わが母校誕生のころ-本学の神話時代-(2) 中村和茂著

昭和20年となりて

 1月1日には午前9時より講堂にて4万拝の式が催され、学生40名余出席、小川校長より訓話がありました。3学期は8日(月)より始まり、先ず例により湊川神社に参拝し身を清めてから講義が始まった訳です。ところが年末より次第に激しさを増した敵機の空襲は年が明けると共に一層厳しくなり、警戒警報が鳴ると共に講義は中断、教官も学生も待避ということになるのですから講義の進行は思うにまかせぬようになりました。学生の欠席は目にみえて多くなり、又元気すぎて学生の方が辟易した橋寺先生のドイツ語が珍しいことに13日(土)に休講となりました。17日(水)の時間には先生は一応出てこられましたが、何時なく元気がありません。先生は食糧難のため栄養失調症になられたのです。

1月11日に本校第2回生入学試験の第1次発表が行われました。昭和20年度入学志願者心得には第一、資格として、“本校ハ専門学校令ニ依リ医学ノ要綱ヲ教へ、医術ノ真締ヲ授ケ、斯道研究ノ素地ヲ培ヒ以テ皇国医道ノ本美ニ徹セシメ進ンデ負荷ノ大任ニ対ヘマツル医人ヲ錬成スルモノナリ、依ツテ右ヲ体庸シ左ノ各項ノ一ニ該当スル者タルコトヲ要ス。”とあり、入学試験期日は文部省の定めた第1期、その選抜方法は文部省の指示により“第1次選抜銓衡”は出身中等学校長よりの報告書類によってのみ選衡され、入学者定員の約2倍の人数が選抜されました。この方法は何も本校のみに限ったものでなく交通機関が軍にとられてしまい、一般市民の利用が極度に制限され、又食糧難のため旅館などの宿泊も思うにまかせず、全国的に学生を集めて入試を行うことが不可能に近くなったため、やむを得ず文部省がとった手段だったようです。

2次試験の方は1月23日(火)より26日(金)迄本校で身体検査、口頭試問及び筆答試問が行われたようで、その結果綜合判定により1月31日(水)に合格者が発表され、初めて我々のクラスの弟分が決まったのでした。

講義中に警戒警報の陰気なサイレンが

話が前後しますが、1月19日(金)午後1時すぎ、内科診断学の講義中でしたが、例により警戒警報の陰気なサイレンの音が鳴りわたり、間もなく空襲警報のサイレンの音に変わりました。私達はその頃待避場所を基礎学舎の南の校庭に下る斜面の下(現在の運動部の倉庫)に選んでおりました。思い思いに鉄兜やら綿入れの頭巾やらを被って、退屈な講義はなくなるし、ほっとした思いで三々五々その辺りに集って煙草を喫いながら雑談をしていたのですが急に、激しい高射砲の音がするではないですか。南西の空を見るとB29の大編隊が可なりの低空でまさしくこちらへ向かってまいります。

しまった、やられたと思った途端、ドドと言うものすごい地響き、最後の編隊が頭上を通り過ぎたときは本当にやれやれ助かったとお互い喜び合いました。後でわかったのですがB29は全部で50機、この空襲で明石の川崎航空機工場は一瞬にして潰滅してしまいました。てっきり、ついその先の新開地が川崎造船でもやられたと思っていたのですが、20キロ近くも離れたところがやられていたわけだったのです。

しかし1月20日(土)午後には武田創教授より解剖実習の注意があり、今も同じ場所の実習室で1月29日(月)より2月24日(土)迄連日、記念すべき本学第1回の解剖実習が行われました。2月4日(日)には再び神戸は空襲をうけ兵庫の海岸近くにあった製粉工場はまる2昼夜燃え続け、神戸の巷は次第に焼け爛れてゆきました。

学生の入営延期が認められない?

そうこうするうちに8日(木)の朝刊をみますと、私達にとって大変なことが載っているのです。紙上では具体的なことはよくわからなかったのですが、戦況の切迫に伴い学生の入営延期がほとんど認められなくなったというのです。従来は理科系大学・高専の学生は卒業迄兵隊にとられることは勘弁してもらえる“きまり”となっており、小生などもつい先日徴兵検査は受けたのですが、大威張りで入営延期願いを出して、やれやれこれで4年間命が延びたとほっとしていた矢先だったのです。

よく読むとどうやら医学関係の学生は延期が認められるらしいのですが、1年でも浪人して入学したものは延期が認められない様子なので、その日の教室はこの話で持ち切り、兵隊へ送りこまれるか学生生活をのんびり楽しめるかの瀬戸際ですから、一同真剣そのもの、比較的のんびりしていたのは中学4年修了で入学した若干の人ぐらいでした。

学生間でもめにもめた入営延期中止かどうかの問題も2月13日、副校長格の分玉少尉よりの説明で医科に関する限り従来とあまり変りがないことがわかり、学生一同やっと一息入れることが出来ました。

しかしその頃になると軍の方の事務も粗雑となり、入営延期届を出していても連隊区司令部の方で誤って召集令状を出す様な事態が発生したりなどしました。一旦召集令状をもらった被害者?はいくら徴兵延期の権利のある学生でも入営せねばならず、学生の中に2、3人そんな訳で召集令状をもらったものが出て来ました。こんな入営者が発生するとその都度、軍側であるべきはずの配属将校たる徳岡政之介大佐がその連隊へわざわざ出かけていってうまく事情を説明し学生を貰い受けて来られるのですが、その情には学生達ただただ感謝あるのみで、“先生頼みます”の連発だったわけです。

激しさを増す空襲

空襲の方は激しさを増すばかり、ちょっと日記を繰っただけでも、

2月16日(金)東京へ艦載機延1000機来襲、
2月17日(土)今晩は阪神地方へ来襲かと思ったがやっぱり東京やられる。
2月19日(月)夜3度も敵機来り、大阪湾に機雷投下。
2月22日(木)このところ、毎晩敵機1、2機来る。
2月25日(日)早朝より雪、夕方には30センチ、午後敵数機来る。夜東京へ730機来襲。
3月4日(日)東京へB29 150機、又雨、日増しに暖かくなる。
3月6日(火)学校へ防空宿直。などと書いています。

学課の方は2月26日学年試験の日課が発表され、3月12日(月)ドイツ語、発生学。13(火)内科、教練。14日(水)内科、化学。15日(木)細菌、人文、16日(金)生理、病理。17日(土)解剖と決りました。しかし、学生の間では専ら近く神戸も東京、名古屋と同じく大空襲を受けるに違いない、学年末試験が本当にやれるかどうかという心配か?、希望か?わからない、今の学生諸君には到底理解出来ない気分が漂っていました。こんな何とも言えない、強いて言えば己の生命への本能的な危険を感じ、もはや勉学どころでなくなった我々に勉強しろなど一言も口にされずに、唯坦々と休講もなく講義をされたのは解剖学の島田吉三郎先生でした。さきにも述べました解剖実習中にも警戒警報が度々鳴りましたが、学生達が慌てて、それ実習はこれ迄とばかり実習室から逃げるように飛び出して行っても、最後迄学生のためにピンセットの手を止められない先生でした。心配していた阪神地区の大空襲は一向になく、定期試験第1日、第2日と迄は予定通り平穏に進みました。

3月14日(水)早朝とうとう来るべきものが来ました。

“空襲警報!!只今敵機約90機は尾鷲上空に集結中、阪神地区への来襲の公算大”とラジオが報じ終わらぬうちに、大阪は焼夷弾の洗礼をうけ、焔、天を焦がし、尼崎市北郊の私の家辺り迄真昼のような明るさになりました。この空襲の最後の編隊の攻撃で父が開業していた尼崎の医院も灰燼に帰してしまったのです。その日は定期試験の第3日目、内科と化学だったわけですが、どういう風にして受験したか、日記にもありませんし、記憶にもありません。

翌15日に学校では今晩はきっと神戸に来るという噂が専らでした。と言うのは、B29は当時占領されたサイパンからやって来ましたが、敵も準備もあり、そうそう毎日は来襲出来なかったのでしょう。大抵隔日にやって来るのが慣しとなっていました。

しかし、心配した16日早朝は(いつも午前2時頃から4時頃迄が大空襲の時間になっていましたが)、B29は1機も来襲せず、その日は生理と病理の試験がきちんと行われました。

しかし、かつてないことにその日は朝から爆撃もせずにB29が1機づつ2度も来て、当時としては超高度で飛行雲を引き乍ら飛び去って行きました。今晩は間違いない。皆そう考えました。“今夜の空襲のために早く寝とけよ”お互いにそう言いあって分かれたのですが、明日は武田創先生の解剖学の試験。午後10時が過ぎるとそろそろ心配になって来ました。寝床からそろり、そろりと這い上がり、机に向って、今も忘れません。ノートを開いて中枢神経系小脳のところ迄読んだときです。予想通り、空襲警報が鳴りわたったのです。

忘れもしない3月17日

学校が一時的にせよ機能を失った瞬間、何げなく私の見ていたノートの項目が、現在私が情熱をかたむけている研究分野とは何だか変な気がいつも致します。午前2時過ぎ。聞きなれた腹にこたえるB29の爆音がしたと思うと、異様な地響きと共に近所の高射砲陣地からの激しい音が始まりました。恐る恐る庭に作った防空壕から抜けて出てみますと、西の空がパっパっと明るくなっています。“神戸がやられた”と咄嗟に2階へ上り西の窓を開けてみますと、赤い焔が天を焦し、焔の数が次から次へと数を増しています。そして神戸の街はまたたくうちに1つの大きな焔になってしまいました。上空には笠を被せたように大きな白雲が拡がり始め、このため目標がつけにくいのでしょうB29の編隊は次第に低空飛行となり、機体が焔に照らし出されて夜目にもはっきり見られるようになりました。そして焼夷弾が丁度花火を天空から逆に地上に向かって打出すように神戸の街に突き刺さってゆくのがはっきりと見られました。

B29は次から次へと繰返し、繰返し爆撃を続けます。中には高射砲弾に当って火をふいたり、一瞬にして空中で四散するのも見られました。“ああ、とうとう神戸も灰燼に帰した。あの焔の中で我々の学校も今燃え続けている。明日からは解剖の試験どころか、神戸の中心街は何一つ残っていないだろう“と窓から西の空を眺め、ぼんやりとそんなことを考えたりなどしているうちに、空襲も午前4時過ぎにやっと終りを告げました。

午前6時、電車が動き出すのを待って学校へ馳せ参ずべく神戸に向いましたが、阪急は芦屋まででストップ、やむを得ず阪神電車の通ずるのを待って三宮へ、市内は予想以上に惨憺たるもの。見渡す限りの荒野、あるものは唯焼け爛れたセメント建造物だけ、何ともいえない熱気と匂いが漂っています。火災を避けながら神戸駅近くの国鉄のガードを北側へくぐり抜けると、見なれた人家は1軒もなく、すぐその先に学校と病院が立っていました。

“学校は残っている“感激しました。道には八角柱の焼夷弾の不発のものがゴロゴロころがっていますし、未だあちこちが燃え続け、危険この上もありません。湊川神社東側の道を学校へ急いだのですが路傍には焼夷弾の直撃を受けたのでしょう、防空頭巾を被りモンペをはいた若い婦人が2人、空を掴んだままこと切れていました。

もっとひどかったのは大倉山交叉点でした。市電の三叉路の中央にちょっとした防空壕があったのですが、その中にぎっしり人が詰ったまま、折り重なって蒸し焼きになっています。辺りの焼跡からはもうもうと煙が足もとに立ちこめ、暑くてオーバーなど着られたものではありません。

学校と病院は確かに残っていましたが、木造建築は勿論全焼、鉄筋のものも遠目からは焼残っているように見えたものも、近づいてみると中は焼け落ちて残っているのは唯外廓だけ、現在の基礎学舎の西側の3分の1は各階共中身は灰になっていましたし、病院の方も本館の美しいタイルの外装は剥げ落ち、各棟共屋上には焼夷弾が針山のごとく無数に突きささっていました。建物の中には未だ燃え続けているものもあり、早速我々のように駆けつけた学生は各所に分かれて消火を始めました。

私は当時の栄養部の建物を懸命になって消火しておられた、確か石川教授達だったと思う一団に加わりました。さすがの火災も燃えるものが無くなると自然に火の方から勢いが衰え、昼過ぎにはほぼ鎮火しました。やれやれと焚き出しの握り飯をほおばっているところへ、配属将校から今から福原の屍体を収容に行くからシャベルを用意しろとの命令です。この話は結局吾々の学校にはお鉢が回らず“帰ってよろしい”ということになりました。

行きはよいよい帰りはこわいで、日は暮れかかるし、乗物は無いしで、見渡す限りの焼け跡を学校から加納町へ向って一直線に歩きました。兵庫区、生田区もひどいでしたが、葺合区もこれに負けず、加納町3丁目の交叉点の路傍には名前のわからない黒焦げになった屍体が確認用の白札をつけて、ここに3体、あそこに5体と並べてありますし、二宮町の辺りだったと思いますが、戦災者の屍体が何重にも重ねられて野焼きにされるのに出くわしました。紫色の煙が夕闇に漂い、附近を煤けた服をまとった男女が着のみ着のままで唯目的もなく右往左往するようすは、この世の様とは思えぬ光景でした。

神緑会学術誌 第33巻 77-79頁、2017年8月より

2022.6.15.

子育て支援のための子ども保健学

子育てには地域コミュニティー社会の力、「子育ての社会化」が不可欠である。という視点から、子どもの健やかな成育のために、次の時代の子育て支援を実践して行こうとする専門職の方々のお役に立つような1冊です。

子どもを守るための新しい育児体系を、世代から世代へと伝えて行きたい!

中村 肇 監修

定価 2,415円(本体2,300円+税)

乳幼児の頭部外傷と虐待

救急医療チームがおさえておきたい診断・治療・予防のポイント

虐待が疑われる乳幼児頭部外傷症例に遭遇した場合に、まず何を疑い、どのように診断を進め、社会的介入を行えばよいかの一連のプロセスが分かる。
話題の“揺さぶられっ子症候群”の疾患理解をも踏まえた、初期診療にあたる救急医療従事者必携の一冊であります。

阪神北広域救急医療財団理事長
兵庫県立こども病院名誉院長 中村 肇 編著

定価1,050円(本体1,000円+税)

「書く」ということ

若葉「名誉教授からの一言」 2017

年老いての研究活動

2003年3月に退官し、間もなく14年になります。数多くの異物が入ったサイボーグのような身体ですが、元気に、多忙な日々を過ごしています。ここ数年、森岡一朗教授の率いる神戸大学の新生児グループに加えていただき、40歳近く歳の離れた若手ドクターと黄疸研究を再開しています。「その歳で今さら」と思われそうですが、当の本人は大学に顔を出すのを楽しみにしています。

昨年4月からは、阪神北広域こども急病センターに加え、神戸市北区のしあわせの村にある重心児施設「にこにこハウス医療福祉センター」の河崎洋子施設長をはじめとする4人の小児科女医軍団からの甘い誘いがあり、人生最後の仕事と気負い、嬉々として週1回出かけています。

全く本を読まなかった少年が

小さい頃の私は、野球ばかりして、ほとんど家の中におらず、全く本を読まない少年でした。算数は得意だったのですが、国語はとても苦手でした。大学時代も研究は好きでしたが、なかなか論文に仕上げる能力に欠けていました。しかし、文章を書かずにおれない大学生活が長かった所為で、先輩の先生がたのご指導もあり、いつの間にか筆をとるのが億劫でなくなり、また速く書けるようになりました。

エッセイを書き始めたきっかけは

私の書いた原稿の中で最も自慢の力作は、神緑会誌に寄稿した「私の臨死体験」です。1999年に狭心症発作でPTCA治療を受けた時の話です。この一文はかなり多くの方々の目に止まり、私が書いたどの論文よりも反響が大きいものでした。これが自信となり、エッセイを書くのが苦しみでなく、楽しみになりました。

二つの連載が励みに

兵庫県予防協会の季刊誌に連載の「赤ちゃんの季節」は、第1回が2001年秋で、16年を経過した今も続いています。また、こども病院時代に始まった毎月発行の「兵庫県地域子育ネットワークだより」のコラムにも、毎月寄稿しています。

ここまで続けられるのは、読者の方々からの暖かいお褒めと励ましの言葉です。何よりも私を勇気づけてくれたのは、脱稿前の妻の厳しい査読にありました。これらのエッセイは、時々の私の思いを凝縮した、日記帳ならぬ、月記帳のようなもので、折々の出来事を振り返ってみるのが今では楽しみの一つです。

平成29年2月記

 

新生児学 第2版

国内外の豊富な研究データを踏まえ、新生児疾患すべてに渡って臓器別に解説。胎児・産科学から新生児の成長・発達生理や適応生理、家族への関わり、倫理まで、新生児医療に不可欠な知識を網羅するとともに、臨床に基づく正常値・薬用量を紹介。

神戸大学医学部小児科教授 中村 肇 ほか

定価: 37,800円(本体35,000円+税)

阪神淡路大震災の当日に思ったこと

若葉「名誉教授からの一言」2017

阪神淡路大震災から20年ということで、大々的に報道されていますが、私個人の心情としては、もう二度とあのような地震を経験したくありませんし、正直なところ当時のあの情けない映像はもう見たくないという思いです。でも、あの地震を知らない子どもたちが成人式を迎えることになりますので、幸運にも一命をとりとめたことに感謝しつつ、私自身の記憶を頼りに、震災当日のことをお話ししましょう。

突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞う

地震発生が午前5時47分という早朝で、6時起床を予定していた私は、微睡みながら、まだ布団の中にいたことが幸いしました。突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞い、床に叩きつけられることの繰り返し、背を丸くし、じっと耐え忍ぶだけ、哀れなものでした。揺れも漸く治まりかけた時に、隣で寝ているはずの妻に声をかけても返事がありません。真っ暗闇の中、辺りの様子が全く分からず、不安に思い、もう一度「お前、大丈夫か」と声高に叫ぶと、ようやく「すごかったね」というか細い声に安堵しました。

頭の中はもう真っ白に

幸いにも、北海道へ流氷を見に行く予定にしていた妻は、枕元にスノーブーツを置いていたので、自由に動き回ることができ、私の靴も瓦礫の中から探し出してくれました。パジャマの上に手当たり次第に重ね着し、玄関までたどり着くのも大変だなと思っていたら、寝室の窓枠が吹っ飛び、塀も倒れていたので、何の苦労もなくすぐに建物から脱出することができました。近隣の倒壊した建物中に閉じ込められている人々の救出の手伝いをし、一段落したところで、国道2号線のガードレールに腰を落とし、頭の中はもう真っ白な状態でした。

六甲山が隆起したのもわかる気が

辺りがようやく白み始めると、ふだんは建物で見えないはずの六甲の山並みが、眼前に迫ってきました。六甲山頂は今回の地震で12cmほど高くなったそうです。六甲山は1回の地震で数10cmずつ隆起し、それを何千回も繰り返し、100万年かけて今の高さ約千メートルの高さになったということです。私は、自然界の営みのほんの一瞬に出くわしただけですが、山の隆起については十分に納得です。

入院患者さんたちは全員無事でした

いち早く見舞いに駆けつけてくれたのが、三里さん姉妹です。三里さんから車を拝借して、大学にたどり着いたのが昼過ぎでした。10階にある小児病棟はかなり損壊していましたが、入院患者さんたちは全員無事であったとの報告を、当日当直であった飯島先生、母子センター芳本先生から受け、安堵しました。最も危なかったのが、医局のソファーで寝ており、本の下敷きになるのを免れた飯島先生でした。

神戸大空襲時さながらに

震災当日夜、6階にある医局の窓から外を眺めていると、四方八方から炎が燃え上がり、すぐ近くの荒田町まで炎が押し寄せていました。一晩中夜空を焦がしていたその光景は、朧げながら脳裏の片隅にあった太平洋戦争での神戸空襲時を思い起こさせるものでした。

ボスニアの人々に比べたら

その後も、震度3〜4の余震が絶え間なく起こってはいましたが、本震以上の強い地震はないということで、さほどの不安感はありませんでした。当時は、ボスニア紛争の真っただ中でした。3年半以上にわたる戦闘が全土で繰り広げられ、死者20万人、難民・避難民200万人以上の大変悲惨な戦争です。爆撃に怯える市民の様子が、連日新聞・テレビで報じられていました。真っ赤に染まった夜空を見上げながら、終わりの見えない戦争に比べると、1回きりの震災の方がまだマシかと、自分を慰めていました。

同門の先生の中に被災された方はたくさんおられましたが、命を落とされた方が一人もおられなかったことは、不幸中の幸いでした。この先、数十年、数百年後には、必ずまた遭遇するでしょう。震災は一瞬の出来事です。できることは、一人一人が自らの生活空間の安全性をふだんから熟知しておくことです。震災は、命さえ守れれば、戦争と違い、翌日から怯えることなく立ち直れるのです。

2015年1月17日記

新生児黄疸のすべて 基礎から臨床まで

生理的黄疸と病的黄疸を見分ける知識と観察力は、新生児スタッフが身につけておくべき事柄である。本書では、新生児期のビリルビン代謝など新生児黄疸を理解するための基礎知識から、診断のための検査、管理の方法、看護のポイントまで「新生児黄疸のすべて」を解説。

神戸大学医学部小児科教授 中村 肇著

定価 : 4,509円(本体4,175円+税)

明治、昭和、そして平成

若葉「名誉教授からの一言」 2016

平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」

平成27年秋の神戸大学医学部のホームカミングデーで、病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺にある京都帝国大学医学部の初代小児科教授の平井毓太郎先生の記念碑「平井乃梅」と、設立代表者である長澤亘(ながさわわたる)先生について話をする機会を得ました。

関西における近代小児科学の草分けである平井先生と兵庫県地方会の生みの親である長澤先生を歴史上の人物と思って調べていたところ、私自身のこれまで生きてきた75年間、時計針を逆方向に回すと、何と1865年、慶応元年。ちょうどお二人がお生まれになった年に当たることに気づきました。

そこで、明治維新直前の、西郷隆盛が薩長同盟の成立や王政復古に大活躍していた時代にタイムスリップし、明治、昭和、平成に思いを巡らせてみた。

明治の文明開化  近代医学の黎明期

明治維新後、欧米文明を取り入れた日本の近代化は急速に進み、医学はドイツ医学の影響を強く受けて発展しました。ドイツでコルツ教授に師事し、小児科学を専攻し、帰国した弘田長(つかさ)先生が、東京帝国大学医科大学初代教授に就任したのが1889年(明治21年)12月です。

平井毓太郎先生が東京帝国大学医科大学を卒業した1889年(明治21年)には、まだ東京帝国大学には小児科学講座はなく、平井に教えを説いたのは内科学のベルツ博士でした。平井もドイツに留学した後、1902年(明治35年)に京都帝国大学医学部の初代小児科教授に就任されました。弘田も、平井も、神戸港から多くの人に見送られて船に乗り、ドイツに向かったとのことです。

長澤亘先生が兵庫県地方会を設立した

長澤は、1889年(明治21年)に県立神戸医学校卒業後、1893年(明治25年)に東京帝国大学医学部小児科撰科入学し、小児科学の研鑽をつみ、2年後には「ウッヘルマン氏小児科学」の翻訳出版されました。東海道本線の新橋駅・神戸駅間の全線が開業したのが1889年(明治22年)なので、開通後まもない列車で上京したことになります。

神戸に戻った長澤が、兵庫県地方会を設立したのは1903年 (明治36年)です。まだ近代小児科学を本格的に学んだ医師が兵庫県下には皆無の時代で、全国で4番目の小児科地方会でした。

当時の世相をみると、1885年(明治18年)頃から、「国土防衛軍」から「外征軍」への転換、兵力倍増の軍拡計画が進められ、1894年(明治27年)には、朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐり清国との間で日清戦争、その10年後の1904年~1905年には、老大国ロシア帝国との間での満州を主戦場とした日露戦争においていずれも勝利を収め、大日本帝国は世界の「五大国」へと成り上がった時代でした。しかし、最後には悲劇的な太平洋戦争に突入していったのです。

戦後の高度経済成長と医学の進歩

私が生まれた1940年は太平洋戦争直前、医学部を卒業したのは、1964年(昭和39年)で、ちょうど戦後20年に当たります。医学生時代には邦文の医学書がまだ少なく、英語、ドイツ語の教科書で医学を学んだ時代です。

維新後に活躍された先達と同じく、同級生の多くが新しい医学を学ぼうと米国へ、ドイツへと留学した時代です。私は1970年にパリ大学医学部に留学、新生児学を学びました。新生児センターのNICUに人工呼吸器がずらりと並んでいるのをみた時には、日本の医療レベルとのあまりの差に受けたショックは今でも忘れられない。

1964年は、東海道新幹線が開業、10月には東京オリンピック開催と、戦後からの復興、世界第2位の経済大国へと高度成長を遂げた節目の時代でした。1972年にフランスから帰国。我が国の新生児医療は飛躍的発展には、我々世代の留学時代の経験が大いに役立ったように思います。10数年後の1980年代半ばには、我が国が「新生児死亡率世界一」を達成し、われわれ世代の大きな誇りとなっている。

平成の大改革 グローバル化の時代

明治の文明開化と戦後の復興、いろんな点で重なって見えます。この70年の間に、隣国では朝鮮戦争が、アジアではベトナム戦争があったが、日本は戦争を免れてきたことは何よりの幸せでした。

戦争こそありませんでしたが、日本人の意識、価値観が大きく変わりました。

日本は経済至上主義へとシフトし、まさに「平成の大改革」です。大学は独立法人化し、「グローバル化」、「イノベーション」を合言葉に、経営努力が求められる時代となりました。成果の見える研究、とくに経済的価値のある研究が評価され、成果の見えにくい教育は後回しの感が否めません。

ICT時代ですから、「グローバル化」は不可欠ですが、何事もAmerican standardのグローバル化はないでしょう。教育において、デジタル要素が多い知識についてはまだしも、アナログ要素の強い精神性については、標準化、グローバル化は不向きです。

ロボット技術が進化した時代になっても、最後まで残る職業は教師と医師と言われています。疾患のロボット診断ができたとしても、人の病を治すには、患者対医師の、人と人の関係、アナログ要素が不可欠だからです。時流に流されることなく、しっかりと医の原点を見つめてください。

平成28年1月記

お薦めしたい本 内村鑑三著 「代表的日本人」
日本が近代化を進めていた明治時代、1908年(明治41年)に、キリスト教的思想家として知られる内村鑑三(1861~1930)が、西郷隆盛、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮の5人を取り上げ、英語で、日本人の精神性を世界に向けて発信した本。
内村は、「明治維新以後、学校が知識を得て立身出世するための踏み台となってしまった。学校の役割、使命はそこにはない。学校とは「真の人間」なるための場所である。それを思い出さねばならない。」と述べている。彼が現代の教育現場をみれば、いかに語るであろうか。

 

平井乃梅、神戸における小児医療の生い立ちを訪ねて

第10回神戸大学ホームカミングデー シスメクスホール 2015.10.31.

大学病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺の庭園に建立されていた「平井乃梅」の記念碑が、お寺の全面改修に伴って庭の片隅に無残の放置されているのを昨年6月に目撃された寺島俊雄教授が心を痛め、それを伝え聞いた神緑会メンバーが立ち上がり、本学の敷地に移設する計画が持ち上がった。
私自身は、平成22年7月の日本小児科学会兵庫県地方会の250回記念大会の講演の中で、日本小児科学会兵庫県地方会のルーツについて調べていたところ、長澤亘(ながさわわたる)先生が明治36年 (1903) 11月に兵庫県地方会を全国で4番目に設立されたこと、地方会の運営に平井毓太郎先生から多大な指導、支援を受けていたことを、長澤亘の門下生が編集した「八十八歳夢物語」の中で知った。

平井毓太郎と長澤亘の出会い 日本小児科学会兵庫県地方会の設立

兵庫県小児科地方会を立ち上げたものの、初期には会員も少なく、名士の後援なくしては永続できぬと考えた長澤が、明治37年2月の第二回地方会に京大教授の毓太郎に学術講演を頼んだのがきっかけである。以後毓太郎は退官まで約23年間、毎回この地方会に出席して講話、講師の斡旋などの尽力を惜しまなかった。京大定年退官後も、下山手通5丁目にあった長澤小児科病院の知新堂で開業医の為の神戸雑誌会を毎月一回催し、国内外の最新の文献を紹介し、その評判は大変高く、小児科以外の医師も多数出席していたとのことである。
平井は、昭和20年1月12日に満79歳で死去したが、その前月まで17年間継続して休むことがなかった。これらの講義は全くの無報酬で行われており、学術上の行為に報酬を受けるべきではないというのが毓太郎の頑固なまでのポリシーの一つであった。

「平井乃梅」建碑の趣旨並に祭詞

このような結びつきからその恩義を深く感じた長澤は、毓太郎を恩師として限りなく敬慕し、40年有余年の長きにわたって変わることなく、常に門下生としての誠と礼を尽くした。平井の死後5年目の命日にあたる昭和25年1月12日に「平井乃梅」を建碑し、その趣旨並に祭詞が、長澤の自伝に以下の通り記されている。
「故平井毓太郎先生は吾が日本小児科学会兵庫県地方会創立以来約30年、以て神戸雑誌講話会に17年合わせて47年の久しきに亘り御来神下され、吾が神戸地方の会員を御教訓御指導賜りたることは誠に感謝感謝に堪えざるところにして其御功績実に偉大なりと云う可し。今回、令嗣平井金三郎先生並に京大小児科教授服部峻治郎先生の御厚意により、恩師の御遺髪を御分与賜りたれば有志相計りこの碑を建立し之を碑内に納め祭り、記念として梅樹を植え、名づけて「平井乃梅」と云ふ。以て恩師の御懿徳(いとく)を偲び永く後世に伝えんとす。乞ふ希くば英霊来り享けよ。日本小児科学会兵庫県地方会 代表 長澤 亘」(八十八歳夢物語、84頁)
そこには、当日来会者として、是枝、伊坂、高木、大石、岡田、島田、舟木、湊川、平田、人見、福田、原口、長澤、吉馴、関、村瀬、尾崎、田川、山川、厚見、鈴木、高橋、長澤信一郎の名前も記されており、私が知っている大学関係者として、鈴木靕教授、平田美穂教授、伊坂正助教授らの名がみられる。
また、碑の裏面には「醫聖 故平井毓太郎先生御遺髪納置 昭和24年11月11日 日本小児科学会兵庫県地方会有志代表、日本小児科学会、兵庫県医師会名誉会員 長澤 亘」と記銘されている。

平井毓太郎は関西における小児科学の草分け

平井毓太郎は、慶応元年(1865)10月11日、三重県で出生し、明治22年(1889) に東京帝国大学医科卒業し、明治27年(1894)に京都府立医学校(現京都府立医科大学)教諭に着任した。ドイツ留学ののち、明治35年(1902) に京都帝国大学医科小児科初代教授に就任した。東京帝国大学ではベルツ博士に師事し、ベルツ博士の代診を命じられるほど信頼を置かれていた平井毓太郎が、京大教授に就任したのを知った恩師のベルツは、これで関西の小児科は安泰だと話したという。

「所謂脳膜炎」と平井毓太郎

平井毓太郎の学問上での最大の業績は、「授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因は、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見」したことである。大正8〜13年の6年間に京大小児科に入院した1歳以下の児の総死亡492例中72例(14.6%)が所謂脳膜炎で死亡しており、その原因が不明なことから大いなる恐怖であった。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を欠かさなかった平井毓太郎は、当時すでに発表されていた文献的考察から鉛中毒説のヒントを得た。明治38年に、高州謙一郎は「所謂脳膜炎で塩基嗜好顆粒赤血球の出現」を報告したが、鉛中毒と結びつけることができなかった。平井毓太郎は、内科の本に書かれていた鉛中毒患者の他覚的症状である「血液中に塩基嗜好顆粒赤血球の出現」のほか、「亜黄疸」、「ヘマトポルフィリン尿」、「歯齦の鉛縁(ブライザウム)」などの鉛中毒の症状も所謂脳膜炎の乳児で見られたことから、「仮称所謂脳膜炎ハ慢性鉛中毒症ナリ」という論文を日本小児科学会雑誌に大正13年(1924) 発表し、乳児をもつ母親は含鉛白粉を使わないように警告を発し、その後の脳膜炎発症を食い止めることができた。さらに、平井毓太郎は、死亡患児の全身諸臓器、生体試料中の鉛濃度の定量を行い、自らの手で鉛中毒説を確固たるものにした。
「所謂脳膜炎」は、東大小児科弘田長博士により明治34年にはじめて記載されていた病名である。関東でも、明治27〜28年頃に多数観察されていたが、明治36年に勧業博覧会を機に白粉製造業者が鉛白粉の危険を宣伝した結果、一般に無鉛白粉が普及し、関東では見られなくなったことから、乳児の「所謂脳膜炎」と鉛中毒の因果関係を明らかにするに至らなかったようである。ところが、関東以外の地域では含鉛白粉が廉価であり、またなんの規制もなかったことから、その後20年間も使い続けられ、大きな被害をもたらした。
我が国の鉛中毒の研究の第一人者である大阪市立大学の堀口俊一名誉教授は、本学西尾久英教授らとの共著で、「「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡」を雑誌「労働科学」に連載しており、今日とは違い生体中の鉛含量の測定が極めて困難な中で、粉骨砕身の努力により極めて適切な結果を得ていたと絶賛されている。

定年退官後は神戸雑誌会と京都雑誌会を主宰

定年退官後の昭和4年 (1929) から、当初は自宅で京都の小児科医を集め、京都でも月に一度雑誌講話会を開催されていた。その模様については、平井毓太郎の孫にあたる平井和三氏が、「藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち」の書に詳しく書かれている。その中で、小児科医松田道雄氏の父親が平井毓太郎教授在任中に直接薫陶を受けていたが、世代のちがう松田道雄が退官後の毓太郎の雑誌会に自ら参加しており、その様子を「晩年の平井毓太郎先生」と題したエッセイにとどめている。
「第二の木曜日の夜の七時近くになると、わたしたちは医師会館へ急いだ。先生は、いつも、定刻の前に教室に着くように来られた。ポケットに歩度計を入れて、毎日二里歩くことを日課にされていた先生も、この日だけは電車に乗られた。先生の大きな皮かばんには、その夜に抄読される医学雑誌が掛け金もはずれるほど詰まっていて、重かったからである」と。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさず、その成果を月に一度の京都と神戸の小児科医への講義に反映させようとした毓太郎の医学者としての姿勢には感服させられる。平井毓太郎の蔵書を集めた「平井文庫」は、終戦後各所を移転したが、現在は福井医科大学図書館に保管されているとのことである。

最後に
「平井乃梅」の記念碑を通じて、明治初期から中期にかけての関西における西洋医学のはじまり、とくに小児科学の発展の歴史をつくった平井毓太郎と、兵庫県での小児医学の発展の歴史をつくった長澤亘の二人の業績を知ることができた。明治人ふたりの医学の道における熱い開拓者魂をお伝えできていれば幸いである。

参考資料

  1. 寺島俊雄著. 平井毓太郎先生記念碑「平井乃梅」の今. 「神戸 まち角の解剖学」興文社(神戸)平成28年3月発刊(予定)
  2. 長和会編. 八十八歳夢物語 1953年12月発行 大石康男先生ご蔵書
  3. 平井和三編著. 藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち 2000年11月発行
  4. 堀口俊一、寺本恵子、西尾久英、林千代著. 「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡(1)平井毓太郎による究明まで. 労働科学 84巻2号62−71頁, 2008. その後9回にわたり連載されている。
  5. 北村晋吾著. 平井毓太郎伝. 1997年3月発行. 著者は毓太郎の郷里である三重県で小児科医院を開業されている。

2015.10