。

幸い、兵庫県当局も昨年来、小児救急(災害)医療システムの整備に関する基本方針策定委員会を立ち上げ、本格的に取り組む姿勢を示してくれています。要するに、小児救急の問題を解決するには、小児科医が働きやすい環境づくりを如何に進めるかです。

小児の救急医療は、救急救命医療とは性格を異にする

今日の小児救急医療は、これまでの救急救命医療とは性格を異にするものとなってきています。少子化であるがゆえに軽微な症状でも受診を希望されるケースが増えています。地域における急病診療所で一次小児救急体制を確立することが急務です。大都会では小児科医のみの出務体制も可能でしょうが、地方では小児科医以外をも含めた出務体制でなければ不可能です。いすれにしろ、早急に医療圏の規模と出務可能な人的資源の算定を行い、より合理的な体制づくりをしなければなりません。

2001年3月から新病棟での診療を開始

神戸大学医学部附属病院は、去る3月から新病棟での診療を開始し、「最新の医療とやさしい環境をあなたに」をスローがンにしています。来年1月からは新しい医療情報システムの導入も決まり、カルテの電子化を目指し、現在鋭意準備中です。IT社会に突入し、否応なしに情報開示を求められます。医療全体のIT化を如何に進めるかが、当面の最大の課題です。小児の救急医療もITを活用すれば、もっともっと効率のよい医療を提供できる気がします。

相次いで全国規模の学会が神戸で

昨年12月の「第7回日本子ども虐待防止研究会」を神戸で開催して以来、全国規模の学会が相次いでいます。6月には「第16回小児救急医学会」、7月には「第38回日本新生児学会」、10月には「第49回日本小児保健学会」、11月には「第45回日本先天代謝異常学会」と目白押しです。これらの学会主催を通じて、子どもたちの幸せにつながるよう努めたく思っています。全国から多くの小児科医をお迎えするに当たっては同門の先生方には改めてご協力のほどをお願い申し上げる次第です。

私の一週間 医学部教授時代

5月13日(月曜)
9 時早々に、K1 病院 T 医師、K2 病院 N 医師が相次いで来室し、来年早々に医院を開業したい旨の報告を受ける。彼らはいずれも40代に入ったところで、まだまだ病院で後進の指導にあたって欲しい。個人開業で地域医療に従事するのは小児科医として大きな魅力であることは理解できるが、それ以上に彼らを病院に引き留めるだけのものがないということか?
11 時 30 分から、定例院内会議に出席。医師、看護部、薬剤部の総括リスクマネージャー、事務部の面々と「ひやりはっと報告」、「ご意見」を分析、対策を協議する。
昼食は、神戸外国大学松浦南司教授ととる。彼は経営マネージメントが専 門で、医療経営に大変な関心を抱いている。彼の協力を得て大学病院に医療経営研究センターを設立し、これからの法人化を目指して活動を開始する予定である。
16 時から、月 1 回の診療責任者会議(医局長会議)に出席し、1か月間の 病院活動について報告するとともに、意見交換する。会議では、懸案の「外来予約制度の見直し」と待ち時間短縮のためのワーキンググループを立ち上げ、具体的な対策を立ててもらうことにした。職員に対して、B 型肝炎、麻疹の予防接種とともに、C型肝炎の検査実施について検討。

5月14日(火曜)
8 時から、定例のモーニング・カンファレンスに出席し、院生YKの研究報告を聞く。モデル動物を使ってのIUGRの脳発達に関する研究であるが、仮説、研究目的をもっと絞り、ゴールを目指して欲しい。
12 時 30 分から、母子センター・一般病棟の回診を行う。新しい研修医(正式採用は6月1日であるので今は見学生)とはじめて一緒に回診することになる。今年は総勢 23 名の入局であるが、すでに関連病院で 6 名が研修を開始しており、大学病院で研修するのは 17 名である。忙し過ぎない、暇すぎない、程よい研修計画を米谷医局長に練ってもらっている。うまくいくかな。回診では新研修医17名に BSLの学生7人が加わり、入院患者数を上回る人数。若い彼らのプレゼンテーションは新鮮でいい。
16時30分から、院内各部門の責任者を招集する。6月に開催されるワールドカップ時の救急患者受け入れ機関となっているので、フーリガンなどによる広域災害救急対策について協議。神戸では、6 月 5 日にロシアーチュニジア、6月7日にスエーデンーナイジェリア戦がが、さらに 6 月 17 日夜には決勝ト ーナメント戦が予定されている。
18 時に、K3 病院の院長、事務長ならびに市の助役の来訪を受ける。この 4 月から小児科医師数が 4 名から3 名に減少したにもかかわらず、従来通りに、小児2次救急輪番を週2~3 回を受け持つよう病院から要請され、それではと ても責任を持って勤務できないと彼らが固辞したことから、その善後策につ いて相談に来られた。医局では、私が来春定年であることも関係し、新規開 業者が後を絶たず、小児科勤務医師不足が深刻な状況にある。病院側が労務 環境を改善し、彼らを説得する以外に道はないと告げる。 T – Yb 4 – 2 首位奪回

5月15日(水曜)
10 時から、神戸大学本部で国立大学法人化に向けての検討部会、財務会計部会に出席する。病院収入は神戸大学全体の収入の6~7割を占めることから、平成16年からの法人化後の病院経営は大きな課題である。収入増には人材確保以外に道はないと考えている。
13 時から、病院運営委員会を開催、新病棟に移転後、在院日数、紹介率はかなりアップしている。来年4月実施の包括医療に向けて対策を練る必要がある。
15 時から、医学部教授会に出席する。
18 時、K4 病院院長と会う。
夜、K3病院A医師より、このままではとても勤務を続けることはできないと病院長に辞職を申し出たところ、病院側から「辞表を受理できない、退職するなら懲戒免職にすると告げられた」という怯えきった内容のメールが届く。これは 恫喝であり、許せない。T-Yb4-2 薮5勝

5月16日(木曜)
9時30分、K5 病院院長と会う。小児科医の確保と増員を求められる。小児救急は複数市町が組んで広域ネットワークを考えなければ問題解決にならないと、こちらから協力要請する。
10時、N社の営業担当者と会う。最近米国で開始されたサービスとして、入院中の新生児の様子をインターネットで家庭に送るサービスの日本における可能性を尋ねられる。日本でも、ハイリスク新生児は退院後にいろんな問題を抱えていることから、長期にわたる母子分離への支援策としてその開発推進を要請した。
11時30分、毎朝の定例院内会議に出席。相変わらず、転倒・転落のひやりはっと報告が出されている。患者はいずれも高齢者であり、十分にオリエンテーションをし、いろんな対策を練ってはいるが、なかなか解決困難で看護部では頭を抱えている。ご意見箱には、外来の待ち時間の指摘がある。
13時30分から、神戸大学評議会に出席。その後、引き続いて神戸大学将来計画委員会が開催された。国立大学法人化に備えて、中期目標・中期計画をまとめるためのワークシート作成について討論する。神戸大学の理念は、「真摯、勇気、自由、協同の伝統を尊重し、開放的で進取の気性に富む高等教育研究機関としての役割を果たす」ことである。 T – Yb 8 – 0 井川、 無四球完封

5月17日(金曜)
朝5時に起床。新大阪6時53分発ののぞみ2号で上京、都市センターホールでの全国医学部長病院長会議に出席。全国の国公私立79大学から集まり、喫緊の課題である、「卒後臨床研修義務化」と「大学病院の包括医療制度」を中心に議事が進められた。
卒後臨床研修義務化は、平成16年度からとなっており、去る4月22日に 医道審議会から「中間とりまとめ」が出されたが、研修医の身分、待遇、指導医の確保などについての具体的なかたちは全く示されていない。大学病院での研修については、厚生労働省と文部科学省とのせめぎ合いばかりが目立ち、肝心の研修医の立場に立った議論になっていない。現在病院長をしている我々は、インターン闘争を経験した世代であり、我々が過去の体験を生かして、研修医の味方として活動しなければ、だれも彼らの立場を代弁するも のはいないという認識にある。もっとも来賓として来られた篠崎医政局長も44卒とのことで、当時の事情はよくご存知のはずである。 4時に会議が終了し、とんぼ返り。夕食は自宅で。 T-D雨天中止

5月18日(土曜)
10 時に大学病院に向い、同門の吉田澄子先生から寄贈される絵画を受け取る。8号Fの大作で、画題は「花とキャベツ」、彼女の自慢の作品の一つとのことである。新病棟の大ホールに飾らせてもらう予定。
13時30分から、神戸大学内の神緑会館で開催される日本小児科学会兵庫県地方会に出席。新入局者たちが早速お手伝いを。途中、2時から30分間、27年度卒業生のクラス会に出席し、新病棟の紹介と寄付の依頼。また、4時から30分間、医学部後援会(父兄会)に出席し、大学病院紹介といまの臨床医学教育について説明する。
17時30分、地方会が終了するや否や、医学部後援会懇親会に出席、学生の父兄と懇談する。多くの親御さんが、クラブ活動に精を出して、いつも帰りが遅く、勉学に支障しないか気を揉んでおられる。そのぐらいでないと良い医者にはなれないと励ます。
21 時帰宅。家内は娘達と泊まりがけで出かけており、独りぼっち。メールの確認と返事。小児科教室ホームページに、提言「世界の中の子ども達」をアップロードす。明日の講演のスライドを取りそろえる。今夜はテレビを見ないでおこう。 T – D 1 – 5

5月19日(日曜)
朝から、土砂降りの雨。10 時からの神戸市こども家庭センター主催の「子育て市民講座」の講演に出かける。演題は、「脳の発達からみた育児」で神戸市の一般市民、保健福祉関係者を対象にしたものである。発達期脳の脆弱性と可塑性を中心に話を進める。3歳児神話の持つ意味について、3歳までの育児の重要性と女性を家庭に閉じこめる問題とは別問題であることを。乳児が人間不信に陥らないように、養育者(必ずしも母親である必要はない) との「基本的信頼感の形成」を妨げない育児環境の提供を図ることの大切さ を強調してきた。
午後からは、芦屋市立美術館で開催されている日本画家の故山田皓斎展に家内と行く。山田皓斎氏は私の中学高校時代の親友山田泰将君のご尊父である。泰将君が招待状を送ってきてくれた。彼の妹である女優岸ユキさんも日本画家として有名である。
夜は、溜まっている原稿書きに追われる。 T – D 2 – 6  Never, Never, Never Tigers
小児科臨床 「私の一週間」平成14年掲載
神戸大学医学部小児科教授・附属病院長時代の日記から。平成15年3月退官。

21 世紀の周産期医療を考える

20世紀後半四半世紀における医療技術の進歩は、「新生児科」、「新生児集中治療室」 といった新しい医療分野を築き上げ、とくに、昭和50年代にみられた新生児医療技術の進歩は歴史的にみても特筆すべきものであった。高度経済成長の波に乗って、我が国の新生児死亡率は欧米先進国に追いつき、あっという間に世界一の水準になった。近代医療の中で、最も著しい進歩を遂げたのが新生児医療ではなかったかと思う。その我々がいま新たな問題に直面している。

第1点は、新しいマンパワーの確保
新生児医療をこれまで支えてきた世代から次の世代への交代期に入ったが、新しいマンパワーの確保が困難な状況となり、新生児医療、否小児医療の存続さえ危ぶまれる状況下に陥っている。この8月に日本医師会から出された「2015 年医療のグランドデザイン」をみても、高齢者医療のみに視点を当て、21 世紀の日本国民の健康政策から、小児医療、新生児医療は欠落している。

第2点は、魅力的な教育プログラムを提供
ようやく達成できた高度な医療水準が、一般社会では当たり前のごとく受け入れられ、標準化されている。我々が、今後もその国民のニーズに応え、高度な医療を安定して提供し続けるには、医療従事者の質の保証(Quality assurance)、危機管理教育・トレーニングプログラムの開発・訓練が不可欠である。それには、新しいHuman resource の獲得、新生児医療の重要性を若い医師に理解させ、彼らに魅力的な教育プログラムを提供する必要がある。

第3点は、地域社会と連携した支援体制
周産期医療の究極の目的である「障害なき成育」を追及するには、 NICUでの救命医療とともに、退院後のフォローアップを通じて家族への支援が不可欠である。 ハイリスク新生児には、これまでのように病院内での医療活動だけでは解決できない問題が多く、地域社会と連携した支援体制なくしては子どもたちの健全な成育を保障できなくなっている。
以上の3点を解決できるようなプログラムの作成・実行が、これからの新生児学の教育と研究の課題である。
21 世紀の周産期医療「新生児学の教育と研究」 周産期医学、2001 年 1 月号掲載