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第1話 留学生第1号はシマブク先生
第2話 東南アジアの発展途上国との交流
第3話 周産期医学が国際交流センターの主題に
第4話 東南アジア各国から留学生が神戸に
第5話 留学生が神戸の研究を支えてくれた
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第1話 留学生第1号はシマブク先生
ある日、大学の事務から、ペルーのDr. Roberto Shimabuku(シマブク)が文部省の給費留学生として神戸大学の小児科を志望しているが、受けいれてよろしいかとの問い合わせがありました。
6つ子騒動も終わり、しばらくした頃です。新生児学が志望ということで、私がチューター役を引き受けることになりました。
彼が神戸に来てしばらくした時に、UBアナライザーの試作器が届き、一緒にデータ集めをしました。彼と連名で作成した「Total and unbound bilirubin determination using an automated peroxidase micromethod. Shimabuku R, Nakamura H. Kobe J Med Sci. 1982」は、私にとって思い出に残る代表的な論文です。
彼は、その名前からわかるように、日系3世のペルー人で、風貌は沖縄県人のようですが、スペイン語が母国語であり、日本語は辿々しく、英語もお互いにほどほど、時々イライラすることもありました。彼の方がもっと我慢に我慢を重ねていたように思います。
1952年生まれの彼は、お酒をよく嗜む方で、同世代の医師たちと居酒屋によく通っていました。
日本語もメキメキと上達し、数年後には同じ小児科医である奥様のG.Nakachi先生が神戸に来られ、村上龍助先生のもとで栄養学の研究をされました。
彼女は、来日前にはアメリカに留学されており、英語が大変堪能で、Roberto Shimabuku先生の英文論文が次々と仕上がっていきました。
彼は、1983年に学位論文を仕上げ、翌1984年に、母国ペルーのリマ大学Universidad Nacional Mayor de San Marcosの小児科に戻り、その後、教授に昇任しました。
日本とペルーとの国交130周年の2003年には、リマにお招きいただき、久方ぶりにご夫妻とお会いしました。 トップへ
第2話 東南アジアの発展途上国との交流
1979年に、医学研究国際交流センターが、ウイルス学の堀田進教授のご努力で医学部付属施設として設立され、そのプロジェクトは、東南アジアの発展途上国を対象にした熱帯感染症が中心でした。
センター発足当初から、臨床医学では周産期医学への現地からのニーズが大きく、また、大学の同期の森英樹君がこのプロジェクトに関係していたこともあり、私も誘われました。
岩井誠三先生や産婦人科の望月真人先生、森川肇先生らと一緒にインドネシア、シンガポール、フィリピンによく行きました。
ネパールの父と呼ばれていた岩村昇先生ともご一緒しました。
長年ネパールの山村で暮らした実績のある岩村先生曰く、「私の肝臓には、あらゆる寄生虫が住み着いているのですよ!」と誇らしく話され、選ばれる宿舎も蚊がブンブン飛び回るような安宿でした。 トップへ
第3話 周産期医学が国際交流センターの主題に
1982年からは、現地からの要請もあり、周産期医学が中心課題となりました。
ジャワ島の中央部にあるガジャマダ大学を中心に、インドネシア国との交流が活発化しました。
毎年、インドネシアからは、複数名の留学生が大学院生として神戸に来ていました。最初の留学生は、Dr. Achamad Surjonoで、私と一緒にアンバウンド・ビリルビンの研究を行い、神戸大学小児科からの医学博士号取得の外国人第1号となりました。
彼は、その後も度々日本を訪れ、日本の学会にも出席し、多くの日本人新生児研究者とも親しくなっていました。
新生児栄養学を専門にしている村上龍助先生は、留学生たちから大変人気がありました。スイスのバーゼル大学に留学していた彼の体験が、役立っていたように思います。
Dr. Dradjat Boedimanは、彼の論文指導により学位を取得しています。 トップへ
第4話 東南アジア各国から留学生が神戸に
1980年代も半ばに入ると、日本の新生児医療の進歩は海外でも知られるようになっており、国際交流センターと関係なく、文部省やJSPSなどの奨学金を取得して、東南アジア各国の留学生が神戸にやってきました。
因みに、私の教授在任中の学位取得者には、Sunartini Iman(児玉先生指導)、許大康(上谷先生指導)、劉亜梅(和田先生指導)、Purunomo Sryantoro(松尾先生指導)、Pokharel Rameshwar Prasad(高田先生指導)、黄守青(米谷先生指導)、朴金花、張愛華(吉川先生指導)の7名がおられます。
いずれの方々も、自国に戻り、教授職をはじめとするいろんな要職に就き、活躍しておられます。
これらの方以外に、元フィリッピン大学学長、国際小児科学会会長のPerla Santos-Ocampo小児科教授のもとで、当時小児科講師をされていたDr. Carmencita D. PadillaやDr. Cifraをはじめ、フィリピンからも留学生が多数来られています。
Dr. Padillaは、2014年からフィリッピン大学学長をされていました。
バングラデッシュやシンガポール、韓国、台湾からも来られていました。 トップへ
第5話 留学生が神戸の研究を支えてくれた
一緒に研究していた留学生のことを今改めて思い浮かべると、自分がパリ大学に留学していた当時と重なってきます。
パリ大学のラボであるのに、フランス語でなく、スペイン語が響き渡っていました。一時、神戸でも同じ現象が起こっていました。医局、研究室から聞こえてくるのは、ある時はインドネシア語であり、またある時は中国語です。英語が聞こえてくることはありませんでした。
全国的な小児科医不足の中で、彼ら留学生たちが神戸の小児科学研究を支えてくれていました。
彼らは、神戸の生活によく溶け込んでくれ、医局での宴会や、個別にもよく若手医師や看護師たちと三宮の繁華街に繰り出していました。
その後、国際交流を目的に講演を依頼され、彼らの母国に招かれて行きました。
ガジャマダ大学では毎年のように国際会議が開催され、新しいスタッフとご一緒するたびに、近くにあるボロブドール遺跡に行ったのを懐かしく思い出します。
私が定年を迎える頃には、これらの発展途上国といわれていた国々も飛躍的な発展を遂げており、日本との差を感じなくなりました。
私のパリ大学での経験が、少しでも彼らの役に立てていたならば幸いです。(2021.10.30) トップへ