大学生活を懐かしむ

若葉「名誉教授からの一言」 2004

ひたすら時代を駆け抜けてきた

30有余年にわたり神戸大学とともに過ごしてきましたが、時代時代でのさまざまな思い出がつい昨日のように感じられます。昨年3月に盛大に退官祝賀パーティーを催していただき、また大学生活の思い出を話す機会を与えていただき、この四半世紀の世の中の移り変わりの速さに改めて自分自身が驚いた次第です。「科学技術の進歩」という大きなうねりの中に自らの身を置き、ただひたすら時代を駆け抜けてきたような気がします。この間、いくつかの大きな時代の節目に出会うことができました。

インターン闘争、大学紛争

先ず、昭和30年代後半から始まったインターン闘争、大学紛争です。今振り返ると、我が国だけでなく、世界中で同じような学園紛争が勃発していました。とくに、私が留学していたパリ大学での学生運動は極めて凄まじいもので、それが世界各地に飛び火したものです。

猛烈な勢いで物質文明化が進む中、資本主義体制による「かね」と「もの」が人間を支配し、人間性の喪失を予感した若者たちが、その将来への不安を案じて行動に移ったものと思います。昭和40年代も半ばになると、物質文明化の勢いは止まるところを知らず、日常生活の至るところで老いも若きも物質的な豊かさを享受するようになったのです。

医療分野にも新しい波が

医療分野にこの新しい波が訪れるのは、一般社会から遅れること5年〜10年してからです。モニターやレスピレーターなどME機器が開発され、我々の手元に届き、近代医療の原型ができたのは昭和50年代に入ってからです。今日でこそ医療産業という言葉が生まれ、産業界の医療分野への進出がみられますが、当時は、薬業界を除きコスト・ベネフィットの面から一般産業界からは相手にされず、医療機器の開発にも消極的でした。

国立大学法人化への危機感

いま再び、国立大学では法人化問題をはじめ大きな変動期に入っています。私もこの3月まで大学にいましたから、大いなる危機感をもっています。本来改革というのは、内部矛盾を感じた組織構成員から湧き出す声が発端になるものです。

しかし、現状は逆です。トップダウン的に予算削減のために、大学経営の効率化のみが全面に押し出され、教官定員の削減が一番の大きなターゲットになっているからです。大学人は、大学の今後あるべき姿について語る前に、自らの立場をいかに保つかが問題と受け取っているようでなりません。

経済至上主義政策下で、私が一番危惧するのは、お金を稼げる教官が優れた教官であるという価値観が大学内にも蔓延しないかということです。このような非常事態に直面しているのに、不思議なことに若い教官層から何の反応もないことです。

文部科学省による大学評価の不透明な基準

法人化発足後に、最も変わる点は文部科学省による大学評価が行われ、予算配分に反映させるということです。評価というのは定まった価値観のもとで行われるなら、極めて有効な手段でありますが、大学の評価で問題となるのは、一体何を評価の基準にするのかという不透明性です。企業では、いかに効率よく収益性を高めるかであり、そのゴールは極めてはっきりしています。医療では、不採算だからといってすぐに排除するわけにはいかず、一般企業に比べると難しく面はありますが、効率性の高い医療を実践する上で評価システムの導入は必要なことだと考えます。

でも、大学での研究・教育にも経済的効率を持ち込もうとする今の動きには、大いなる危険性を孕んでいわざるを得ません。研究も、教育も短期間で結果が出ないからです。旧来の価値観にとらわれない、実績のない若い研究者の新しい発想での研究計画が、果たして評価されるのでしょうか?

お金になる研究とお金にならない研究を上手に使い分け

先ず無理です。生きる道はひとつ。現状では、お金になる研究とお金にならない研究を上手に使い分けることしかありません。時代のニーズに適合した経済の発展に寄与するテーマを選び、研究費を獲得し、すぐに評価の得られそうにない本当にしたい研究は、余力ですることです。

大学生活には大きなふたつの楽しみ

私にとって大学生活の楽しみは、ふたつありました。ひとつは、絶えず新しい仲間と仕事ができたこと。また、毎年新しい顔触れの学生に出会えたことです。医局員よりも学生の方が遥かに時代を鋭敏に感じ取っており、思いも寄らない意見を度々聞かせてくれました。もう一つの楽しみは、過去の規範にとらわれず、新しいことへ挑戦を保障された生活であったことです。

4つの「C」

私はいつも4つの「C」を座右の銘として大学生活を送ってきました。すなわち、Chance, Challenge, Change, Createです。

経営学の分野でよく使われるマネジメントの原則にPDCAサイクルがあります。計画(PLAN)→実施(DO)→評価(CHECK)→見直し(ACTION)の繰り返しがビジネスには不可欠です。医療でも、研究でも、教育でも、実務でも基本的なものの考え方は同じであることを実感します。

Chanceは、至るところに転がっています。でも、Chanceは四次元の存在です。限られた空間の、限られた時間に現れます。絶えず注意力を集中していないと捕まえることができません。他人に教えられるものではなく、自分自身の五感で捕まえるのです。

マニュアルは絶えずリニューアル化を

医療技術水準が一定レベルに達し、またIT技術の導入により医療のマニュアル化が進んでいます。医師は、でき上がったマニュアルを「使う」のではなく、自分自身で「作る」気持ちが大切です。

新しいマニュアルが完成したその日から、マニュアルのリニューアル化に向けての行動が開始します。人を相手とする医療には絶対的に正しいいうものはありませんので、マニュアルには必ず矛盾が潜んでいます。マニュアルを決して鵜呑みにすることなく、絶えず批判的な眼で活用する習慣を身に付けて頂きたく思います。

最後に

変革の時代であるが故に、大学からの新しいエネルギーに満ちた改革が期待されています。過去の規範にとらわれない新しい発想で、新しい時代をリードして下さい。

少子高齢社会にあって、ますます子ども一人一人の生命を守ることが、子どもたちのQOLを高めることが大切となっています。子どものQOLとは、子どもたちにいかに「生き甲斐を」、「夢を」与えるかです。これは、小児科医だけで解決する問題ではありませんが、子どもたちに最も近い位置にいる我々が率先して取り組んでいきたいものです。

退官に当たって

「若葉」巻頭言 2003

昭和64年1月に松尾保教授の後を受けて教授に就任して以来、教室同門の皆様方の絶大な御支援により、なんとか職務を全うし、松尾雅文教授にバトンタッチすることができました。

私が就任したのはちょうどバブル経済が崩壊しはじめた時でしたが、まだまだ経済繁栄を謳歌していた時代でした。その後のバブル崩壊、阪神淡路大震災、少子高齢社会への突入により、我が国の経済基盤は揺らぎ、あらゆる分野で構造改革が求められるようになりました。

国立大学法人化への移行

大学にもその波が押し寄せ、国立大学法人化への移行により大学自身が経済性を重視した運営を求められるようになってきています。研究分野でも、日本の経済活性化に繋がる研究が重宝され、大学教官の評価は、獲得した研究費額の多寡により決められるという、即物主義、拝金主義のアメリカ的発想で、大学を支配しようとする体制へと向かいつつあるのを危惧しております。

いま、米国の一国大国支配体制への批判が強まりつつあります。イラク戦争でその構図がハッキリとしたようにみえます。世界には、極めて多数の人種・文化が存在しています。日本だけでなく、世界が大きく変貌する中で、我々も、日本がもつ固有の文化を大切にした社会づくりを目指す必要があり、その先頭に立つのが大学だと思います。ぜひ一度、立ち止まって、大学の存在意義を見直して下さい。

医療への期待が、‘治す’だけでなく、‘癒す’に

私達が直接関わりあいをもつ医療、とくに小児医療は、乳児死亡率の著しい低下、少子化により、この四半世紀に大きく変貌しました。社会の医療への期待が、‘治す’だけでなく、‘癒す’に移ってきています。一旦生を受けると、多くの人が天寿を全うできる時代になり、たとえ疾病のためにハンでキャップを背負っても、豊かな社会生活が保障される必要があります。小児医療のゴールは、退院ではなく、退院後の生活のフォローを含めたものとなりました。

小児救急は地域社会全体で

近年、小児救急が大きな社会問題になっており、小児科医師不足がその原因の全てのように言われていますが、もう少し巨視的にその問題点を見出す必要があります。

救急医療と言うと、すぐに救命医療と同義語としてとらえられますが、小児救急には当てはまりません。急病センターを訪れる子どもたちの多くが、母親の育児不安に基づくものであることは周知のことです。

小児救急に小児科医としてかかわり合うのは、なにも急病センターに出務することではなく、もっと地域での子育て支援ネットワークにかかわりをもち、日常からの啓蒙活動、組織づくりに努めることです。

「子育ては社会で」という意識を住民に植え付け、地域に子育て支援チームがあれば、そのメンバーが、不安をもつお母さん方の相談にのることができます。夜間の急な子どもの変化にも、近隣の相談員が参加して、お母さん方に対応できるようになります。

これだけ情報技術の進化した社会ですから、ネットワークに乗っている親子は問題ありませんが、ネットワークの網の目から外れた親子にこそ支援が必要になっています。

小児科医は地域子育て支援ネットワークとかかわりを

男女共同参画社会への移行に伴い、育児は「親・家族と子ども」という閉ざされた関係から、「子育ては社会で」という時代になりました。各地で子育て支援ネットワークづくりが活発に行われており、われわれ小児科医の役割としては、疾病の治療だけではなく、地域子育て支援ネットワークのアドバイザーとして、コミュニティーのリーダーとしての役割が期待されています。

この混迷の二十一世紀で心豊かな社会生活を送るためには、小児科医が率先して他の職種と連係し、子どもたちが心豊かに育っていける環境づくりを目指したいと考えます。

 

神戸大学小児科教授退官に当たって

 私が、松尾保教授の後任として神戸大学医学部小児科学教室教授に就任したのは、1989年1月でした。爾来13年間、大学のスタッフ、多くの同門の先生、また全国の学会関連の先生方に支えられて、無事退官を迎えることができました。

就任当時のスタッフは、助教授が村上龍助君、講師が松尾雅文君と吉川徳茂君が,その後,助教授として松尾雅文君、吉川徳茂君、上谷良行君のお世話になりました。また,医局長には,松尾雅文君、上谷良行君,高田哲君,米谷昌彦君にお願いし,教室運営にご尽力を頂きました。

私が就任したときは,ちょうど分子生物学の研究成果が臨床医学に応用され始めたときでした。松尾雅文講師(現教授)がPCRを用いて,先天性疾患の中でも頻度の高い進行性筋ジストロフィー症の遺伝子診断を行い,次々と遺伝子異常の仕組みを明らかにし,あっという間にこの道の第一人者になりました。血液腫瘍の治療に,骨髄移植を導入したのもこの頃で,村上龍助助教授がリーダーとなり新しい移植チームを築いてくれました。講師の吉川徳茂君は小児腎臓病の研究で数々の業績を挙げており,我が国のこの分野における若きリーダーとして活躍していました。上谷良行君は新生児臨床医学のリーダーとして多くの業績を挙げてくれました。彼らをはじめ多くの教室関係者が,小児科学における先端医療の臨床,研究のそれぞれの分野で活躍していていることは,我々の大きな誇りです。

私が専門とする新生児医療では、松尾雅文講師のあとを受けて,上谷良行君,高田 哲君,常石秀市君,米谷昌彦君,横山直樹君が病棟主任として,臨床研究の指導をしてくれました。新生児学は,小児科学の中でも最も社会との接点の多い分野で,患者背景には社会経済的要因が大きく関わっています。我々が必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接することがありました。科学技術の進歩により、新生児医療は大きく発展し、1,000グラム未満の超低出生体重児でも半数以上が助かるようになった一方で、このような悲劇的な事態が引き起こされている現実を知るところとなりました。

教授就任当時から,我が国が近い将来に少子高齢化社会を迎えることはわかってはいましたが、世はまさにバブル絶頂期、繁栄を謳歌し、子どもの問題について今日のように顧みられることはありませんでした。こころを病む子どもたちは増え,小児科医志望者が少なく,我々小児科医にとって暗黒時代を迎えるところとなりました。早々に、稲垣由子女史、高岸由香女史を中心に、小児科外来に「子どものこころの問題」を扱う行動発達心理外来を開設し、親と子どものこころとからだの問題について診療できる体制を整えました。1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地の中心にある大学小児科として,「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行い,その記録を刊行,国内・外に発信しました。この悲劇的な事態のなかで,我々は自らの医療のあり方を見直す良い機会となりました。

二十世紀は,医療でも,研究でも,我々は絶えず眼にできる「もの」中心の科学至上主義の時代でしたが,多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となりました。本年4月から,これからの時代のニーズに応えるべく附属病院に「親と子の心療部」が開設されることになったことは時宜を得たものと喜んでいます。新生児集中治療室もリニューアルし,出生から成育までの一貫した治療が展開され,子どもたちの幸せが追及されることを期待しています。

最後に,本業績集刊行に当たり,多大なご努力を頂いた米谷昌彦助教授をはじめとする教室員各位,資料収集にご尽力頂いた浜渕嘉子さん,三里真由美さん,高寺良子さん,柄谷るいさん,またその編纂に当たり多大なご協力を賜ったサンプラネット岸さんに心より感謝申し上げます。

平成15年3月    記念業績集序文から

星に魅せられて

地震は、あのたった数十秒の揺れで、幼い頃から慣れ親しんできた六甲山 を、不動のものと考えていたあの山を持ち上げました。でも、あの揺れを体 験すると、山々の起源を十分イメージできます。

阪神淡路大地震が教えてくれたもの
地震は、それまで生物学にしか関心をもっていなかった私に、自然の偉大さ、凄さを教えてくれました。星に、私が興味を強く持ちはじめたのは、あ の阪神淡路大震災がきっかけです。震災により家々の灯は消え、寒空に一段 と輝きを増した星々が崩落したわが街を照らし出していました。
星たちは、宇宙に漂う星間ガスからつくられ、一生を終えてまた星間ガス へと戻っていきます。夜空に輝く星にも、人間と同じような一生があり、生 まれ、成長し、老い、死んでいきます。星をじっと見つめていると、あの突 然の大災害も、森羅万象のひとつとして、妙に身近に感じられます。

地球の起源と「神戸隕石」
地球の起源は 46 億年前、生物の起源となると 4 億年、人類の歴史となると せいぜい数百万年にしか過ぎません。広い宇宙には、何千億という銀河が存 在し、今では 100 億光年以上の彼方にある銀河をカメラに写しだすことも可 能です。昨年 11 月には、しし座流星群の天体ショーが繰り広げられました。
1999 年 9 月 26 日に神戸市北区に落下した「神戸隕石」は、太陽系の生成当時 の物質のまま、変質を受けていない「炭素質コンドライト」という極めて珍 しい種類の隕石であることも判明しています。科学技術の進歩により、宇宙 のしくみに関する情報が急速に増えています。

美しい地球をいつまでも
医学は、遺伝子技術、ナノ技術とどんどんミクロの世界につき進んでいま す。その技術により、クローン人間も誕生しかねない世の中です。私たちは、 自分たちの豊かさ、利便性を追及し、欲しいものは何でも手に入れることが できるようになりました。しかし、人類が生きながらえるには、いま生きて いるものを中心としたこれまでの考えから、これから生まれ来る次世代に少 しでも美しい地球を残すという考えにいま切り替えねばなりません。

神戸大学医学部附属病院院長 中村 肇
日本医事新報 銷夏特集「緑陰随筆」2002年8月

小児科医不足が深刻に

若葉「巻頭言」2002.6.15.

21世紀は、9.11のニューヨーク・テロ、世界貿易センタービル倒壊という極めて衝撃的な幕開けとなりました。国内では、一段と膨大化した国債発行残高、不景気風は収まらず、完全失業率は5.0%と10年ぶりの高い数値となっています。これらは国民への福祉の縮減という形で跳ね返り、これまでの我が国の高い医療水準を支えてきた医療制度も改変の憂き目にあり、医療者としては不安材料が一杯です。

小児科医師不足が深刻に

しかし、我々小児科医にとっては、小児科医不足のために医療費削減以前の難問が山積みです。夜間の小児救急医療・新生児医療に従事する医師不足は深刻で、大学医局にいる医員や大学院生が、兵庫県下の小児二次救急医療機関に東奔西走し、「二次救急医療機関の輪番制」の実態は「医員・大学院生の若手医師グループ内の輪番制」に他ならないのが実態です。

先般の関西医大での研修医の過労死が労災認定されたという報道を他山の石とせず、我々としても若手小児科医師の健康管理に十分な配慮をするよう努めているところです。幸い、平成13年度は23名というかってない新入局者を迎えることができました。このような窮状を理解し、意気に燃えて小児科医を志願してくれた若者たちが、バーンアウトしないように、夢と希望に満ちて、納得のいく医療に携われるような環境を作り出さねばなりません。

小児救急のニーズに応えるには

現在、われわれの同門会員は500名、日本小児科学会兵庫県地方会会員が650名います。うち、病院勤務の小児科医は、それぞれ197名、262名です。うち、8割近くの医師が神戸市内の医療機関に勤務しています。このように限られた人数の、しかも偏在している人材で、社会が求めている小児救急のニーズに応えるにはどうすればよいか?

答は簡単です。「病院には小児科を設置しなければならない」という固定観念を棄て去ることです。昔と違い今日では、ひとたび患者を入院させると、当然のことながら365日、24時間の観察を必要とし、患児のそばには誰か小児科医が必ずいなければなりません。「不十分な体制で医療を行っていた」としても、万が一予期せぬ事態が発生したならば、必ずや注意義務違反として主治医はその責任を追及されます。また、病院当局も「不十分な体制で医療を提供した」としてその責任は免れません。最低でも1チーム5〜6人の医師がいなければ、過労のために安全な医療を提供することが不可能なことは自明です。医療過誤の多くが、医療者の過労によるものであることはよく知られた事実です。無理は禁物です。被害者に対する弁明には当然のことながらなり得ません。医師の自己責任になります。患者も、医師も双方が被害者です。

小児医療機関の地域化・統合化を

我々は、医療の移り変わりを理解しなければなりません。少子化が進み、最近では出生数は120万近くまで減少しています。最も多かったときに比べると60%近くです。また、医学・医療の進歩により入院を必要とする重症例は激減しています。従って、個々の病院における小児のための入院ベッド数は余っているのが実情です。旧態依然とした病院小児科の存続は、有り余る小児科勤務医師がいるならともかく、その蓋然性をなくしています。小児医療機関の地域化・統合化を進め、拠点病院でのみ入院患者を扱う体制づくりが必要です。

幸い、兵庫県当局も昨年来、小児救急(災害)医療システムの整備に関する基本方針策定委員会を立ち上げ、本格的に取り組む姿勢を示してくれています。要するに、小児救急の問題を解決するには、小児科医が働きやすい環境づくりを如何に進めるかです。

小児の救急医療は、救急救命医療とは性格を異にする

今日の小児救急医療は、これまでの救急救命医療とは性格を異にするものとなってきています。少子化であるがゆえに軽微な症状でも受診を希望されるケースが増えています。地域における急病診療所で一次小児救急体制を確立することが急務です。大都会では小児科医のみの出務体制も可能でしょうが、地方では小児科医以外をも含めた出務体制でなければ不可能です。いすれにしろ、早急に医療圏の規模と出務可能な人的資源の算定を行い、より合理的な体制づくりをしなければなりません。

2001年3月から新病棟での診療を開始

神戸大学医学部附属病院は、去る3月から新病棟での診療を開始し、「最新の医療とやさしい環境をあなたに」をスローがンにしています。来年1月からは新しい医療情報システムの導入も決まり、カルテの電子化を目指し、現在鋭意準備中です。IT社会に突入し、否応なしに情報開示を求められます。医療全体のIT化を如何に進めるかが、当面の最大の課題です。小児の救急医療もITを活用すれば、もっともっと効率のよい医療を提供できる気がします。

相次いで全国規模の学会が神戸で

昨年12月の「第7回日本子ども虐待防止研究会」を神戸で開催して以来、全国規模の学会が相次いでいます。6月には「第16回小児救急医学会」、7月には「第38回日本新生児学会」、10月には「第49回日本小児保健学会」、11月には「第45回日本先天代謝異常学会」と目白押しです。これらの学会主催を通じて、子どもたちの幸せにつながるよう努めたく思っています。全国から多くの小児科医をお迎えするに当たっては同門の先生方には改めてご協力のほどをお願い申し上げる次第です。

私の一週間 医学部教授時代

5月13日(月曜)
9 時早々に、K1 病院 T 医師、K2 病院 N 医師が相次いで来室し、来年早々に医院を開業したい旨の報告を受ける。彼らはいずれも40代に入ったところで、まだまだ病院で後進の指導にあたって欲しい。個人開業で地域医療に従事するのは小児科医として大きな魅力であることは理解できるが、それ以上に彼らを病院に引き留めるだけのものがないということか?
11 時 30 分から、定例院内会議に出席。医師、看護部、薬剤部の総括リスクマネージャー、事務部の面々と「ひやりはっと報告」、「ご意見」を分析、対策を協議する。
昼食は、神戸外国大学松浦南司教授ととる。彼は経営マネージメントが専 門で、医療経営に大変な関心を抱いている。彼の協力を得て大学病院に医療経営研究センターを設立し、これからの法人化を目指して活動を開始する予定である。
16 時から、月 1 回の診療責任者会議(医局長会議)に出席し、1か月間の 病院活動について報告するとともに、意見交換する。会議では、懸案の「外来予約制度の見直し」と待ち時間短縮のためのワーキンググループを立ち上げ、具体的な対策を立ててもらうことにした。職員に対して、B 型肝炎、麻疹の予防接種とともに、C型肝炎の検査実施について検討。

5月14日(火曜)
8 時から、定例のモーニング・カンファレンスに出席し、院生YKの研究報告を聞く。モデル動物を使ってのIUGRの脳発達に関する研究であるが、仮説、研究目的をもっと絞り、ゴールを目指して欲しい。
12 時 30 分から、母子センター・一般病棟の回診を行う。新しい研修医(正式採用は6月1日であるので今は見学生)とはじめて一緒に回診することになる。今年は総勢 23 名の入局であるが、すでに関連病院で 6 名が研修を開始しており、大学病院で研修するのは 17 名である。忙し過ぎない、暇すぎない、程よい研修計画を米谷医局長に練ってもらっている。うまくいくかな。回診では新研修医17名に BSLの学生7人が加わり、入院患者数を上回る人数。若い彼らのプレゼンテーションは新鮮でいい。
16時30分から、院内各部門の責任者を招集する。6月に開催されるワールドカップ時の救急患者受け入れ機関となっているので、フーリガンなどによる広域災害救急対策について協議。神戸では、6 月 5 日にロシアーチュニジア、6月7日にスエーデンーナイジェリア戦がが、さらに 6 月 17 日夜には決勝ト ーナメント戦が予定されている。
18 時に、K3 病院の院長、事務長ならびに市の助役の来訪を受ける。この 4 月から小児科医師数が 4 名から3 名に減少したにもかかわらず、従来通りに、小児2次救急輪番を週2~3 回を受け持つよう病院から要請され、それではと ても責任を持って勤務できないと彼らが固辞したことから、その善後策につ いて相談に来られた。医局では、私が来春定年であることも関係し、新規開 業者が後を絶たず、小児科勤務医師不足が深刻な状況にある。病院側が労務 環境を改善し、彼らを説得する以外に道はないと告げる。 T – Yb 4 – 2 首位奪回

5月15日(水曜)
10 時から、神戸大学本部で国立大学法人化に向けての検討部会、財務会計部会に出席する。病院収入は神戸大学全体の収入の6~7割を占めることから、平成16年からの法人化後の病院経営は大きな課題である。収入増には人材確保以外に道はないと考えている。
13 時から、病院運営委員会を開催、新病棟に移転後、在院日数、紹介率はかなりアップしている。来年4月実施の包括医療に向けて対策を練る必要がある。
15 時から、医学部教授会に出席する。
18 時、K4 病院院長と会う。
夜、K3病院A医師より、このままではとても勤務を続けることはできないと病院長に辞職を申し出たところ、病院側から「辞表を受理できない、退職するなら懲戒免職にすると告げられた」という怯えきった内容のメールが届く。これは 恫喝であり、許せない。T-Yb4-2 薮5勝

5月16日(木曜)
9時30分、K5 病院院長と会う。小児科医の確保と増員を求められる。小児救急は複数市町が組んで広域ネットワークを考えなければ問題解決にならないと、こちらから協力要請する。
10時、N社の営業担当者と会う。最近米国で開始されたサービスとして、入院中の新生児の様子をインターネットで家庭に送るサービスの日本における可能性を尋ねられる。日本でも、ハイリスク新生児は退院後にいろんな問題を抱えていることから、長期にわたる母子分離への支援策としてその開発推進を要請した。
11時30分、毎朝の定例院内会議に出席。相変わらず、転倒・転落のひやりはっと報告が出されている。患者はいずれも高齢者であり、十分にオリエンテーションをし、いろんな対策を練ってはいるが、なかなか解決困難で看護部では頭を抱えている。ご意見箱には、外来の待ち時間の指摘がある。
13時30分から、神戸大学評議会に出席。その後、引き続いて神戸大学将来計画委員会が開催された。国立大学法人化に備えて、中期目標・中期計画をまとめるためのワークシート作成について討論する。神戸大学の理念は、「真摯、勇気、自由、協同の伝統を尊重し、開放的で進取の気性に富む高等教育研究機関としての役割を果たす」ことである。 T – Yb 8 – 0 井川、 無四球完封

5月17日(金曜)
朝5時に起床。新大阪6時53分発ののぞみ2号で上京、都市センターホールでの全国医学部長病院長会議に出席。全国の国公私立79大学から集まり、喫緊の課題である、「卒後臨床研修義務化」と「大学病院の包括医療制度」を中心に議事が進められた。
卒後臨床研修義務化は、平成16年度からとなっており、去る4月22日に 医道審議会から「中間とりまとめ」が出されたが、研修医の身分、待遇、指導医の確保などについての具体的なかたちは全く示されていない。大学病院での研修については、厚生労働省と文部科学省とのせめぎ合いばかりが目立ち、肝心の研修医の立場に立った議論になっていない。現在病院長をしている我々は、インターン闘争を経験した世代であり、我々が過去の体験を生かして、研修医の味方として活動しなければ、だれも彼らの立場を代弁するも のはいないという認識にある。もっとも来賓として来られた篠崎医政局長も44卒とのことで、当時の事情はよくご存知のはずである。 4時に会議が終了し、とんぼ返り。夕食は自宅で。 T-D雨天中止

5月18日(土曜)
10 時に大学病院に向い、同門の吉田澄子先生から寄贈される絵画を受け取る。8号Fの大作で、画題は「花とキャベツ」、彼女の自慢の作品の一つとのことである。新病棟の大ホールに飾らせてもらう予定。
13時30分から、神戸大学内の神緑会館で開催される日本小児科学会兵庫県地方会に出席。新入局者たちが早速お手伝いを。途中、2時から30分間、27年度卒業生のクラス会に出席し、新病棟の紹介と寄付の依頼。また、4時から30分間、医学部後援会(父兄会)に出席し、大学病院紹介といまの臨床医学教育について説明する。
17時30分、地方会が終了するや否や、医学部後援会懇親会に出席、学生の父兄と懇談する。多くの親御さんが、クラブ活動に精を出して、いつも帰りが遅く、勉学に支障しないか気を揉んでおられる。そのぐらいでないと良い医者にはなれないと励ます。
21 時帰宅。家内は娘達と泊まりがけで出かけており、独りぼっち。メールの確認と返事。小児科教室ホームページに、提言「世界の中の子ども達」をアップロードす。明日の講演のスライドを取りそろえる。今夜はテレビを見ないでおこう。 T – D 1 – 5

5月19日(日曜)
朝から、土砂降りの雨。10 時からの神戸市こども家庭センター主催の「子育て市民講座」の講演に出かける。演題は、「脳の発達からみた育児」で神戸市の一般市民、保健福祉関係者を対象にしたものである。発達期脳の脆弱性と可塑性を中心に話を進める。3歳児神話の持つ意味について、3歳までの育児の重要性と女性を家庭に閉じこめる問題とは別問題であることを。乳児が人間不信に陥らないように、養育者(必ずしも母親である必要はない) との「基本的信頼感の形成」を妨げない育児環境の提供を図ることの大切さ を強調してきた。
午後からは、芦屋市立美術館で開催されている日本画家の故山田皓斎展に家内と行く。山田皓斎氏は私の中学高校時代の親友山田泰将君のご尊父である。泰将君が招待状を送ってきてくれた。彼の妹である女優岸ユキさんも日本画家として有名である。
夜は、溜まっている原稿書きに追われる。 T – D 2 – 6  Never, Never, Never Tigers
小児科臨床 「私の一週間」平成14年掲載
神戸大学医学部小児科教授・附属病院長時代の日記から。平成15年3月退官。

新しい世紀を迎えて

若葉「巻頭言」2001.6.2.

新しい世紀を迎えて、世の中は大きく、かつ急速に変化しつつあります。医学も、医療も、大学も、すべての分野で変革が進んでいます。

国立大学の独立行政法人化を控えて

ご承知のように、国立大学の独立行政法人化が平成15年4月実施に向けて具体的に検討されており、近々国立大学協議会から最終答申が出される予定です。完全民営化ではなく、おそらく、財政・人事についてその裁量権の一部を中央から各大学に委譲し、大学の特徴を出しやすくするとともに、全体としては大学のスリム化を図ろうとするねらいがあるようです。

神戸大学医学部では、今春から「神戸大学大学院医学研究科医科学専攻」と呼称も変わりました。小児科学講座は、実践医科学専攻「成育医学講座小児科学分野」ということになります。教官は、学部学生よりも、大学院生を主にした研究教育活動を中心とする体制になりますが、スタッフが増えるわけではありません。

このように、大学の機構そのものが大きく変貌しつつあります。その背景にあるのが、金融破綻に象徴される日本経済の行き詰まり、少子高齢化社会です。いま、大学生にも少子化の波が押し寄せており、ベビーブーマーのいたピーク時の60%近くに減少しています。要するに、大学教官数が相対的に余ってきたという論理です。

医療事故防止が最重要課題
昨年10月に、病院長に就任し、就任早々に医療事故に遭遇するという憂き目に会いました。以来、医療事故防止を最重要課題として、病院運営を行っている中で気づいたことがいくつかあります。

我々大学病院で働いている医療者には、技術的に高度先進医療を提供していれば、全てが許されるというあまい考えが、少なからずあったように思えます。これまで、医療を受ける患者への十分に納得のいく説明が行われずに、患者の選択権をときに無視し、医療が進められていました。この意識こそが、今日の社会的ニーズと乖離し、社会から医療界へ向けられている集中砲火の源となっています。

医学情報は医師の独占物ではなくなった
かって、医師は医学的知識を独り占めにしていました。ところが、IT革命により、医学情報は医師の独占物ではなく、だれでもインターネットで最新の医学文献を入手可能となり、医学知識を得ることができます。

文献を読み、書かれていることを理解するだけなら、別に6年間の医学教育、臨床実習を受けなくてもできることです。情報収集の得意な患者さんは、医師よりも早く最新情報を持ってこられます。いまや、医学知識は持っているというだけでは医師とはいえません。的確にひとりひとり患者に必要な情報を選別し、解釈し、適用していく能力が医師には求められています。

EBMは、あくまでEBM
医療の難しいのは、科学的に明らかにされている医学的事実でも、すべての患者さんとって正しい、好ましいものではないことです。我々医師が良しとしているEBMは、あくまでEBMであって、95%あるいは99%は当てはまりますが、個々の患者にとって必ずしも「真」ではありません。どうも、この点が医師と患者の感覚のずれを招いているように思えます。

統計学的分析は、確かに科学的手法に違いありませんが、あくまで可能性が高いというだけで、真実を保証するものではありませんので、数字だけで患者さんを説得しようとするなら、誤解を招きます。
患者さんが求めているもの、患者さんに信頼感を与え得るのは、患者さんの立場になって、親身になって相談してくれる医師の「態度」、「ことば」です。科学技術がいかに進歩したからといっても、医療に期待されるものは今も昔も変わりません。

ますます深刻化する小児科医不足
小児科医師数の不足は、ますます深刻さを増してきています。小児医療は、多岐にわたるとともに、特異な技術的習熟を要するために他科の医師による代役が利きにくいことが今日問題化してきているところです。小児科医師、研修医の過労死がマスコミで報じられています。われわれは、大学にいる大学院生を総動員して各地の小児救急医療を支えてきましたが、もはや不可能な状況になっています。即刻、小児医療の構造改革を断行しなければ、悲劇を招くこと必至です。医師の過労死もさることながら、疲れ切った医師による医療過誤は子どもたちに不幸をもたらします。限られた小児科医師のマンパワーを効率よく提供できる医療の新しい枠組みを行政機関に強く求めていきたいと考えます。

 

21 世紀の周産期医療を考える

20世紀後半四半世紀における医療技術の進歩は、「新生児科」、「新生児集中治療室」 といった新しい医療分野を築き上げ、とくに、昭和50年代にみられた新生児医療技術の進歩は歴史的にみても特筆すべきものであった。高度経済成長の波に乗って、我が国の新生児死亡率は欧米先進国に追いつき、あっという間に世界一の水準になった。近代医療の中で、最も著しい進歩を遂げたのが新生児医療ではなかったかと思う。その我々がいま新たな問題に直面している。

第1点は、新しいマンパワーの確保
新生児医療をこれまで支えてきた世代から次の世代への交代期に入ったが、新しいマンパワーの確保が困難な状況となり、新生児医療、否小児医療の存続さえ危ぶまれる状況下に陥っている。この8月に日本医師会から出された「2015 年医療のグランドデザイン」をみても、高齢者医療のみに視点を当て、21 世紀の日本国民の健康政策から、小児医療、新生児医療は欠落している。

第2点は、魅力的な教育プログラムを提供
ようやく達成できた高度な医療水準が、一般社会では当たり前のごとく受け入れられ、標準化されている。我々が、今後もその国民のニーズに応え、高度な医療を安定して提供し続けるには、医療従事者の質の保証(Quality assurance)、危機管理教育・トレーニングプログラムの開発・訓練が不可欠である。それには、新しいHuman resource の獲得、新生児医療の重要性を若い医師に理解させ、彼らに魅力的な教育プログラムを提供する必要がある。

第3点は、地域社会と連携した支援体制
周産期医療の究極の目的である「障害なき成育」を追及するには、 NICUでの救命医療とともに、退院後のフォローアップを通じて家族への支援が不可欠である。 ハイリスク新生児には、これまでのように病院内での医療活動だけでは解決できない問題が多く、地域社会と連携した支援体制なくしては子どもたちの健全な成育を保障できなくなっている。
以上の3点を解決できるようなプログラムの作成・実行が、これからの新生児学の教育と研究の課題である。
21 世紀の周産期医療「新生児学の教育と研究」 周産期医学、2001 年 1 月号掲載

医者の不養生

狭心症発作に襲われ、自らが成人病を患ったことにがっくりしているところへ、前田盛教授から医者の不養生の見本として「死からの生還」について投稿するよう要請されたのである。自らの恥さらしの様なものなので拒否し続けてきたが、皆さんのお陰で無事この世に生還できた御恩と、私の体験が多少なりとも専門医と患者のはざまを埋める上でお役に立つのではないかと思い直し、筆をとることにした。しかし、依頼のタイトルであった「死からの生還」では、まだ臨死にまでいってはなかったので誤解を招くと思い、変更させて頂いた。

まさかまさかの虚血性心疾患
私は、若いときから幸い健康に恵まれ、中学、高校ともに学校を一日も休んだことがなかった。小児科入局後も風邪で発熱することもなく、ここまで全て体力まかせで突き進んできていた。実のところ、定期健診もろくに受けず、小児科の先輩である瀬尾先生、竹峰先生が癌に倒れられたときにカメラを呑んだものの、飲酒、喫煙、肥満、不摂生と健康に良くないとされることすべてを抱え込んでいた。成人病リスクファクターはあくまでも確率の問題であって、自らは関係のないグループに属していると言い聞かせ、タバコをふかしながら生活していた。そこへ、まさかまさかの虚血性心疾患である。

狭心症発作を疑ったが
正月休みに家族で城崎に行き、玄武洞の石段を上っていると、いつになく胸苦しくなり、しばらく立ち往生することになり、これは少し変だぞという気にはなっていた。しかし、しばらくすると何事もなかったように症状は消えてしまい、そのようなエピソードがあったことすら忘れてしまっていた。正月休み最後の1月4日日曜日の夜にコンピューターに向かってデータの整理をしていたところ、突然暑くもないのに額に汗がにじみ、胸部に絞扼感を覚えた。狭心症発作を疑ったが、休日深夜のことでもあるし、朝まで我慢するか、病院に行くか悩んでいた。ベッドに横たわっても一向に改善しないので、小児科夜間救急体制をとっている六甲アイランド病院の山田至康医師に電話したところ、循環器内科に頼りになる当直医師がいるのを確認できたので、娘の運転する車で救急外来を訪れた。
病院に着いたときには、少し症状が軽くなっていたので、ニトロを処方してもらって帰宅しようと考えていた。ところが、血圧、心電図をみている橋本医師の顔が次第にひき攣っていくのをみて、こればヤバイぞという気持になり、入院を命ぜられ、病室まで車椅子で運ばれ、絶対安静を指示され、ことの重大さに気づいた次第である。

思い出したのは阪神大震災直後のこと
橋本医師の問診に答えながら思い出したのは、3年前の阪神大震災直後のことである。自宅が全壊し、大学に近い五宮町に一時避難していた時のことだ。朝、坂を下ってくる途中で冷気を吸い込むと、よく喉の奥が絞めつけられる感じがしていた。タバコに火をつけ、大きく胸に空気を吸い込むと症状は軽くなり、大学に辿り着きエレベーターに乗った頃には症状は消え、その後は何事もなかったように毎日を過ごしていた。私が考えていた心臓病の胸痛ではなく、また呼吸困難というほどでもなかったので、よもや虚血性心疾患の症状とは思いもしなかった。妻に話すと、「あなた、登校拒否と違う? タバコを止めたら」ということになり、以後は誰にも相談することなく、自分でも忘れていた。

左前下行枝に90%の狭窄
入院翌日には、PTCAの処置を受け、「左前下行枝に90%の狭窄があり、危ないところでしたよ、先生」と横山教授から告げられ、「先生は、自分の病気について全く理解がないので困ったものです」と、彼が書いた文献の束が早速病室に届けられた。
PTCAを施行した当夜は鼡径部を圧迫した身動きできない姿勢で、タバコの禁断症状と闘いながら悶々と一夜を過ごすこととなった。その後の負荷心電図検査もパスしたが「PTCAの3分の1は再狭窄」という不安と闘いながら、厳しい食事指導を担当ナースから受け、薬袋を抱え無事帰宅できた。

「加減して生きる」のは大変
手帳には「ヘルプカード」を挟み、ポケットにはニトロを忍ばせての生活が始まった。「あまり無理をしないように」、「ほどほどに」と忠告されてもなかなか「加減して生きる」のは大変だ。退院した翌週の1月23日から神戸で日本周産期学会を開催し、上谷助教授をはじめとする教室員の働きで、無事盛会裡に終了することができた。ほっとするとともに、この学会を機に日常性を取り戻すことができた。
新聞、雑誌、総合医学雑誌をみていると、「心筋こうそく」、「狭心症」、「虚血性心疾患」という活字がやたらと眼につく。2月12日の日経新聞の記事で、「しめつけられるような胸の痛みと冷や汗、こんな心筋こうそくの症状が起きても、救急車を呼んだり、救急病院に駆け付けたりせずに様子をみようという人が一般の約半数に上っている」というのがあった。心筋こうそくは、発症してから治療開始まで2時間を超えると死亡率が急に高くなるという。当日娘が側にいなければ、私もこの「様子を見る」グループに属していたかも知れない。どうなっていたのだろう。

胸痛は、痛みというよりは漠然とした不快感 vague pain
心筋こうそく=致死的疾患、だから、胸痛 -> 呼吸困難・チアノーゼ -> 死への恐怖と、その症状は非常に息苦しいものと短絡的に考えていた。横山教授が書かれた内科学成書の狭心症の診断の項には、「胸痛は、痛みというよりは漠然とした不快感vague painといった程度のことが多い」と、「胸痛の性状は絞めつけられる感じ、圧迫される感じ、重苦しさと表現されることが多く、ときには灼けるような感じや痛み」と記載されている。また、発作の持続時間が短いことも受診への決断を鈍らせる。実際のところ、このような症状を的確に判断するのは今でも難しい。若い娘をみれば胸キュンだし、心配事があると胸が痛む。気にしだすと症状はより強くなる。今こうして、このような原稿を書いていると、当時を思い出し、また胸が痛み出す。ちょっとした症状で毎度救急外来を訪れると医師も大変だ。ポケットに忍ばせたニトロが私に安心感を与えてくれている。
ストレスが悪いという。喫煙が悪い、高血圧、糖尿病、高脂血症が増悪因子という。永年親しんできた喫煙ともさよならし、大好きなロース、チーズとも別れを告げ、カロリー摂取も自分では控えているつもりである。私なりにライフスタイルをかなり変える努力をしてきた。もし、次の再検査で良くなっていないのなら、これらの因子が血管内皮細胞増殖因子に作用して血管閉塞を引き起こすリスクファクターだったろうか疑いたくなる。

筋金入りの心臓で活躍している医者が結構たくさんいる
インターベンション可能なこの疾患に罹ったのは、不幸中の幸いと自らを慰めている。一昔前なら死んでいたのであろうか。心筋こうそく、狭心症を含めた虚血性心疾患の診断・治療は医学の中でも最も進歩した領域の一つだ。各種の薬物療法、PTCA、PTCRなどの侵襲的療法の進歩のお陰で命拾いをさせて頂いた。この疾患は術後のQOLについても申し分がない。筋金入りの心臓で活躍している医者が結構たくさんいることを、今回初めて知った。その連中が逞しく酒を呑み、豪快に気炎を上げている姿をみると大いに勇気づけられる。自分もやっと病気と仲よくできるようになったところである。

神緑会学術雑誌、第14巻105-6頁、1998