第2章 医学部学生時代 激動の1960年代

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第1話 医学部学生時代
第2話 小児科に入局した頃 1965年
第3話 大学紛争の渦中で 1960年代後半

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第1話 医学部学生時代

私は、1958年に神戸医科大学の医学進学課程のある姫路工業大学に入学しました。

2回生の時には、日米安保反対の提灯デモが、姫路城の周りで連日繰り返されており、同級生数名と文化人団体の中に紛れて参加したことがあります。

1960年4月から、湊川神社の北にある神戸医科大学で医学を学び始めました。

医学部の授業は他学部とは違い、どの科目も実習時間が長く、1年生の時には1年間近く解剖実習を受けたように思います。実習に出席しなければ、単位が取れないので、慌ただしい4年間が夢のように過ぎました。

60年安保闘争とインターン制度廃止運動

1959年から1960年にかけて、日米安保条約の改定を巡って、学生の反対運動が全国的に広がったのが、60年安保闘争です。

6月15日には、全学連が、国会構内になだれ込むなど警官隊と激しく衝突し、学生・警官双方の重軽傷者は数百人にのぼりました。この衝突で東大生、樺美智子さんが死亡されました。

彼女は、私の中高ともに2年先輩であり、高校時代は自治会の役員もしておられ、われわれの憧れのマドンナでした。

当時は、学生運動が盛んで、私自身も、日米安保反対運動で米国領事館へのデモに参加し、学部3年になった頃にはインターン制度無用論が湧き上がり、しばしば集会を開いていました。

結局、われわれの学年は従前通りにインターンを済ませたのち、医師国家試験を受験しましたが、数年後には、激しいインターン・ボイコット運動の末、廃止されました。

卒業式の1週間前に、医学進学課程からのクラスメートの道子と結婚しました。披露宴はクラス会のようなものでした。

金婚式どころか、もうすぐ60年になります。道子が大きなお腹で、仰向けに寝て国家試験の勉強をしていたのが思い出されます。

無医村でのボランティア活動

課外活動で一番記憶に残っているのは、社医研でのボランティア活動です。毎年、夏休みには、兵庫県北部の鳥取県との境にある湯村温泉から、渓谷沿いに10数キロ登った人里離れた山深いところに、岸田地区という無医村がありました。

今から思えば卒後2、3年目の先輩医師をリーダーに、医学部学生や看護学生が10数名参加した、合宿生活です。

検診といっても、血液検査はまだ一般的でなく、尿検査、検便虫卵検査と血圧測定くらいだったと思います。

冬は雪深いところで、この地区は但馬牛の畜産農家が多く、大きな親牛が飼われていました。普段は訪れる人もないため、私たちは大変歓迎されていました。

国民皆保険、厚生省と日本医師会の抗争

国民全員が何らかの公的医療保険制度に加入する国民皆保険がスタートしたのが1961年4月です。世界的に見て日本が自慢できる国民皆保険制度は、日本医師会と厚生省(現厚生労働省)の激しい抗争の末にできたものです。

日本医師会は、国民皆保険の実施を前にして、診療報酬の引き上げや制限診療(保険診療で認められる診療行為の範囲を事前に決めること)の撤廃を強く主張、自らの主張を通すため、保険診療のボイコットに相当する「保険医総辞退」や、都心での集会を行っていました。

当時の日本医師会は、医師の団体ではありますが、国民の健康・医療を守る責任のすべては医師にあるという強い使命感を持っていたように思います。

ポリオの流行と生ワクチン

ポリオウイルスは、脊髄の運動神経細胞への親和性が高く、子どもの身体に重大な障害やマヒを起こす疾患で、その後遺症を持ち続けている方は、今日でもたくさんおられます。

学生時代にポリクリ実習で内科の病棟に行くと、ポリオウイルスが原因で呼吸筋が麻痺し、自立呼吸ができなくなり、「鉄の肺 (陰圧式人工呼吸器)」の助けで、生活されている患者さんがおられました。

ポリオは、世界中で流行しており、日本でも、1960年には、北海道を中心に5,000名以上の患者が発生する大流行があり、大きな社会問題となっていました。

日本では、注射用のソークワクチンの国内生産が追い付かず、輸入も不十分だったため、深刻なワクチン不足が発生し、各地でワクチンの奪い合い騒動が起きました。

国民の声に後押しされて、厚生省は、1961年にソ連から生ポリオワクチンを緊急輸入し、一斉に投与することにより、流行は急速に終息したという歴史があります。

60年後のいま再び、新型コロナ流行対策でも、諸外国に比べてワクチン接種での対応の遅れがみられるのは日本人の性癖でしょうか。 トップへ

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第2話 小児科に入局した頃 1965年

なぜ、小児科医を目指したか

私は、小児科医院を開業していた母親に育てられ、叔父と従兄も小児科医だったので、小さい頃から小児科医は人の役に立つ、やりがいのある仕事と感じていました。

中学生の頃には、多くの友人たちは、医師の家系にある私が「小児科医」になるものと決めつけており、私もその気になっていたようです。

学生時代のポリクリ(臨床実習)では、小児病棟が日当たりの良い最上階に位置していたこともありますが、他の病棟では見られない明るい光がいつも差し込んでいるように感じました。

病める子たちに接している看護師さんをはじめとするスタッフの立ち居振る舞いがそうさせていたのでしょう。

私が神戸医科大学を卒業したのが昭和39年(1964年)で、東京オリンピックの年です。1年間の神戸医大附属病院でのインターンを済ませ、医師国家試験にも合格し、医局から特段の勧誘を受けることもなく、当然のように平田美穂教授の小児科の門を叩いていました。

初顔合わせでは、何と大学の同級生が6名も集まっていました。 

いろんな伝染病が流行っていた

私が入局した1965年当時は、毎年、冬には麻疹が大流行しており、初めて麻疹患者の口内を診たときの粘膜の異様な発赤、コップリック班は、あまりにも教科書通りで印象的でした。

我が国では、1966年にKL法(不活化ワクチンと生ワクチンの併用)による麻しんワクチン接種が開始されました。

当時の生ワクチンは、副反応が強く、その反応を軽減する目的で不活化ワクチンとの併用で実施されていましたが、異型麻疹等の問題がありました。

1969年からは新たに開発された高度弱毒生ワクチンに切り替えられました。

つぎつぎと各種感染症に対するワクチンが開発され、入局年度が1年違うだけで、感染症に対する臨床体験がかなり異なっています。

下痢・脱水で乳幼児が死亡

夏には、法定伝染病の赤痢や腸チフス(サルモネラ症)の流行もありました。毎年流行するのは特定の地域の病院で、大学から交代で応援出張に駆けつけていました。

秋も終わりに近づくと、乳幼児で激しい下痢を伴う冬季白色便下痢症,白痢が毎年流行していました。

コレラ便に似た米のとぎ汁様の白っぽい下痢便を出すので、小児仮性コレラとも呼ばれ、激しい脱水を伴い、救急室で死亡する例もありました。その後、その原因がロタウイルスによる下痢症と判明しました。

入局当時は、輸液といえば、大腿四頭筋に太い針を挿入し、泣き叫ぶ子を押さえつけながら、「大量皮下注射」するのが主流でした。その後、静脈切開や手作りの留置針で試行錯誤しながら、静脈確保を試みるようになりました。

これらの感染症は、1970年代に入ると、あっという間に見られなくなりました。井戸水が水道水になり、下水道の整備が進んだからです。 トップへ

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第3話 大学紛争の渦中で 1960年代後半 

1960年代後半には、学生によるベトナム戦争への反戦運動が、フランスを発端に世界中で展開されており、大学以外でも市民によるさまざまな反体制運動で盛り上がっていました。

こうした時代にあって、東京大学では1968年1月末に大学本部のある安田講堂を学生が占拠し、警察機動隊が本郷キャンパスに突入するという大学紛争となり、全国の大学に飛び火しました。

医学部にはインターン制度廃止を訴える全国医学生連合(医学連、のちに青医連)があり、さらには無給医制度という時代遅れの体制が残っていたことが紛争の火種となりました。

「ゲバラの日記」と「都市の論理」

1960年代は、科学技術の進歩により、いずれの国も大きな経済的発展を遂げ、物質的には豊かな社会にはなりましたが、格差社会が露わになったのが、世界中を巻き込んだ学生運動の背景にあったようです。

当時の学生運動家によく読まれていた本が、カストロとともに、キューバ革命の立役者の一人であったチェ・ゲバラの「ゲバラの日記」と羽仁五郎の「都市の論理」です。

「都市の論理」では、社会改革を実現するには、まずこれまでの家族関係そのものの否定が不可欠だとの主張されていました。

「小児科無給医会」を結成

全国の医学部では、学生を中心に、若手医師をも巻き込んで、研修医制度を巡って教授会と対立し、無期限ストライキなど、学生と大学との対立状態が続きました。

私たちの小児科医局でも、全国的な動きに呼応して、39年卒と40年卒を中心に「小児科無給医会」を結成し、「無給医制度の廃止」と「学問と研究の自由の保証」を旗印に、当時の教授平田美穂先生を中心とした「小児科教官会議」と対峙していました。

全国的な大学紛争は、その後も数年続きましたが、昨日まで同じ釜の飯を食っていた先輩、後輩の気まずい対立は、長くは続きませんでした。

当初、私は先頭に立って医局解体を叫んでいた一人でしたが、もう30歳近くなり、妻や3人の子どもがいる身、徹底的に改革を目指して踏ん張るだけの意欲を持ち合わせていないことに気づきました。

40年卒の根岸先生が同門会誌に松尾保名誉教授への追悼文に触れられているように、我々に直接研究指導を行って下さった松尾保先生をはじめ、多くの先輩の先生を困らせ、申し訳なく思っています。

大学を離れることに

私自身は、大学医局内に居り場がなくなり、新しくできた明舞団地の病院に一人勤務することになりました。連日100名以上の患者が押し寄せてきましたが、人手のなくなった大学医局に応援を頼むこともできず、黙々と働いた日々でした。

ある日、大学の助教授をしていた従兄から、「おまえは米国領事館へのデモに参加していたから、アメリカ留学は無理だろう。フランスのパリ大学はどうか?」という助言がありました。

かねてより、外国留学を夢見ていましたので、早速フランス語の勉強を始めました。三宮にあるフランス語教室に通い、ラジオ・テレビのフランス語講座を聴き、何とか年末に行われる「フランス政府給費留学生」試験に合格し、翌年4月に渡仏することになりました。   トップへ