阪神淡路大震災の当日に思ったこと

若葉「名誉教授からの一言」2017

阪神淡路大震災から20年ということで、大々的に報道されていますが、私個人の心情としては、もう二度とあのような地震を経験したくありませんし、正直なところ当時のあの情けない映像はもう見たくないという思いです。でも、あの地震を知らない子どもたちが成人式を迎えることになりますので、幸運にも一命をとりとめたことに感謝しつつ、私自身の記憶を頼りに、震災当日のことをお話ししましょう。

突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞う

地震発生が午前5時47分という早朝で、6時起床を予定していた私は、微睡みながら、まだ布団の中にいたことが幸いしました。突然の激動、轟音とともに、身体が宙を舞い、床に叩きつけられることの繰り返し、背を丸くし、じっと耐え忍ぶだけ、哀れなものでした。揺れも漸く治まりかけた時に、隣で寝ているはずの妻に声をかけても返事がありません。真っ暗闇の中、辺りの様子が全く分からず、不安に思い、もう一度「お前、大丈夫か」と声高に叫ぶと、ようやく「すごかったね」というか細い声に安堵しました。

頭の中はもう真っ白に

幸いにも、北海道へ流氷を見に行く予定にしていた妻は、枕元にスノーブーツを置いていたので、自由に動き回ることができ、私の靴も瓦礫の中から探し出してくれました。パジャマの上に手当たり次第に重ね着し、玄関までたどり着くのも大変だなと思っていたら、寝室の窓枠が吹っ飛び、塀も倒れていたので、何の苦労もなくすぐに建物から脱出することができました。近隣の倒壊した建物中に閉じ込められている人々の救出の手伝いをし、一段落したところで、国道2号線のガードレールに腰を落とし、頭の中はもう真っ白な状態でした。

六甲山が隆起したのもわかる気が

辺りがようやく白み始めると、ふだんは建物で見えないはずの六甲の山並みが、眼前に迫ってきました。六甲山頂は今回の地震で12cmほど高くなったそうです。六甲山は1回の地震で数10cmずつ隆起し、それを何千回も繰り返し、100万年かけて今の高さ約千メートルの高さになったということです。私は、自然界の営みのほんの一瞬に出くわしただけですが、山の隆起については十分に納得です。

入院患者さんたちは全員無事でした

いち早く見舞いに駆けつけてくれたのが、三里さん姉妹です。三里さんから車を拝借して、大学にたどり着いたのが昼過ぎでした。10階にある小児病棟はかなり損壊していましたが、入院患者さんたちは全員無事であったとの報告を、当日当直であった飯島先生、母子センター芳本先生から受け、安堵しました。最も危なかったのが、医局のソファーで寝ており、本の下敷きになるのを免れた飯島先生でした。

神戸大空襲時さながらに

震災当日夜、6階にある医局の窓から外を眺めていると、四方八方から炎が燃え上がり、すぐ近くの荒田町まで炎が押し寄せていました。一晩中夜空を焦がしていたその光景は、朧げながら脳裏の片隅にあった太平洋戦争での神戸空襲時を思い起こさせるものでした。

ボスニアの人々に比べたら

その後も、震度3〜4の余震が絶え間なく起こってはいましたが、本震以上の強い地震はないということで、さほどの不安感はありませんでした。当時は、ボスニア紛争の真っただ中でした。3年半以上にわたる戦闘が全土で繰り広げられ、死者20万人、難民・避難民200万人以上の大変悲惨な戦争です。爆撃に怯える市民の様子が、連日新聞・テレビで報じられていました。真っ赤に染まった夜空を見上げながら、終わりの見えない戦争に比べると、1回きりの震災の方がまだマシかと、自分を慰めていました。

同門の先生の中に被災された方はたくさんおられましたが、命を落とされた方が一人もおられなかったことは、不幸中の幸いでした。この先、数十年、数百年後には、必ずまた遭遇するでしょう。震災は一瞬の出来事です。できることは、一人一人が自らの生活空間の安全性をふだんから熟知しておくことです。震災は、命さえ守れれば、戦争と違い、翌日から怯えることなく立ち直れるのです。

2015年1月17日記

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