阪神淡路大震災の当日に思ったこと

若葉「名誉教授からの一言」2017

阪神淡路大震災から20年ということで、大々的に報道されていますが、私個人の心情としては、もう二度とあのような地震を経験したくありませんし、正直なところ当時のあの情けない映像はもう見たくないという思いです。でも、あの地震を知らない子どもたちが成人式を迎えることになりますので、幸運にも一命をとりとめたことに感謝しつつ、私自身の記憶を頼りに、震災当日のことをお話ししましょう。

突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞う

地震発生が午前5時47分という早朝で、6時起床を予定していた私は、微睡みながら、まだ布団の中にいたことが幸いしました。突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞い、床に叩きつけられることの繰り返し、背を丸くし、じっと耐え忍ぶだけ、哀れなものでした。揺れも漸く治まりかけた時に、隣で寝ているはずの妻に声をかけても返事がありません。真っ暗闇の中、辺りの様子が全く分からず、不安に思い、もう一度「お前、大丈夫か」と声高に叫ぶと、ようやく「すごかったね」というか細い声に安堵しました。

頭の中はもう真っ白に

幸いにも、北海道へ流氷を見に行く予定にしていた妻は、枕元にスノーブーツを置いていたので、自由に動き回ることができ、私の靴も瓦礫の中から探し出してくれました。パジャマの上に手当たり次第に重ね着し、玄関までたどり着くのも大変だなと思っていたら、寝室の窓枠が吹っ飛び、塀も倒れていたので、何の苦労もなくすぐに建物から脱出することができました。近隣の倒壊した建物中に閉じ込められている人々の救出の手伝いをし、一段落したところで、国道2号線のガードレールに腰を落とし、頭の中はもう真っ白な状態でした。

六甲山が隆起したのもわかる気が

辺りがようやく白み始めると、ふだんは建物で見えないはずの六甲の山並みが、眼前に迫ってきました。六甲山頂は今回の地震で12cmほど高くなったそうです。六甲山は1回の地震で数10cmずつ隆起し、それを何千回も繰り返し、100万年かけて今の高さ約千メートルの高さになったということです。私は、自然界の営みのほんの一瞬に出くわしただけですが、山の隆起については十分に納得です。

入院患者さんたちは全員無事でした

いち早く見舞いに駆けつけてくれたのが、三里さん姉妹です。三里さんから車を拝借して、大学にたどり着いたのが昼過ぎでした。10階にある小児病棟はかなり損壊していましたが、入院患者さんたちは全員無事であったとの報告を、当日当直であった飯島先生、母子センター芳本先生から受け、安堵しました。最も危なかったのが、医局のソファーで寝ており、本の下敷きになるのを免れた飯島先生でした。

神戸大空襲時さながらに

震災当日夜、6階にある医局の窓から外を眺めていると、四方八方から炎が燃え上がり、すぐ近くの荒田町まで炎が押し寄せていました。一晩中夜空を焦がしていたその光景は、朧げながら脳裏の片隅にあった太平洋戦争での神戸空襲時を思い起こさせるものでした。

ボスニアの人々に比べたら

その後も、震度3〜4の余震が絶え間なく起こってはいましたが、本震以上の強い地震はないということで、さほどの不安感はありませんでした。当時は、ボスニア紛争の真っただ中でした。3年半以上にわたる戦闘が全土で繰り広げられ、死者20万人、難民・避難民200万人以上の大変悲惨な戦争です。爆撃に怯える市民の様子が、連日新聞・テレビで報じられていました。真っ赤に染まった夜空を見上げながら、終わりの見えない戦争に比べると、1回きりの震災の方がまだマシかと、自分を慰めていました。

同門の先生の中に被災された方はたくさんおられましたが、命を落とされた方が一人もおられなかったことは、不幸中の幸いでした。この先、数十年、数百年後には、必ずまた遭遇するでしょう。震災は一瞬の出来事です。できることは、一人一人が自らの生活空間の安全性をふだんから熟知しておくことです。震災は、命さえ守れれば、戦争と違い、翌日から怯えることなく立ち直れるのです。

2015年1月17日記

新生児黄疸のすべて 基礎から臨床まで

生理的黄疸と病的黄疸を見分ける知識と観察力は、新生児スタッフが身につけておくべき事柄である。本書では、新生児期のビリルビン代謝など新生児黄疸を理解するための基礎知識から、診断のための検査、管理の方法、看護のポイントまで「新生児黄疸のすべて」を解説。

神戸大学医学部小児科教授 中村 肇著

定価 : 4,509円(本体4,175円+税)

明治、昭和、そして平成

若葉「名誉教授からの一言」 2016

平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」

平成27年秋の神戸大学医学部のホームカミングデーで、病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺にある京都帝国大学医学部の初代小児科教授の平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」と、設立代表者である長澤亘(ながさわわたる)先生について話をする機会を得ました。

関西における近代小児科学の草分けである平井先生と兵庫県地方会の生みの親である長澤先生を歴史上の人物と思って調べていたところ、私自身のこれまで生きてきた75年間、時計針を逆方向に回すと、何と1865年、慶応元年。ちょうどお二人がお生まれになった年に当たることに気づきました。

そこで、明治維新直前の、西郷隆盛が薩長同盟の成立や王政復古に大活躍していた時代にタイムスリップし、明治、昭和、平成に思いを巡らせてみた。

明治の文明開化  近代医学の黎明期

明治維新後、欧米文明を取り入れた日本の近代化は急速に進み、医学はドイツ医学の影響を強く受けて発展しました。ドイツでコルツ教授に師事し、小児科学を専攻し、帰国した弘田長(つかさ)先生が、東京帝国大学医科大学初代教授に就任したのが1889年(明治21年)12月です。

平井毓太郎先生が東京帝国大学医科大学を卒業した1889年(明治21年)には、まだ東京帝国大学には小児科学講座はなく、平井に教えを説いたのは内科学のベルツ博士でした。平井もドイツに留学した後、1902年(明治35年)に京都帝国大学医学部の初代小児科教授に就任されました。弘田も、平井も、神戸港から多くの人に見送られて船に乗り、ドイツに向かったとのことです。

長澤亘先生が兵庫県地方会を設立した

長澤は、1889年(明治21年)に県立神戸医学校卒業後、1893年(明治25年)に東京帝国大学医学部小児科撰科入学し、小児科学の研鑽をつみ、2年後には「ウッヘルマン氏小児科学」の翻訳出版されました。東海道本線の新橋駅・神戸駅間の全線が開業したのが1889年(明治22年)なので、開通後まもない列車で上京したことになります。

神戸に戻った長澤が、兵庫県地方会を設立したのは1903年 (明治36年)です。まだ近代小児科学を本格的に学んだ医師が兵庫県下には皆無の時代で、全国で4番目の小児科地方会でした。

当時の世相をみると、1885年(明治18年)頃から、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換、兵力倍増の軍拡計画が進められ、1894年(明治27年)には、朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐり清国との間で日清戦争、その10年後の1904年~1905年には、老大国ロシア帝国との間での満州を主戦場とした日露戦争においていずれも勝利を収め、大日本帝国は世界の「五大国」へと成り上がった時代でした。しかし、最後には悲劇的な太平洋戦争に突入していったのです。

戦後の高度経済成長と医学の進歩

私が生まれた1940年は太平洋戦争直前、医学部を卒業したのは、1964年(昭和39年)で、ちょうど戦後20年に当たります。医学生時代には邦文の医学書がまだ少なく、英語、ドイツ語の教科書で医学を学んだ時代です。

維新後に活躍された先達と同じく、同級生の多くが新しい医学を学ぼうと米国へ、ドイツへと留学した時代です。私は1970年にパリ大学医学部に留学、新生児学を学びました。新生児センターのNICUに人工呼吸器がずらりと並んでいるのをみた時には、日本の医療レベルとのあまりの差に受けたショックは今でも忘れられない。

1964年は、東海道新幹線が開業、10月には東京オリンピック開催と、戦後からの復興、世界第2位の経済大国へと高度成長を遂げた節目の時代でした。1972年にフランスから帰国。我が国の新生児医療は飛躍的発展には、我々世代の留学時代の経験が大いに役立ったように思います。10数年後の1980年代半ばには、我が国が「新生児死亡率世界一」を達成し、われわれ世代の大きな誇りとなっている。

平成の大改革 グローバル化の時代

明治の文明開化と戦後の復興、いろんな点で重なって見えます。この70年の間に、隣国では朝鮮戦争が、アジアではベトナム戦争があったが、日本は戦争を免れてきたことは何よりの幸せでした。

戦争こそありませんでしたが、日本人の意識、価値観が大きく変わりました。

日本は経済至上主義へとシフトし、まさに「平成の大改革」です。大学は独立法人化し、「グローバル化」、「イノベーション」を合言葉に、経営努力が求められる時代となりました。成果の見える研究、とくに経済的価値のある研究が評価され、成果の見えにくい教育は後回しの感が否めません。

ICT時代ですから、「グローバル化」は不可欠ですが、何事もAmerican standardのグローバル化はないでしょう。教育において、デジタル要素が多い知識についてはまだしも、アナログ要素の強い精神性については、標準化、グローバル化は不向きです。

ロボット技術が進化した時代になっても、最後まで残る職業は教師と医師と言われています。疾患のロボット診断ができたとしても、人の病を治すには、患者対医師の、人と人の関係、アナログ要素が不可欠だからです。時流に流されることなく、しっかりと医の原点を見つめてください。

平成28年1月記

お薦めしたい本 内村鑑三著 「代表的日本人」
日本が近代化を進めていた明治時代、1908年(明治41年)に、キリスト教的思想家として知られる内村鑑三(1861~1930)が、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人を取り上げ、英語で、日本人の精神性を世界に向けて発信した本。
内村は、「明治維新以後、学校が知識を得て立身出世するための踏み台となってしまった。学校の役割、使命はそこにはない。学校とは「真の人間」なるための場所である。それを思い出さねばならない。」と述べている。彼が現代の教育現場をみれば、いかに語るであろうか。

 

平井乃梅、神戸における小児医療の生い立ちを訪ねて

第10回神戸大学ホームカミングデー シスメクスホール 2015.10.31.

大学病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺の庭園に建立されていた「平井乃梅」の記念碑が、お寺の全面改修に伴って庭の片隅に無残の放置されているのを昨年6月に目撃された寺島俊雄教授が心を痛め、それを伝え聞いた神緑会メンバーが立ち上がり、本学の敷地に移設する計画が持ち上がった。
私自身は、平成22年7月の日本小児科学会兵庫県地方会の250回記念大会の講演の中で、日本小児科学会兵庫県地方会のルーツについて調べていたところ、長澤亘(ながさわわたる)先生が明治36年 (1903) 11月に兵庫県地方会を全国で4番目に設立されたこと、地方会の運営に平井毓太郎先生から多大な指導、支援を受けていたことを、長澤亘の門下生が編集した「八十八歳夢物語」の中で知った。

平井毓太郎と長澤亘の出会い 日本小児科学会兵庫県地方会の設立

兵庫県小児科地方会を立ち上げたものの、初期には会員も少なく、名士の後援なくしては永続できぬと考えた長澤が、明治37年2月の第二回地方会に京大教授の毓太郎に学術講演を頼んだのがきっかけである。以後毓太郎は退官まで約23年間、毎回この地方会に出席して講話、講師の斡旋などの尽力を惜しまなかった。京大定年退官後も、下山手通5丁目にあった長澤小児科病院の知新堂で開業医の為の神戸雑誌会を毎月一回催し、国内外の最新の文献を紹介し、その評判は大変高く、小児科以外の医師も多数出席していたとのことである。
平井は、昭和20年1月12日に満79歳で死去したが、その前月まで17年間継続して休むことがなかった。これらの講義は全くの無報酬で行われており、学術上の行為に報酬を受けるべきではないというのが毓太郎の頑固なまでのポリシーの一つであった。

「平井乃梅」建碑の趣旨並に祭詞

このような結びつきからその恩義を深く感じた長澤は、毓太郎を恩師として限りなく敬慕し、40年有余年の長きにわたって変わることなく、常に門下生としての誠と礼を尽くした。平井の死後5年目の命日にあたる昭和25年1月12日に「平井乃梅」を建碑し、その趣旨並に祭詞が、長澤の自伝に以下の通り記されている。
「故平井毓太郎先生は吾が日本小児科学会兵庫県地方会創立以来約30年、以て神戸雑誌講話会に17年合わせて47年の久しきに亘り御来神下され、吾が神戸地方の会員を御教訓御指導賜りたることは誠に感謝感謝に堪えざるところにして其御功績実に偉大なりと云う可し。今回、令嗣平井金三郎先生並に京大小児科教授服部峻治郎先生の御厚意により、恩師の御遺髪を御分与賜りたれば有志相計りこの碑を建立し之を碑内に納め祭り、記念として梅樹を植え、名づけて「平井乃梅」と云ふ。以て恩師の御懿徳(いとく)を偲び永く後世に伝えんとす。乞ふ希くば英霊来り享けよ。日本小児科学会兵庫県地方会 代表 長澤 亘」(八十八歳夢物語、84頁)
そこには、当日来会者として、是枝、伊坂、高木、大石、岡田、島田、舟木、湊川、平田、人見、福田、原口、長澤、吉馴、関、村瀬、尾崎、田川、山川、厚見、鈴木、高橋、長澤信一郎の名前も記されており、私が知っている大学関係者として、鈴木靕教授、平田美穂教授、伊坂正助教授らの名がみられる。
また、碑の裏面には「醫聖 故平井毓太郎先生御遺髪納置 昭和24年11月11日 日本小児科学会兵庫県地方会有志代表、日本小児科学会、兵庫県医師会名誉会員 長澤 亘」と記銘されている。

平井毓太郎は関西における小児科学の草分け

平井毓太郎は、慶応元年(1865)10月11日、三重県で出生し、明治22年(1889) に東京帝国大学医科卒業し、明治27年(1894)に京都府立医学校(現京都府立医科大学)教諭に着任した。ドイツ留学ののち、明治35年(1902) に京都帝国大学医科小児科初代教授に就任した。東京帝国大学ではベルツ博士に師事し、ベルツ博士の代診を命じられるほど信頼を置かれていた平井毓太郎が、京大教授に就任したのを知った恩師のベルツは、これで関西の小児科は安泰だと話したという。

「所謂脳膜炎」と平井毓太郎

平井毓太郎の学問上での最大の業績は、「授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因は、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見」したことである。大正8〜13年の6年間に京大小児科に入院した1歳以下の児の総死亡492例中72例(14.6%)が所謂脳膜炎で死亡しており、その原因が不明なことから大いなる恐怖であった。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を欠かさなかった平井毓太郎は、当時すでに発表されていた文献的考察から鉛中毒説のヒントを得た。明治38年に、高州謙一郎は「所謂脳膜炎で塩基嗜好顆粒赤血球の出現」を報告したが、鉛中毒と結びつけることができなかった。平井毓太郎は、内科の本に書かれていた鉛中毒患者の他覚的症状である「血液中に塩基嗜好顆粒赤血球の出現」のほか、「亜黄疸」、「ヘマトポルフィリン尿」、「歯齦の鉛縁(ブライザウム)」などの鉛中毒の症状も所謂脳膜炎の乳児で見られたことから、「仮称所謂脳膜炎ハ慢性鉛中毒症ナリ」という論文を日本小児科学会雑誌に大正13年(1924) 発表し、乳児をもつ母親は含鉛白粉を使わないように警告を発し、その後の脳膜炎発症を食い止めることができた。さらに、平井毓太郎は、死亡患児の全身諸臓器、生体試料中の鉛濃度の定量を行い、自らの手で鉛中毒説を確固たるものにした。
「所謂脳膜炎」は、東大小児科弘田長博士により明治34年にはじめて記載されていた病名である。関東でも、明治27〜28年頃に多数観察されていたが、明治36年に勧業博覧会を機に白粉製造業者が鉛白粉の危険を宣伝した結果、一般に無鉛白粉が普及し、関東では見られなくなったことから、乳児の「所謂脳膜炎」と鉛中毒の因果関係を明らかにするに至らなかったようである。ところが、関東以外の地域では含鉛白粉が廉価であり、またなんの規制もなかったことから、その後20年間も使い続けられ、大きな被害をもたらした。
我が国の鉛中毒の研究の第一人者である大阪市立大学の堀口俊一名誉教授は、本学西尾久英教授らとの共著で、「「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡」を雑誌「労働科学」に連載しており、今日とは違い生体中の鉛含量の測定が極めて困難な中で、粉骨砕身の努力により極めて適切な結果を得ていたと絶賛されている。

定年退官後は神戸雑誌会と京都雑誌会を主宰

定年退官後の昭和4年 (1929) から、当初は自宅で京都の小児科医を集め、京都でも月に一度雑誌講話会を開催されていた。その模様については、平井毓太郎の孫にあたる平井和三氏が、「藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち」の書に詳しく書かれている。その中で、小児科医松田道雄氏の父親が平井毓太郎教授在任中に直接薫陶を受けていたが、世代のちがう松田道雄が退官後の毓太郎の雑誌会に自ら参加しており、その様子を「晩年の平井毓太郎先生」と題したエッセイにとどめている。
「第二の木曜日の夜の七時近くになると、わたしたちは医師会館へ急いだ。先生は、いつも、定刻の前に教室に着くように来られた。ポケットに歩度計を入れて、毎日二里歩くことを日課にされていた先生も、この日だけは電車に乗られた。先生の大きな皮かばんには、その夜に抄読される医学雑誌が掛け金もはずれるほど詰まっていて、重かったからである」と。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさず、その成果を月に一度の京都と神戸の小児科医への講義に反映させようとした毓太郎の医学者としての姿勢には感服させられる。平井毓太郎の蔵書を集めた「平井文庫」は、終戦後各所を移転したが、現在は福井医科大学図書館に保管されているとのことである。

最後に
「平井乃梅」の記念碑を通じて、明治初期から中期にかけての関西における西洋医学のはじまり、とくに小児科学の発展の歴史をつくった平井毓太郎と、兵庫県での小児医学の発展の歴史をつくった長澤亘の二人の業績を知ることができた。明治人ふたりの医学の道における熱い開拓者魂をお伝えできていれば幸いである。

参考資料

  1. 寺島俊雄著. 平井毓太郎先生記念碑「平井乃梅」の今. 「神戸 まち角の解剖学」興文社(神戸)平成28年3月発刊(予定)
  2. 長和会編. 八十八歳夢物語 1953年12月発行 大石康男先生ご蔵書
  3. 平井和三編著. 藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち 2000年11月発行
  4. 堀口俊一、寺本恵子、西尾久英、林千代著. 「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡(1)平井毓太郎による究明まで. 労働科学 84巻2号62−71頁, 2008. その後9回にわたり連載されている。
  5. 北村晋吾著. 平井毓太郎伝. 1997年3月発行. 著者は毓太郎の郷里である三重県で小児科医院を開業されている。

2015.10

2014年、午年に因んで

若葉「名誉教授からの一言」 2014

昨年は、アベノミクス、オリンピック東京招致と久方ぶりに明るいニュースの多い年でした。さて、今年は午年。「午」の本来の読みは「ご」で、「杵(きね)」が原字だそうです。前半(午前)が終わり、後半(午後)が始まる位置、その交差点が正午です。草木の成長期が終わり、衰えの兆しを見せ始めた状態を表しています。

のちに、覚え易くするために動物の馬が割り当てられました。 馬は「物事が”うま”くいく」「幸運が駆け込んでくる」などといわれる縁起のいい動物です。午年生まれは、もともと楽天家で、バイオリズムの変動が激しく、運気の落ち込みを感じないひとが多いようです。

「核黄疸」が超早産児で問題に

私自身の昨年は、大変エキサイティングな1年でした。かつての研究テーマであった「核黄疸」が超早産児で問題になっており、30年以上前に開発したUBアナライザーの出番が再び巡ってきたことから、森岡一朗講師を中心に若い大学院生の横田先生、香田先生らと、飯島教授の心強いご支援も頂き、神戸UB懇話会を立ち上げ、毎月1回話し合いの機会を持つことができました。黄疸に関心をもつ関連病院の先生、加古川西の米谷先生、森沢先生、姫路日赤の五百蔵先生、こども病院の坂井先生、高槻の片山先生らも加わり、共同研究を開始することができました。

この10年間、新生児学の研究から遠ざかっていた私は、ブランクを取り戻さねばなりません。幸い、最近ではPubMedの助けを借りれば、自宅においても資料収集が可能な時代となり、時間にゆとりのある私は、一気にファイリングすることができました。その結果、我が国では黄疸への関心をもつ新生児科医が少ないために、黄疸研究が新生児医療の進歩の中で取り残されていることを知りました。

超早産児の救命率が著しく向上した中で、生存退院しても神経発達障害をもつ児がかなり多い現実。多くの施設では超早産児の黄疸管理指針がないままにケアされており、気がついたときには重症黄疸になっていた例があり、あるいは黄疸に気付かれずに新生児期を過ごし、フォローアップではじめて脳MRI所見、ABR異常、難聴などから核黄疸を強く疑わせる例が少なくありません。

いまさら私の出番ではないかも知れないとは思いつつも、若い新生児科医に再考を促さねばとの思いから、秋の日本未熟児新生児学会で講演の機会をつくってもらいました。森岡先生らと中国の広州市での国際核黄疸シンポジウムにも参加し、諸外国の黄疸研究者との旧交を暖めることもできました。

さあ、今年は午年。肉体は下り坂ではありますが、気分は楽天的に、駆け抜けていきたく思っています。

歳とともに学んだこと

歳に関係なく、「幸せ」は達成感から。

手を伸ばせば、手に入る「幸せ」、いくら手を伸ばしても無理だったのが、歳月が経てば手の届くものもある。

歳がいってから、初めて手に入れると、本当に「幸せ」を感じる。

若いうちは、せいぜいやり残すがよい。

いろんな「幸せ」の引き出しに、大切にしまっておくことだ。

2014年1月記

 

最近の世相から、思うこと三つ

若葉「名誉教授からの一言」   2013

昨年末には、中学2年生のいじめ自殺が、年が明けると、高校2年生の体罰から自殺という悲しい出来事が相次いで起こっています。自殺死に追い込まれなくても、その何十倍も、何百倍もの「いじめ」や「体罰」が全国で繰り広げられているよう思えてなりません。また、年々増加する母親による乳幼児虐待と、子どもたちの近くに位置する小児科医として、子どもたちを取り巻く社会環境が余りにも悪すぎるのを看過するわけには行きません。

その1. 問題は、親世代を含めての徳育に

いじめ事件が起こると、生徒へのアンケート調査が行われます。事実確認だけなら、先生が生徒に直接話を聞けば済むことで、なぜ生徒にレポートさせるのか悲しくなります。同じ屋根の下にいて、face-to-faceの会話ではなく、レポートでないと伝えられない、これが、毎日顔を合わせている教師と生徒のコミュニケーションでしょうか。

私が学生であった頃には、「大学の自治」ということで、キャンパス内への警察の介入には徹底的に抵抗していました。大学人としての誇りでした。しかし、常軌を逸した全共闘の暴力行為で、学園への警察の介入に対する抵抗感がなくなったようです。

医療現場も、教育現場もモンスターに怯えています。社会全体でモンスター狩りをしないと、性善説に立つ医療者や、教師は萎縮し、結果的に子どもたちを不幸にしてしまいます。親世代向けの「人のみち」の再教育が必要です。

その2. ならぬことはならぬものです

新春から綾瀬はるか主演の大河ドラマ「八重の桜」がはじまりました。第1回目を観ただけですが、私自身は日本人の心のルーツに触れた思いで、今後の社会的反響が楽しみですます。

会津藩の砲術指南の山本家に生まれた八重は、広い見識をもつ兄・覚馬を師と仰ぎ、裁縫よりも鉄砲に興味を示し、会津の人材育成の指針“什の掟”(子弟教育7カ条)「ならぬことはならぬもの」という理屈ではない強い教えのもと、会津の女として育っていきます。

明治元年に、板垣退助率いる新政府軍に対し、最新のスペンサー銃を会津・鶴ヶ城から撃つ女、その姿は「幕末のジャンヌ・ダルク」とも呼ばれています。のちに、京に出て、アメリカ帰りの夫、新島襄の妻となった八重が、男尊女卑の中、時代をリードする「ハンサムウーマン」となっていく物語です。

会津藩における藩士の子弟を教育する組織、什(じゅう)は、6歳から9歳までの児で組織されています。「什長」というリーダーが選ばれ、年長児が組の長となります。年長者を敬う心を育て、自らを律することを覚え、団体行動に慣れる為の幼年者向け躾を、「遊び」と「お話」を通じて学習します。子どもたちが子どもたち自身で学習するこの仕組みは、大変素晴らしい制度だと思います。

そこでは、7つの什の掟が、必ず毎日繰り返されます。

  1. 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ
  2. 年長者には御辞儀をしなければなりませぬ
  3. 虚言を言ふ事はなりませぬ
  4. 卑怯な振舞をしてはなりませぬ
  5. 弱い者をいぢめてはなりませぬ
  6. 戸外で物を食べてはなりませぬ
  7. 戸外で婦人と言葉を交えてはなりませぬ

ならぬことはならぬものです。

第七項は現代の価値観に合いませんが、その他は日本人だけでなく、人種、国籍に関係なく世界中の人々にも当てはまるものです。このような躾は、「教育」ではなく、「学習」です。それには、大人からではなく、年齢の近い年長児から自分の目で学ぶのが効果的で、社会性の芽生え始めた4〜5歳から小学校低学年期が最適です。

昨今の親をみていると、我が子に対していかにも自信無げに「しつけ」を行っているように思えます。人として許されること、許されないことは、「ならぬことはならぬもの」として、毅然とした態度で我が子に接して欲しいものです。この「ならぬことはならぬものです」は、現在、NN運動として会津若松の地域コミュニティ活動に取り入れられているそうです。

その3. 大人の世界ではコンプライアンスを

神戸大学も法人化して、半民間化したため、一般企業のように監査室や監事のポストができました。私もこれから2年間、神戸大学の監事の職に就くことになりました。

監査には、会計監査と業務監査があり、その役割を一言で言うと、大学人がお行儀よく、教育、研究に従事しているかをチェックして、学長に進言することです。要するに、コンプライアンスの大きい組織体であるよう見守る役割です。

医療の領域で用いられているコンプライアンスは、肺のコンプライアンス、服薬に対してコンプライアンスという語が用いられていますが、企業社会でいうコンプライアンスとは、「公正・適切な企業活動を通じ社会貢献を行なうこと」です。


コンプライアンスは『法令遵守』とだけでない

コンプライアンスを『法令遵守』とだけとらえるのは間違いです。法律を守るのは当然のことであり、それは最低限のレベルに違反していないだけです。これを逆手にとり法の不備をつき「法令に違反していない」と、違法ギリギリの行為をしている企業もありますが、このような行為は企業の社会的信用を失い、取り返しのつかない事態になります。

国立大学も法人化により、自立した経営が求められるようになりました。お金が絡んでくると組織ぐるみの不正が発生する可能性が生まれます。また、従前なら大学人には許されていた、一般社会からみた「非常識」は許されなくなりました。教育機関には、一般企業人よりも、より厳しいコンプライアンスが求められるようになっています。人の命をあずかる医療も同じです。

医療におけるコンプライアンス

医療におけるコンプライアンスを考えるに当たって大切なことは、患者はいつも弱者であるということです。医療者と患者は決して対等の立場にはありません。一つ一つの医療行為が、什の掟、「五、弱い者をいぢめてはなりませぬ」に当たらないか、相手の無知につけ込んでの「四、卑怯な振舞をしてはなりませぬ」に当たっていないか絶えず心したいものです。

医療行為というものは、法令だけに留まらず、医療倫理に基づくところが大です。医療倫理は、地域、文化などにより多様化しており、医療技術の進歩とともに時々刻々変化しています。医療倫理は、医療技術の進歩にいつも遅れてついてきます。新しい医療技術を取り入れる場合には、倫理規定がまだ追いついていないために、違反かどうか明白にはなっていません。

「ならぬことはならぬ」の強い信念で

そこでも、結局のところ、「ならぬことはならぬ」の強い信念で医療者自身が、所属する組織が、他の規範となるべく、積極的に法令や条例以上の医療倫理・社会貢献を遵守する行動が求められます。神戸大学小児科教室がコンプライアンスの大きな、素晴らしい教育・研究・臨床の組織として、日本の、世界の規範となることを念じています。

2013年1月記

Mac とともに、Steve Jobsへの感謝を込めて

若葉「名誉教授からの一言」2012

私が昭和39年に大学を卒業し、小児科の大学院に入学した当時は、コンピュターはおろか、電卓もなく、そろばんと計算尺で、実験データの平均値と標準偏差値をこつこつと計算していました。手垢に塗れた計算尺はいまも大切に机の引き出しの奥にしまってあります。電力不足で停電になったときには役立つかもしれません。

間もなく、医学部にも本格的な電子計算機Fortranが基礎棟に設置されることになり、当時須田勇教授の生理学教室にいた同級の森英樹君の指導を受けながら、腫れものに触るように使わせて頂きました。図体は大きいですが、その性能たるや今では5万円くらいで入手できるPCにも遥かに及ばないものでした。

1972年には」『カシオミニ』が誕生し、様相が一変しました。手のひらに乗るサイズで、価格も1万2800円まで下がり、個人でも手に入るようになりました。

Basic言語によるプログラムを自ら作成

1980年代になると、パーソナル用途向けの安価なコンピューター(いわゆるパソコン)が次々と発売され、私は、NECより発売されたPC-8001を入手しました。当時のパソコンはBASICで起動するマシンで、自分自身でBasic言語による標準偏差値の算定プログラムを作成しました。一瞬にして答が出たときの感動は今でもよく覚えています。

以来、私はパソコンの虜になり、研究データの統計計算、新生児センターのデータベースの作成、患児の発育曲線の作成等を次々と試みてきました。パソコンは、まさに日進月歩、2年もすれば骨董品同然となるために、これまでに私が個人的に買い求めた台数は20台を下らないと思います。妻に小言を言われながらも、私の趣味と実益を兼ねた最大の道楽です。

Macの出現とスライド作成

学会発表の方法は、今日ではパワーポイントで作成し。カード持参が当たり前の時代となりましたが、1970年までは模造紙にマジックで書いて一枚一枚めくりながら、口演していました。70年代に入り、スライド映写機が用いられるようになり、レタリングで一文字一文字貼付けて作成しました。その後、次第に普及してきたワープロでスライド原稿の作成をしていました。

1984年に現れたのが、あの箱型の一体型パソコン、マッキントッシュです。小型ですが、値段はNECやIBMのパソコンに比べると倍以上していました。しかし、作成の容易さ、仕上がりの美しさからスライド作成には欠かせないツールとなりました。パソコンといえば、他の学部ではWindowsが主流でしたが、医学部ではMacです。恐らく学会発表の回数が多いことや、スライドにはグラフ、イラストを多く用いる必要があったためでしょう。

ファイルメーカーとJ-SUMMITS

プログラム作成の言語には、Basic言語、C言語などがあり、自分でプログラムを作成しなければパソコンを駆使できませんでした。そこに、1995年Macでしか使えないデータベースソフトであるFileMaker Pro 3.0v1をファイルメーカー社が開発しました。本ソフトは、データベース機能にすぐれており、専門的な知識がなくても、容易にプログラムを作成でき、臨床データの整理に好適なツールでした。

その後、ファイルメーカーは進化し、今では病院の診療情報システムの一翼を担うまでになっています。その先導的役割を担っているのが、我が同門の名古屋大学医療情報部長である吉田茂教授です。彼は、医療者のニーズにマッチするフレキシブルなシステム開発を目指す研究グループ、日本ユーザーメード医療IT研究会(略称J-SUMMITS)を2008年に立ち上げ、NECとか富士通の医療情報システムのホストコンピューターとリンクさせ、機能性アップを目指しています。

iPadの臨床応用にもファイルメーカー

2010年春にアップル社から発売されたiPadは、これまでのパソコンの常識を覆す一大エポックとなり、爆発的人気を呼んでいます。私自身もその虜となり、早速、阪神北こども急病センターでの看護師によるトリアージ業務にファイルメーカーで作動するiPadを導入し、医療者にも、患者にも好評を博しています。その様子は、日経メデカル電子版に大きく紹介されました。

Steve Jobsへの感謝を込めて

振り返って、私の大学生活、こども病院での生活、さらには今の阪神北こども急病センターでの生活においては多くの仲間に支えられてきました。そのつながりをより強固にしてくれたのがITではなかったかと思います。私がツールとしてのITの素晴らしさを享受できたのは、Macのお蔭だと思っています。

このたび、今日のITの進化を先導してきたSteve Jobsの訃報に接し、Macのもつ素晴らしさとともに、彼のイノベーターとしての偉大さを知ることになりました。Steve Jobsがもつ偉大さは、Macの開発者、iPadの開発者というだけでなく、彼にはイノベーターとしての強い信念、強いリーダーシップを備えもつ人物であったこと、ITの中にも強い魂、やさしい心が宿らないと、人の役に立たず、感動を与えない事を最近出版された彼の伝記から知ることになりました。

改めて、彼に感謝を捧げたいと思います。

Stay hungry, Stay foolish.

スティーブ・ジョブズが亡くなってから、スタンフォード大学の卒業式での彼のスピーチがクローズアップされています(Steve Jobs’ 2005 Stanford Commencement Address)。

この2005年スタンフォード大学の卒業式でのスピーチを締めくくる言葉、”Stay hungry, stay foolish” は、「ハングリーであれ、愚かであれ」の訳はちょっと違うようです。

Jobsは、次のようにも述べています。「当時は分からなかったが、アップルを首になったのは、自分の人生においてこれ以上望みようがないほど最高の出来事だった。成功という重荷がなくなり、もう一度ビギナーになるという軽やかさに取って代わった。物事を知らない状態に戻ったのだ。私はこうして、人生で最もクリエイティブな時期に突入した」。

成功、それも世界的な大成功を白紙に戻して、何も知らない状態からやり直す。それこそが人生で最良の展開である。これがhungryやfoolishの意味するところのようです。

情報社会へ変わり行く世界

若葉「名誉教授からの一言」2011

2010年は、情報技術の進化・普及が、日常生活の隅々までIT化が進み、いまや世界中隈なく及んでいます。この情報社会の変化について、私なりに少し整理をしてみました。

スマートフォンが主流に

iPadの出現、Windowsから再びMacへ

本年5月に初めてiPadを手にして驚嘆したのが、つい昨日のように思い出されます。その素晴らしいスペックは、これまでのPCのバージョンアップとは全く異なる革命的な出来です。私は、ここ7年ほどWindowsを使っていたが、再び昔使っていたアップル社製のマックに逆戻りすることに決意しました。

iPad, iPhone4の発売に続いて、最近、スマートフォンなど類似の機器が数々発売され、PCに比べて手軽に持ち運びできることから、携帯電話端末として標準機器になること間違いなしです。

医療分野への進出も時間の問題です。病院内だけでなく、通信機能を活用した在宅医療モニターとして役立てられ、ひいては医療構造が大きく変化するでしょう。

ウィキペディア(Wikipedia)の充実ぶり

インターネットを利用しておられる方なら、ウィキペディアのサイトにアクセスした経験をお持ちだと思います。この素晴らしいネット上での百科事典を私はしばしば活用しています。ウィキペディアは、創設されてからまだ10年を経過したに過ぎませんが、毎月3億8千万人が利用いるそうです。その数はインターネット接続環境にある全人口のほぼ3分の1に相当します。

ウィキペディアはコミュニティの産物

ウィキペディアは、商業的なウエブサイトとは異なり、ボランテアが少しずつ書き込んでいってできた、コミュニティの産物です。一つ検索すると、実に多彩な記事が載っているので、調べものをするには欠かせないサイトとなっています。課金も、広告もなしに、ここまで充実したサイトができるとは、創設者のジミー・ウエルズさんも予測していなかったのでは。ところが、最近アクセスすると、寄付受付の画面が出てくるようになりました。日常的に大変重宝させていただいているサイトでもあり、すぐに振り込ませてもらうことにしました。

ウィキ(Wiki)、ウィキウィキ(Wiki Wiki)とは

“Wiki”という単語を検索すると、コンピューター用語の一つで「ウェブブラウザを利用してWebサーバ上のハイパーテキスト文書を書き換えるシステムの呼び名」ということです。

ウィキウィキ(Wiki Wiki)はハワイ語で「速い、速い」を意味し、ウィキのページの作成更新の迅速なことを表しています。米国の著名なコンピューター・プログラマであるウォード・カニンガム(Ward Cunningham)氏が、ホノルル国際空港内を走るWiki Wiki シャトルバスからとって、“Wiki Wiki Web”と命名したそうです。

ウィキリークス(WikiLeaks)と情報漏洩

匿名により政府、企業、宗教などに関する機密情報を公開するウェブサイトの一つであるウィキリークス(WikiLeaks)が、世界各国の外交上の機密文書を公開し、大きな話題となっています。

このウィキリークスと、先に述べたウィキペディアとは何のつながりもないとのことです。

情報漏洩と言えば、神戸のインターネットカフェから尖閣諸島中国漁船衝突事件の映像が動画投稿サイトYouTubeに流出し、政府の情報管理能力が問われる騒動がありました。この事件の背景を見ると、情報の秘諾性を放置した状態にしておきながら、情報統制を図ろうとする時代錯誤的な為政者の感性にただ呆れるばかりです。

医療分野での情報管理

我が国の個人情報を扱う行政や医療分野は、守秘性を盾にして、ITを活用した情報ネットワーク・システムの普及を怠ってきました。実際には、情報の漏洩よりも、情報を活用できないことの方が、はるかに問題が大きいのです。

GE、日本で医療向けITサービスを「クラウド」で

米国のGE社がいよいよ我が国の医療産業に参入するという記事が、12月12日付の日経新聞の1面トップに掲載されました。グローバル企業の参入で、我が国の医療が大きく変革すること必至です。

これまで、ユーザーである各病院が、コンピュータのハードウェア、ソフトウェア、データなどを、自分自身で保有・管理していたのに対し、クラウド・コンピューティングでは「ユーザーはインターネットの向こう側からサービスを受け、サービス利用料金を払う」形になります。

クラウドでは、端末機器を設置するだけ

クラウドでは、端末機器を設置するだけで、ITサービスを受けることが可能であり、病院の規模に関わらず、医療情報システムの主流となります。医療情報の集約化が進むと、各病院の経営状態は丸裸になり、病院の差別化がより鮮明になります。経営不振の医療機関にはすかさずグローバル資本が投下され、経済至上主義的な医療への道がより加速することになるでしょう。

自らの頭脳で情報を活用する術を

目覚ましい進化を遂げつつある情報通信技術が、我々の日常生活を大きく変えましたが、守秘性を理由としてこれまで改革を怠ってきた医療分野も、いよいよ大改革が起きようとしています。

このような環境下で、よりよい医療を提供し続けるには、医師一人一人が玉石混合の情報に振り回されることなく、自らの頭脳で情報を活用する術を学ぶことです。これが、医師としてのアイデンティをもつ上で一番大切なことです。

2010年12月記

医療界にもダイバーシティー(diversity)を

若葉「名誉教授からの一言」 2010

ICTの急速な進歩は、我々のライフスタイルを大きく変化させました。これまでなかなか手に入れることできなかった情報が、だれでもが、どこででも手に入ります。かつては、医学校で学んだ医師のみが知り得た専門的な医学知識を、今では医師以外の者でも、最新の国内外の情報にいとも簡単にアクセスできるようになっています。

医学知識だけでは医師としてのIdentityを保てない

医学知識は、もはや医師の独占物ではなくなり、医学知識をもつだけでは医師としてのIdentityを保つことができなくなったのです。断片的な知識なら、素人でも医師に負けないくらいの情報を得ることができます。とりわけ、薬事情報とか、検査情報といった物質的な情報、数値化された情報は、特別な基礎知識がなくても理解するのにさほど困難はありません。

検査データを的確に評価するには

患者が手にする医学情報の大半は、疾病の一面だけを見たものであることが多く、必ずしも患者本人に当てはまるものとは限らないのです。とくに、数値化された検査データについては、誤解を生むことがしばしばあります。

検査データには、基準値が定められている。異常値を示しているからといって、患者当人にとっては、病的である可能性は高いが、100%病的である証拠とはなり得ません。多くの基準値そのものが95%の精度で線引きされており、20人に1人は当てはまらない基準値を元に判断していることを忘れてはなりません。医師は、この点をしっかりと患者に伝えねばならないのです。

医師としてのIdentityとは

ICTが進化したとはいえ、人間を対象とした医療にはデジタル処理で解決できない問題が余りにも多いのです。医師は、数値化された情報と数値化できない情報に加え、患者の社会的背景などを集約し、個々の患者の病状を判断、適した治療法の選択肢を患者に提供する事になります。これらの情報をもとに、医療におけるPDCAサイクルをいかに上手く廻せるかが医師の役割ではないでしょうか。

医療の標準化にはご用心

医療へのICT活用を図るために、各医療分野で医療の標準化が試みられているが、アナログ思考でなければ解決できなのが医療である。中途半端な医療の標準化は、医師の思考能力、判断能力を低下させ、患者にとっても益するところはない。喜ぶのは医療に直接タッチしていない医療保険会社で、彼らが単純化した物差しとして用いるだけだ。

各地でみられる医療崩壊、医療経営の破たん

各地で医療崩壊、医療経営の破たんが取りざたされ、その原因として挙げられるのが医師数の不足であるが、もっと重大な問題である管理者の経営責任が看過されている。医学の進歩、患者のニーズと大きく乖離した病院医療の提供体制、とくに公立病院の医療提供体制は、旧態依然としたもので、まったく手つかずのままである。

夕張市やJALが経営破たんし、会社更生法の適用を受ける時代である。国民の生活基盤を担う事業というだけで、親方日の丸で安穏とした経営は最早許されないのである。

公立病院経営はその典型で、「患者さんのため」、「市民のため」と、野放図な経営であることを知りながら、抜本的な改革を行わずにきているのである。医療内容ではなく、空きベッド対策や職員対策として入院患者をコントロールする稼働率重視の愚、医療資源の無駄遣いを排除し、入院しなければ治療のできない患者だけに絞っても経営が成り立つ医療制度にすべきであろう。

我々医師自身が、地域における医療ニーズを適正に把握し、財政基盤を明確にした経営を行っている病院での勤務でなければ、納得いく医療を提供できないという毅然とした姿勢で臨まねば、地域医療はますます崩壊し、我々医師にも、患者にも不幸な結果を招くことになる。

医療界にもダイバーシティー(diversity)を

ICTの進歩により企業のグローバル化が急速に進み、日本企業の多くが海外に進出しています。各企業では、グローバル化に対応するための企業戦略として、「ダイバシィティー」の概念が取り入れています。「ダイバシィティー」とは、多様性、相違点のことであるが、企業では、人種・国籍・性・年齢を問わずに人材を活用することを意味しており、こうすることで、ビジネス環境の変化に柔軟に、迅速に対応しようとするものです。医療環境の変化に柔軟、迅速に対応できる体制を整えるには、「ダイバシィティー」の概念を導入することです。

医療マネージメントの学習を

これまでの医師中心の病院運営から、各種コメデカルスタッフを活用したサービス産業としての医療への変革が必至であり、医療者自らの意識改革が不可欠です。

これからの医師は、医療に携わる多職種の一つとしての医療技術の提供者であり得ても、これまでのように医師であるというだけで、多職種のカナメとしての役割を担う立場を保ち続けるのは難しいでしょう。

激動する世の中で、小児科医として、医師として、自分の役割が何であるかを今一度考えてください。

2010年1月記

 

 

コンビニ医療こそ、小児医療の原点

若葉「名誉教授からの一言」2009

だれでも、いつでも受診できる小児医療サービス

最近、コンビニ受診が小児救急医療の破綻の原因であるかのごとくマスコミが囃し立てので、厚生労働大臣までもが悪乗りして、我が国の医療費抑制政策による医療制度の崩壊を棚に上げにし、問題をすり替えようとしている節さえ見られます。

コンビニ受診が恰も小児医療の破綻の原因のように言われていますが、だれでも、いつでも受診できる小児医療サービスこそが、親子にとっての最高の安心であり、幸せであり、我々小児科医が目指すところです。

私は、この4月から阪神北こども急病センターの運営に携わっていますが、夜間、真夜中に、親がわが子を抱いてわざわざ連れてくる場合には、必ずそれなりの理由を持ち合わせておられるのです。

不用意な医療者の一言

センターでトラブルになるのは、「どうしてこんな真夜中に、これ位の熱でわざわざ連れてくるのですか?子どもが可哀そうですよ」という、不用意な医療者の一言です。心配性の親なら、38℃前後の熱でも初めての発熱なら不安に陥ります。動顛し、連れてきた親に対して、真夜中にお説教するよりも、一刻も早く安心して頂くことです。お説教を聞きに来たのではないと怒られるのも尤もです。

身近な所に相談相手がいない現代社会

子どもは発熱していてもぎりぎりまで走り回っていますが、流石に39℃を越えると顔面は紅潮し、脈拍も速く、呼吸数も増え、ぐったりとします。いつも発熱患者を診ている小児科医でさえ、夜中に発熱したわが子をみると、最悪の事態を想定し、もしや髄膜炎ではないかと不安に陥り、慌てて来院してきます。ふつうの親は、育児書でいくら発熱の対処法を学習していても、否、知識があればある程、心配は尽きなくなります。三世代家族や身近な所に相談相手がおられると、多くの不安は解消されるでしょうが、現代社会ではそうはいきません。

ER型ではない子どもの救急は

いま、阪神北では時間外診療だけでなく、電話相談#8000サービスを並行して行っており、ベテラン看護師が電話応対しています。これまでなら来院していたと思われる患者の約三分の一は受診することなく、「不安であれば、いつでも診ますよ」の電話での一言で、自宅で様子をみることに納得されます。電話相談サービスは、不必要な受診を控え、外来の混雑を緩和するだけでなく、親の不安を解消する上で有効に機能しています。

時間外小児救急は、ER型の救急医療とは本質的に異なります。ほとんどの患者・家族はいますぐに生命にかかわると考えて受診して来られるわけではありません。放置して重病化するのを少しでも防ぎたいという思いで来られます。入院を必要とされる患者さんは100人中ほんの2〜3人です。如何に安心してもらうかが当センターの使命です。

急病センターの役割はトリアージ

最初に応対するトリアージ看護師がキー・パーソンです。患者は、その看護師の態度一つで、安心したり、不安になったりします。呼ばれて診察室に入った途端に目の会った医師の反応で、もう大半の患者は来院した目的を達成します。言葉は要りません。センターの役割は、「トリアージ」です。

入院を必要とする患者はサッサと二次病院へ転送、明日まで自宅で観察しても問題なさそうなら、翌日かかりつけ医への受診を勧め、万が一帰宅後変化があればいつでも再受診するよう指示するだけです。

センターの性格上、一人の患者にあまりに念入りな説明は、スロー診察となり、次々と訪れて来る患者の診療に差し支えます。迅速に診察してもらわないと困るのです。トリアージこそがこの初期急病センターの役割であることを、医療者も、患者もよく弁えることです。

初期救急に特化した広域こども急病センター

病院での小児初期救急医療は無理

私はかねてから、病院小児科が地域の初期救急医療を担うことには反対でした。

病院小児科が一次・二次をまとめて面倒をみることは、一見合理的であるように思えますが、10人程度の小児科医スタッフですべてを引き受けるのは土台不可能なことです。一次も、二次もどちらも中途半端になり、病院小児科医師の疲弊を招くだけです。喜んでいるのは安い人件費でよく働く小児科医を抱えた院長だけです。

阪神北広域こども急病センターは、病院とも、医師会からも独立した公益財団法人として、平成20年4月に3市1町(人口約70万人)と兵庫県が中心となり開設されました。初期救急に特化した広域の急病センターであるからこそ、小児科医としての「働き甲斐のある職場」、「安心して働ける医療環境」が保障されると考え、その使命が明確なことから人材確保も可能と考え、私はその理事長を引き受けました。

小遣い稼ぎのための医療者集団ではない

小遣い稼ぎのために働く医療者集団には絶対にしたくありませんでした。夜間、時間外だけという変則的な勤務体系の中ですから、当然それに見合う手当が前提となります。と同時に、上に掲げた「医療者としての働き甲斐」です。当センターでは、決して小児科医が主役ではありません。看護師、コメディカル、事務職が連携し、絶えず相談をしながら運営しています。

とりわけ、看護師は、電話相談サービスに始まり、来院時のトリアージとその役割は大変です。幸い優秀なリーダー看護師が10名揃いましたので、山崎センター長の指導を受けながら、お互いの力量を高めるべく絶えずミーティングを重ね、よりスムーズな患者サービスを目指してくれています。

小児救急医療は、小児科医だけで解決できる問題ではない

医療崩壊が日本各地で生じ、とくに小児救急医療体制の不備が叫ばれています。都市部よりも郡部における医師不足がより深刻です。その解決への第一歩は、地域における小児の救急医療へのニーズが何かを明確に知ることです。

小児救急医療は、小児科医だけで解決できる問題ではないのです。地域の他科医師、看護師、保健師といった医療関係者、育児支援グループの方々が、普段から情報交換をし、協力体制が組めていることが不可欠です。小児科医の役割はその仕組みづくりです。何もかもを小児科医がする必要はないのです。

時間外に入院を必要とする患者が一体どの位いるかをシミュレーションします。その全部を地域内で解決する必要はないのです。万が一に備えて、他地域と協力した搬送体制、専門医への相談体制をしっかりと創り上げておけば、住民は安心です。

ユビキタスなコンビニ医療

だれでも、いつでも、どこでも受診できるユビキタスなコンビニ医療。これこそが、住民の小児医療へのニーズです。その実現のために知恵を絞るのが地域の小児科医の役割です。あなた一人で解決しようとするから途方に暮れるのです。小児科医に何もかも背負わせるから破綻するのです。どんなにタフな、どんなに腕の良い医師がいても、医師だけでは地域医療を支えることはできないのです。工夫をしてください。

It is not the strongest of the species that survive, nor the most intelligent, but the ones most responsive to change. (生き残るのは最強の種ではない。最も高い知能を有している種でもない。変化に最も敏感に反応する種である。)Charles R. Darwin

2008年12月記