私は、この50年間新生児医療に関わりを持ち続けながら生きてきた。楽しかったこと、辛かったこと、いろんな方々との出会いを振り返っていると、今もまた、50年前と同じように大きく激動する時代を迎えようとしている気がしてならない。
1. 昭和50年代は新生児医療のベル・エポック
3年間のパリ大学医学部新生児センターへの留学の後、母校神戸大学医学部小児科の助手として昭和47年秋に帰国した。パリ大学のNICUには、RDSの治療にレスピレーターがところ狭ましと並んでいたが、日本では未だ輸液療法が中心で、日本と欧米との新生児医療水準の差に愕然とした。
帰国後間もなく、日本の小児麻酔の草分けである岩井誠三先生が国立小児病院から神戸大学の教授に赴任してこられたことが私にとって幸いだった。岩井先生のお陰で、人工呼吸器ベビーバードをはじめ、欧米から取り寄せられた最新の医療機器が、業者の手で新生児室に次々と持ち込まれてきた。
A. 相次ぐ多胎児の誕生
未熟児医療が広く世間に知られるようになったのは、1976年1月の鹿児島市立病院での5つ子誕生ではないかと思う。馬場一雄先生や山内逸郎先生ら日本の新生児学のスペシャリストが総力を挙げ、全員元気に退院したという報道があったからだ。
同年9月には、神戸で6つ子が誕生し、これも連日大きく報道された。一人は死産で、後の5人は900gに満たない超早産低出生体重児、いずれも重度の呼吸障害があり、レスピレーターを必要とした。なんとか620gで生まれた女児ひとりだけが無事退院することができ、ほっとした。
この子は、その後2年間ほど最軽量の出生体重児としての世界記録を保持していた。何よりも嬉しいのはこの子が成人し、結婚式に参列できたこと、元気な正期産児を出産したという報を頂いたことである。新生児科医としての最高の幸せを体感させてもらった。
B. 新生児医療が近代医療のトップランナーに
新生児医療がマスコミで取り上げられるようにはなったが、「私は新生児科医です。」と自己紹介すると、「ああ先生は産婦人科医ですか。」という答えが返ってきた。昭和50年代の前半には、医療関係者でさえ、小児科医の中においても、まだまだ「新生児科医」は定着していなかった。
しかし、この昭和50年代の10年間には、人工呼吸器、各種モニター、新しいカテーテル・カニューレなどが次々と生まれ、まさに日進月歩、あっという間に欧米の医療技術水準に追いつく夢のような時代であった。この時代の先導役が、米国留学から帰国した気鋭の新生科医、名古屋市大の小川雄之亮であり、北里大学の仁志田博司たちであった。
栄養チューブや輸液療法のカテーテル、翼状針などは、新生児室発の新しい医療材料であり、呼吸循環モニター機器類を最初に臨床現場に持ち込んだのは新生児科医と麻酔科医だった。日々自らが実践している医療行為は、全て斬新なものであり、価値ある研究論文として評価された。新生児医療は、一躍近代医療のトップランナーに躍り出て、多くの若い医学徒たちがNICUを志望したのもこの時代だった。
2. 日本の新生児医療が欧米に追いついたと実感したとき
A. 米国小児科学会でアンバウンドビリルビン測定法を発表
国立岡山病院の山内逸郎先生から米国小児科学会事務総長をされていたAudrey K. Brown教授を紹介して頂き、ペルオキシダーゼを用いた新しいアンバウンドビリルビン測定法を1984年(昭和60年)春の米国小児科学会で発表する機会を得ることができた。今日では毎年、日本からも数多くの演題が発表されているが、当時は現地に留学中のごく少数の日本人に会うぐらいで、日本からの演題は極めて限られていた。国立岡山病院の山内芳忠先生も山内逸郎先生とご一緒に、Brown教授の推薦で「ミノルタ経皮的黄疸測定器」について前年に発表しておられた。
この渡米は、私にとって生まれて初めてのものであり、英会話もあまり堪能でなかったので、予行演習を兼ねて学会の開催される3週間ほど前に渡米し、Brown教授のおられるニューヨーク州立大学を初め、ペンシルバニア大学のJohnson教授、スタンフォード大学のStevenson博士らの米国における新生児黄疸研究の第一人者の教室を訪ね、講演する機会を設けてもらった。そのときは大変緊張したが、この体験がのちに私の大きな自信につながった。
B. 人工肺サーファクタントTA (PSF) の臨床試験
日本の新生児医療水準を一気に世界のトップレベルまで引き上げたのは、岩手医大の藤原哲郎教授の開発された「人工肺サーファクタントTA(PSF)」だ。米国小児科学会での藤原教授の発表は聴衆の方々に大きな感動を与えた。
私は、日本におけるPSFの多施設共同臨床試験の世話人の一人に指名された。臨床試験は、いまでは当たり前のようになっている二重盲検試験だった。このPSFの臨床試験では、試験群なら投与後10分もしないうちにtcPO2が急上昇するので、誰の目にもはっきりと判るものだった。プラセボ群のくじを引くと、じっと我慢しなければならない残酷さは臨床医として本当に辛いものであった。
でも、この臨床試験をルール違反や欠測値を最小限に抑えて成功できたのは、本剤の1日も早い臨床使用を夢見ていた全国の新生児科医が、心を一つにして参加したことにあったと思う。この経験が、我が国の新生児医療水準を一気に向上させ、また施設間の連携を強化させ、世界最高レベルの新生児死亡率へと押し上げた。
3. いま選ぶとしても新生児科医
21世紀は、AI・ロボット時代である。医療がAI・ロボットでどのように変わっていくかは興味深い。一番にAI・ロボットに取って代わられるのが、五感を使って判断する診断技術、とくにこれまで専門医が一手に引き受けていた分野、それと医療事務処理と言われている。直接患者さんの感性に働きかける看護業務や介助業務はAI・ロボットでの肩代わりは後回しになりそうだ。
小児科領域では、先天異常や感染症・がんの診断は、これまでの情報量も多く、AI・ロボットが主役になりそうだ。でも、治療になると患者さんの個別性が大きく、小児科医の人間性が役立ちそうだ。いま、ワクチンの充実で子どもの感染症は少なくなったが、発達障害や心の問題は、AI・ロボットだけでは対応できない大きな課題となろう。
私の世代が昭和50年代に新しい医療機器類で体験したワクワク感と同じ、否それ以上の期待感でいっぱいだ。人生の出発点に立ち会う新生児科医が、新生児とAI・ロボットとの接し方の道筋を決める重大な役割を担う日もそう遠くはない。
新生児センターや保育所・幼稚園・学校でも、人間とロボットとの共同作業が始まると、どんな子に育っていくのだろうか? 人間だけで育てている今以上に、あたたかい、思いやりの心を持った大人に育っていくような気もしないではない。 2018.12
中村 肇 神戸大学名誉教授 小児科臨床「リレー随想」より、Vol.72 No.1, 2019 pp46-48