子どもの「ことばの遅れ」

先日、「クロノス」と「カイロス」の原稿を書くときの参考資料を探していると、イタリアの政治哲学者ジョルジュ・アガンベン著、「幼児期と歴史」―経験の破壊と歴史― という1冊の本に出くわしました。タイトルに惹かれて早速注文したところ、いきなりカントやヘンゲル、ベンヤミンやハイデッカーという名前が連なっています。これは間違って注文したと後悔していると、私にも理解できそうな興味ある文章に出くわしましたので、紹介します。

「言語活動」をもつのは人間だけ

「音声」は、苦痛と快楽のしるしであり、動物たちも所有しており、音声を通じて、互いに交信し合っています。
「音声」に対して、「言語活動」は都合の良いものと都合の悪いもの、また、正しいものと正しくないものとを表明しようとする媒体なのです。これは他の動物に比べて、人間だけがもつ特有の感覚であると、アリストテレスが「命題論」の「音声と言語活動」の一節に記述しています。

言語学的活動は、遺伝学的コードに文化的伝統を付け加えたもの

「自然」は遺伝学的コードを通じて伝達される相続財産であるのに対して、「文化」は遺伝学上のものではない媒体を通じて伝達される財産であると定義されます。

この面から考えると、言語学的活動は、遺伝学的コードに文化的伝統を付け加えたものであり、二重の遺伝によると特徴づけられます。鳥類の一部では、同種の個体の歌声を聴き取る可能性を早い時期に失ってしまうと、正常な歌声の一部分しか発することができません。

ヒトの子どもも、2歳から12歳の時期に言葉が実際に発せられている現場に身をさらしていなかったら、その子は言語活動を習得する可能性が決定的な危険にさらされます。この観点からすると、ヒトは言語活動を生まれつきもった動物ではなく、それを欠いており、外部から受け取らねばならない動物なのです。
子どもの言葉の遅れについて、今一度考え直す機会となりました。 2024.5.17.