ChatGPTによる「端午の節句の由来」

コロナ5類移行というニュースもあり、これまでの不自由な生活から一気に解放された感があります。
今朝から、孫娘の女子中学校の文化祭の見学に出かけました。久方ぶりの外出です。まだ大半の生徒はマスクをしていますが、明るく、元気な彼女らの声が響き渡る教室に入ると、長らく感じることのなかった生命の躍動、明るい未来を感じさせてくれます。
学校に向かう道中、真っ青に晴れ上がった五月の大空に、鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいました。5月5日は、戦前は「端午の節句」、1948年の祝日法公布によって制定された「こどもの日」です。

ChatGPTによる「端午の節句の由来」

AIによる文章化ソフトChatGPTは、世界中で大きな話題になっています。私も試しに、「端午の節句の由来」について問いかけてみました。数秒もしないうちに下記の答えが返ってきました。

A:
「端午の節句の由来は、中国の伝統的な行事である「端午節(端午の日)」にさかのぼります。
伝説によれば、中国の古代には、江河の魔物である「龍」と「魚」が人々を苦しめていました。そこで、ある時、名剣「草薙の剣(そうなぎのつるぎ)」を持った英雄・呂布が龍を討ち、魚は「艾草(がいそう)」と「菖蒲(しょうぶ)」を入れた「ちまき」で退治することに成功しました。この出来事が、「龍を退治し、災いを祓う」という意味から、端午節の由来となったとされています。
また、別の説によれば、端午節は中国の詩人である屈原(くつげん)を偲んで行われる祭りとされています。屈原は、自分の故郷を追われ、悲惨な最期を迎えたことから、彼を偲び、追悼するために、端午節が行われるようになったとされています。
日本においては、中国から伝わった端午節が、やがて「端午の節句」として定着し、家族の健康や子供たちの成長を願う行事となりました。」以上原文通り。

この回答では、日本での歴史についての記載が少なく、中国での由来を中心に記されています。ChatGPTの情報の中には、日本語よりも中国語での情報が多く含まれているのかもしれません。とはいえ、立派な文章には恐れ入ります。
2023.5.3.

うれしい後輩とのつながり

先日、後輩の医師岩谷壮太君が、米国の一流医学雑誌Pediatric Researchに掲載された論文を持って、自宅までわざわざ訪ねてきてくれました。

彼と私の出会いは、自分が後期高齢者となり、自由な時間ができ、ブラブラしていたときです。神戸大学の森岡一朗特任教授(現日本大学教授)から新生児黄疸研究グループへの誘いを受け、その時のパートナーに指名いただいたのが彼だったのです。

一度は消えた核黄疸が、いま再び問題に

1970年代には、赤ちゃんの重症黄疸は脳障害(核黄疸)を引き起こし、死亡・脳性麻痺の主要な原因でした。1982年に、私は核黄疸予知のためのUB測定用臨床検査機器(UBアナライザー)を、アローズ社生越義昌社長との共同開発に成功しました。広く実用化され、医療技術の進歩と相まって、核黄疸は激減したのです。
その後30年余り、核黄疸は日常診療現場で滅多に見られなくなり、若い新生児科医の間では過去の病気として、関心が薄れていました。

21世紀に入ると、新生児医療の進歩とともに、千グラム未満で出生した小さな超低出生体重児の生存率が著しく上昇しました。これまでのような成熟児ではなく、小さな未熟児において核黄疸の発生を耳にするようになったのです。

なぜ、再び私が研究室に戻ったか

開発時からすでに30年を経過し、UBアナライザーも限界かと不安になった時もありましたが、UBアナライザーで厳格に黄疸管理をしていた神戸大学では、核黄疸の発生がないことが分かり安堵したのを思い出します。

神戸大学の森岡グループが、超低体重出生児の黄疸管理の研究を再開したところへ、私も参加させて頂いたのです。私たちは、過去20年間、広く全国の医療施設で使用されていた神戸大学の治療基準の見直しにかかりました。多くの医療施設の協力を得て、2年足らずで、改訂版を作成することができました。

後輩への技の伝承

UBの測定原理は、多少難解なところがあります。UBアナライザーから打ち出されてくるデータの数字を利用できても、その原理を理解している新生児科医は限られていました。

私の研究室復帰の真の狙いは、UB測定原理を後進に伝承することです。白羽の矢を立てたのが岩谷壮太君でした。測定試薬作りから一緒に始め、ほぼ1年をかけて彼にすべて伝授することができました。

今回の彼の論文は、超低体重出生児の核黄疸予防に、UB測定の重要性を世に示したものです。多くの子どもたちが救われるに違いありません。素晴らしい後継者の誕生です。

生越義昌氏、仁志田博司氏へ捧げる

UBアナライザー開発者の生越義昌氏、UBアナライザーの普及啓発にご尽力いただいた仁志田博司氏が、最近相次いで他界され、心細い限りです。心より御冥福をお祈りするとともに、この論文を捧げたいと思います。

2023.04.16.

にこにこハウス開設20周年を迎えて

にこにこ医療福祉センターが開設後20周年を迎えたことは感激の至りです。

2002年の開設時には、私は神戸大学小児科で新生児医療に関わっており、母子センターで出生した重症心身障害児がお世話になることのできる場が神戸市内に初めて開設され、ご家族の方と一緒に喜んだことを思い出します。

開設されたのは、阪神淡路大震災後7年目で、財政逼迫した神戸市に代わり、古田加代子氏の障害児療育への熱い思いから実現したものです。2017年からは、古田耕司理事長の後任として、当センターの運営に直接関わる機会が与えられ、これまでの恩返しと喜んで引き受けました。

実際に現場に入ってみて、職員の人たちが実に明るく、生き生きと障害児・者に接している姿を目の当たりにし、私は大いに勇気づけられました。と同時に、障害児施設を運営することの難しさを知ることになりました。

入所型の重症心身障害児施設として発足した当センターは、平成24年4月から18歳までの重症心身障害児を受け入れる児童福祉法に依拠する医療型障害児入所施設として、また18歳以上の重症心身障害者に対する療養介護支援を行う障害者総合支援法に基づく事業所として一体的に運営することになりました。

この間、入所していた児童は成人に達し、適切な医療、看護、リハビリテーション、生活環境などで 60歳以上に達する方も増えています。さらに、重症心身障害児の家庭での養育を支える仕組みとして、訪問診療・看護・学校教育や短期入所などの障害児・者支援も充実してきました。

当センターでは、重症心身障害児・者の入所事業だけでなく、生活介護や児童発達支援事業・放課後等デイサービスなどの在宅支援事業と幅広く展開しています。2022年4月には神戸医療福祉センター「ひだまり」を、入所50名、短期入所6名の定員で中央区に開設することになり、これまで入所を希望されていた神戸市在住の重症心身障害児の受け入れ状況は、かなり改善されると考えています。

ポストコロナ社会においては、DX化とともに、障害を理由とする差別の解消に向けての取り組みが求められています。新しくできるセンターはアクセスも良く、地域住民との交流を深め、よりよく理解し合える場になればと願っています。

2022年1月

<参考資料> 医療型障害児入所施設の役割と課題について

平成24年4月から、旧来の重症心身障害児施設は18歳までの重症心身障害児を受け入れる児童福祉法に依拠する医療型障害児入所施設と、18歳以上の重症心身障害者に対する (病院において行われる) 療養介護支援を行う障害者総合支援法に基づく事業所に分かれることになりました。

医療型障害児入所施設と療養介護支援の一体運用

当センターのような、旧来の重症心身障害児施設のほとんどは、新制度になっても医療型障害児入所施設と療養介護支援の一体運用として、発達支援機能と自立支援機能の両方の支援を一体となって行なっています。

昭和42年に児童福祉法が改正され、重症心身障害児施設が法制化された時に、例外的に18歳を過ぎても施設入所を継続できる、あるいは施設入所ができるとされました。 しかし その後50年の間に状況は変化おり、今日では、開設時に入所していた児童は 成人に達し さらに、適切な医療・看護・リハビリテーション、生活環境などにより、高齢化が一層進んでいます。

一方、家庭での養育を支える仕組みも充実し、訪問診療・看護、学校教育、短期入所なども拡大してきたことから、小児期から施設入所を希望する家庭が減少し、旧来の重症心身障害児施設では、成人の割合が小児をはるかに上回るようになりました(当にこにこにこにこハウス医療福祉センター年報2021/3/31より)。

年齢層別にみた入所児・者数

第2章 医学部学生時代 激動の1960年代

トップ画面へ
第1話 医学部学生時代
第2話 小児科に入局した頃 1965年
第3話 大学紛争の渦中で 1960年代後半

1


第1話 医学部学生時代

私は、1958年に神戸医科大学の医学進学課程のある姫路工業大学に入学しました。

2回生の時には、日米安保反対の提灯デモが、姫路城の周りで連日繰り返されており、同級生数名と文化人団体の中に紛れて参加したことがあります。

1960年4月から、湊川神社の北にある神戸医科大学で医学を学び始めました。

医学部の授業は他学部とは違い、どの科目も実習時間が長く、1年生の時には1年間近く解剖実習を受けたように思います。実習に出席しなければ、単位が取れないので、慌ただしい4年間が夢のように過ぎました。

60年安保闘争とインターン制度廃止運動

1959年から1960年にかけて、日米安保条約の改定を巡って、学生の反対運動が全国的に広がったのが、60年安保闘争です。

6月15日には、全学連が、国会構内になだれ込むなど警官隊と激しく衝突し、学生・警官双方の重軽傷者は数百人にのぼりました。この衝突で東大生、樺美智子さんが死亡されました。

彼女は、私の中高ともに2年先輩であり、高校時代は自治会の役員もしておられ、われわれの憧れのマドンナでした。

当時は、学生運動が盛んで、私自身も、日米安保反対運動で米国領事館へのデモに参加し、学部3年になった頃にはインターン制度無用論が湧き上がり、しばしば集会を開いていました。

結局、われわれの学年は従前通りにインターンを済ませたのち、医師国家試験を受験しましたが、数年後には、激しいインターン・ボイコット運動の末、廃止されました。

卒業式の1週間前に、医学進学課程からのクラスメートの道子と結婚しました。披露宴はクラス会のようなものでした。

金婚式どころか、もうすぐ60年になります。道子が大きなお腹で、仰向けに寝て国家試験の勉強をしていたのが思い出されます。

無医村でのボランティア活動

課外活動で一番記憶に残っているのは、社医研でのボランティア活動です。毎年、夏休みには、兵庫県北部の鳥取県との境にある湯村温泉から、渓谷沿いに10数キロ登った人里離れた山深いところに、岸田地区という無医村がありました。

今から思えば卒後2、3年目の先輩医師をリーダーに、医学部学生や看護学生が10数名参加した、合宿生活です。

検診といっても、血液検査はまだ一般的でなく、尿検査、検便虫卵検査と血圧測定くらいだったと思います。

冬は雪深いところで、この地区は但馬牛の畜産農家が多く、大きな親牛が飼われていました。普段は訪れる人もないため、私たちは大変歓迎されていました。

国民皆保険、厚生省と日本医師会の抗争

国民全員が何らかの公的医療保険制度に加入する国民皆保険がスタートしたのが1961年4月です。世界的に見て日本が自慢できる国民皆保険制度は、日本医師会と厚生省(現厚生労働省)の激しい抗争の末にできたものです。

日本医師会は、国民皆保険の実施を前にして、診療報酬の引き上げや制限診療(保険診療で認められる診療行為の範囲を事前に決めること)の撤廃を強く主張、自らの主張を通すため、保険診療のボイコットに相当する「保険医総辞退」や、都心での集会を行っていました。

当時の日本医師会は、医師の団体ではありますが、国民の健康・医療を守る責任のすべては医師にあるという強い使命感を持っていたように思います。

ポリオの流行と生ワクチン

ポリオウイルスは、脊髄の運動神経細胞への親和性が高く、子どもの身体に重大な障害やマヒを起こす疾患で、その後遺症を持ち続けている方は、今日でもたくさんおられます。

学生時代にポリクリ実習で内科の病棟に行くと、ポリオウイルスが原因で呼吸筋が麻痺し、自立呼吸ができなくなり、「鉄の肺 (陰圧式人工呼吸器)」の助けで、生活されている患者さんがおられました。

ポリオは、世界中で流行しており、日本でも、1960年には、北海道を中心に5,000名以上の患者が発生する大流行があり、大きな社会問題となっていました。

日本では、注射用のソークワクチンの国内生産が追い付かず、輸入も不十分だったため、深刻なワクチン不足が発生し、各地でワクチンの奪い合い騒動が起きました。

国民の声に後押しされて、厚生省は、1961年にソ連から生ポリオワクチンを緊急輸入し、一斉に投与することにより、流行は急速に終息したという歴史があります。

60年後のいま再び、新型コロナ流行対策でも、諸外国に比べてワクチン接種での対応の遅れがみられるのは日本人の性癖でしょうか。 トップへ

2


第2話 小児科に入局した頃 1965年

なぜ、小児科医を目指したか

私は、小児科医院を開業していた母親に育てられ、叔父と従兄も小児科医だったので、小さい頃から小児科医は人の役に立つ、やりがいのある仕事と感じていました。

中学生の頃には、多くの友人たちは、医師の家系にある私が「小児科医」になるものと決めつけており、私もその気になっていたようです。

学生時代のポリクリ(臨床実習)では、小児病棟が日当たりの良い最上階に位置していたこともありますが、他の病棟では見られない明るい光がいつも差し込んでいるように感じました。

病める子たちに接している看護師さんをはじめとするスタッフの立ち居振る舞いがそうさせていたのでしょう。

私が神戸医科大学を卒業したのが昭和39年(1964年)で、東京オリンピックの年です。1年間の神戸医大附属病院でのインターンを済ませ、医師国家試験にも合格し、医局から特段の勧誘を受けることもなく、当然のように平田美穂教授の小児科の門を叩いていました。

初顔合わせでは、何と大学の同級生が6名も集まっていました。 

いろんな伝染病が流行っていた

私が入局した1965年当時は、毎年、冬には麻疹が大流行しており、初めて麻疹患者の口内を診たときの粘膜の異様な発赤、コップリック班は、あまりにも教科書通りで印象的でした。

我が国では、1966年にKL法(不活化ワクチンと生ワクチンの併用)による麻しんワクチン接種が開始されました。

当時の生ワクチンは、副反応が強く、その反応を軽減する目的で不活化ワクチンとの併用で実施されていましたが、異型麻疹等の問題がありました。

1969年からは新たに開発された高度弱毒生ワクチンに切り替えられました。

つぎつぎと各種感染症に対するワクチンが開発され、入局年度が1年違うだけで、感染症に対する臨床体験がかなり異なっています。

下痢・脱水で乳幼児が死亡

夏には、法定伝染病の赤痢や腸チフス(サルモネラ症)の流行もありました。毎年流行するのは特定の地域の病院で、大学から交代で応援出張に駆けつけていました。

秋も終わりに近づくと、乳幼児で激しい下痢を伴う冬季白色便下痢症,白痢が毎年流行していました。

コレラ便に似た米のとぎ汁様の白っぽい下痢便を出すので、小児仮性コレラとも呼ばれ、激しい脱水を伴い、救急室で死亡する例もありました。その後、その原因がロタウイルスによる下痢症と判明しました。

入局当時は、輸液といえば、大腿四頭筋に太い針を挿入し、泣き叫ぶ子を押さえつけながら、「大量皮下注射」するのが主流でした。その後、静脈切開や手作りの留置針で試行錯誤しながら、静脈確保を試みるようになりました。

これらの感染症は、1970年代に入ると、あっという間に見られなくなりました。井戸水が水道水になり、下水道の整備が進んだからです。 トップへ

3


第3話 大学紛争の渦中で 1960年代後半 

1960年代後半には、学生によるベトナム戦争への反戦運動が、フランスを発端に世界中で展開されており、大学以外でも市民によるさまざまな反体制運動で盛り上がっていました。

こうした時代にあって、東京大学では1968年1月末に大学本部のある安田講堂を学生が占拠し、警察機動隊が本郷キャンパスに突入するという大学紛争となり、全国の大学に飛び火しました。

医学部にはインターン制度廃止を訴える全国医学生連合(医学連、のちに青医連)があり、さらには無給医制度という時代遅れの体制が残っていたことが紛争の火種となりました。

「ゲバラの日記」と「都市の論理」

1960年代は、科学技術の進歩により、いずれの国も大きな経済的発展を遂げ、物質的には豊かな社会にはなりましたが、格差社会が露わになったのが、世界中を巻き込んだ学生運動の背景にあったようです。

当時の学生運動家によく読まれていた本が、カストロとともに、キューバ革命の立役者の一人であったチェ・ゲバラの「ゲバラの日記」と羽仁五郎の「都市の論理」です。

「都市の論理」では、社会改革を実現するには、まずこれまでの家族関係そのものの否定が不可欠だとの主張されていました。

「小児科無給医会」を結成

全国の医学部では、学生を中心に、若手医師をも巻き込んで、研修医制度を巡って教授会と対立し、無期限ストライキなど、学生と大学との対立状態が続きました。

私たちの小児科医局でも、全国的な動きに呼応して、39年卒と40年卒を中心に「小児科無給医会」を結成し、「無給医制度の廃止」と「学問と研究の自由の保証」を旗印に、当時の教授平田美穂先生を中心とした「小児科教官会議」と対峙していました。

全国的な大学紛争は、その後も数年続きましたが、昨日まで同じ釜の飯を食っていた先輩、後輩の気まずい対立は、長くは続きませんでした。

当初、私は先頭に立って医局解体を叫んでいた一人でしたが、もう30歳近くなり、妻や3人の子どもがいる身、徹底的に改革を目指して踏ん張るだけの意欲を持ち合わせていないことに気づきました。

40年卒の根岸先生が同門会誌に松尾保名誉教授への追悼文に触れられているように、我々に直接研究指導を行って下さった松尾保先生をはじめ、多くの先輩の先生を困らせ、申し訳なく思っています。

大学を離れることに

私自身は、大学医局内に居り場がなくなり、新しくできた明舞団地の病院に一人勤務することになりました。連日100名以上の患者が押し寄せてきましたが、人手のなくなった大学医局に応援を頼むこともできず、黙々と働いた日々でした。

ある日、大学の助教授をしていた従兄から、「おまえは米国領事館へのデモに参加していたから、アメリカ留学は無理だろう。フランスのパリ大学はどうか?」という助言がありました。

かねてより、外国留学を夢見ていましたので、早速フランス語の勉強を始めました。三宮にあるフランス語教室に通い、ラジオ・テレビのフランス語講座を聴き、何とか年末に行われる「フランス政府給費留学生」試験に合格し、翌年4月に渡仏することになりました。   トップへ

第1章 私は戦後民主主義教育の第1期生

トップ画面へ
第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入
第2話 民主主義教育の第1期生
第3話 自然との触れ合い
第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙
第5話 戦後たった5年で明るい光が
第6話 中・高校時代は高度経済成長期

1


第1話 生まれて間もなく太平洋戦争へ突入

私は、尼崎市開明地区という阪神尼崎駅南の旧市街で、1940年2月に生まれました。真珠湾攻撃は翌年の1941年12月8日です。

3年後の1944年11月には、アメリカ軍はマリアナ諸島の基地からB29爆撃機部隊による日本本土への空襲を開始しました。

東京、川崎、横浜、名古屋、大阪、神戸という大都市をつぎつぎと爆撃目標とし、私が住んでいた尼崎は大阪に付随する大都市域として、再三にわたり空襲を受けました。

疎開したその夜に、B29爆撃機による空襲

1945年3月13日夜から14日未明にかけての焼夷弾空襲で、自宅が炎上しました。私自身はまだ5歳になったばかりでハッキリとした記憶はありませんが、母親がその時の恐ろしさ、苦労について、再三再四、話してくれました。

自分の住んでいる所が爆撃目標として位置付けられていることは、地区の住民には予測できていたようです。

幸運にも、空襲当日の13日の昼の間に、父親が必要最小限の家財道具を積んだ荷車に、私を乗せ、10kmほど離れた尼崎市稲葉荘という田園地帯に疎開し、辛うじて難を逃れました。

でも、妹の出産を直近に控えていた母親だけは、すでに爆心地の産院に入院していました。周囲一帯が炎上する中で一夜を過ごすことになりましたが、無事出産を終えたそうです。

神戸大空襲の記憶

稲葉荘への疎開後も、アメリカ軍による焼夷弾攻撃は日増しに激しくなり、空襲警報のサイレンがなると、防空頭巾を被り、防空壕に避難したことをよく覚えています。

神戸市内には、川崎航空機(現川崎重工業)、川西航空機(現新明和工業)といった航空機メーカーが存在していたことから、激しいアメリカ軍の攻撃目標となり、市街地は壊滅的打撃を受けました。

6月5日の神戸大空襲の模様は、父親に手を引かれ、自宅近くの武庫川の堤防から見ていましたので、鮮明に脳裏に焼きついています。

阪神淡路大震災で一晩中夜空を真っ赤に染めていた神戸長田と、空襲時の光景には重なるものがあります。 トップへ

2


第2話 民主主義教育の第1期生

終戦の翌年4月に、国民小学校に入学しました。しばらくは、教科書も、鉛筆も、ノートもありませんでした。ランドセルだけは、従兄のお下がりの牛皮のものを担いでいました。

学校は二部授業といって、早行きと遅行きがありました。学校で何を学んでいたのか、全く記憶にありません。

新しい戦後の教育改革として、連合軍総司令部の指導・監督のもとに、学校教育法が制定され、新制小中学校が発足したのは、私が小学2年生になった1947年の春です。

私が入学したのは1946年4月ですから、最初の1年間は何か空白だったようです。

戦後教育は、戦前の教育とは対照的に道徳・修身は一切なくなっており、規範のない、自由なものであった気がします。

当時の教育こそが民主主義教育なのだと、戦後75年を経った今、改めて感じます。決まったモデルがないために、自由気ままに、自らの考えで物事に取り組んでいくのが、われわれの学年の習性になったようにも思えます。

軍用ジープが行き交う国道2号

私が住んでいた稲葉荘と武庫川を挟んで対岸にある甲子園ホテルが、米軍に接収されており、朝夕には国道をジープなどの軍用車が行き交っていました。

兵士たちが沿道に子どもを見つけると、チョコレートやチュウインガムなどを放り投げてくるのです。当時の私は、成長盛りで空腹であったと思いますが、なぜか、それに手を出した記憶は全くありません。 トップへ

3


 第3話 自然との触れ合い

私は、小学校4年生まで、周りには田んぼばかりの稲葉荘で過ごしました。夏には田んぼの間を流れる小川でドジョウやタニシをとり、秋にはイナゴをとって持ち帰ると、母が食材として重宝してくれました。

夏には、近所の友だちと武庫川に泳ぎによく出かけました。川での遊泳は、突然深瀬があったりして、毎年命を失う子がいたようです。

父親が、竹を焼いて折り曲げ、作ってくれたソリで、草の生い茂る土手の上から滑り降りていました。

今でも悔しい思い出

私は、体格が良かったので、年長の男の子とよく遊んでいました。その子は、どこで手に入れたのか1匹のヤンマ(大型のトンボ)の胴体に糸を結びつけ、頭上に飛ばすと、別のヤンマが寄ってくるのです。

いとも簡単にそれを網で捕まえています。指をくわえて見ていた私に、捕えたヤンマの1匹を惜しそうにくれました。

早速、家に持ち帰り、胴体に糸を結わえて、同じように飛ばしたのですが、私のヤンマには他のヤンマが全く近づいてきません。その子がおとりにしていたのは雌ヤンマだったのです。

その後も雌ヤンマを手に入れることができなかった無念さは、今でも残っています。

私は運動が大好きでしたので、近隣の男の子たちと、来る日も来る日も。日が暮れるまで野球をしていました。

「阪神タイガースこどもの会」にも入会しました。甲子園球場での集いに参加し、土井垣、藤村、別当、若林らの有名選手を近くでみられたのは、楽しかった思い出の一つです。

トップへ

4


第4話 映画『鐘の鳴る丘』に涙

小学3年生の時に、学校から先生に引率されて、生まれて初めて観たのが、この映画『鐘の鳴る丘』です。

筋書きはよく覚えていませんが、画面ひとつひとつからの衝撃が、脳裏に刻まれ、同級生とともに涙した記憶は鮮明です。

『鐘の鳴る丘』は、1947年(昭和22年)7月5日から1950年(昭和25年)12月29日までNHKラジオで放送された菊田一夫原作の人気ラジオドラマです。1948年(昭和23年)に松竹で映画化されました。

そのあらすじは

戦地から復員した主人公修平が、不幸な子供たちを明るく導こうと信州の緑の丘の上に少年の家をたてて暮すという、戦災孤児救済問題をテーマにした作品です。

私が覚えているのは、戦災で家や家族を失った孤児たちが、肩を寄せ合って野宿し、駅で靴磨きをしたり、盗みやケンカに明け暮れ、生きる望みを失いかけている浮浪児たちの姿だけです。野坂昭如の小説「「火垂るの墓」と重なるところが多々あります。

当時の私も、つぎの当たった衣服をまとい、食糧難の中にあったと思いますが、戦災孤児たちの姿を見て、両親と一緒に同じ屋根の下で過ごせている自分に、幸せを噛み締めていたにちがいありません。 トップへ

5


第5話 戦後たった5年で明るい光が

終戦から5年で、日本は戦後の暗い時代を抜け出し、1947年8月には推定3万5千人いた浮浪児が、一人また一人と上野の街を離れていったそうです。(朝日年鑑1948年版による)

私自身も、小学5年生の春から、小児科医院を開業していた叔父が急逝したために、母がその後を継ぐことになり、再び生家に近い旧尼崎市街の寺町に戻ることになりました。もうその時には、私の周りでは、何の不自由もない日常生活をとり戻していたように思います。

日本の経済復興の裏には、アジア隣国の戦火が

第二次世界大戦直後から、アジア・アフリカの植民地では、支配国である連合国に対して独立運動が激化していました。

急速に表面化した米ソの「冷戦」のもとで、大規模な国際紛争に発展し、とりわけ、隣国での朝鮮戦争(1950〜53)により、占領軍の支配下にあった日本は、特需により大きく経済復興に結びついたようです。

また、フランスの植民地からの独立を目指したベトナムに対するアメリカ軍の介入により、泥沼化したベトナム戦争は1975年まで続くことになります。

ここでも、日本は軍隊こそ派遣していませんが、日本から多くの軍事資材が運び込まれ、東アジアにおける独立戦争に伴う軍需景気が、戦後日本の高度経済成長を支えていたようです。

最近再び、「自由で開かれたインド太平洋」戦略という言葉を耳にしますが、私と同じか、上の世代の人間には、何かキナ臭い、不吉な予感がしないでもありません。

サンフランシスコ講和条約

日本と48の連合国との間に結ばれた第2次大戦終結のための平和条約が、1951年9月8日サンフランシスコで調印されました。時の日本代表は吉田茂首相です。

当時の私は、小学6年生でした。それまで日の丸の旗をほとんど街で目にしなかったのですが、至る所で日の丸の小旗がうち振られ、日本中がお祭りモードでした。

これで、敗戦国日本が、再び国家として国際社会から認められたという安堵感があったようです。

この条約は、日本の主権・平等を承認するものでしたが,外国軍隊の日本駐留継続は認めたままでした。

さらに、同時に締結された日米安全保障条約により、その後も日本は対米従属下に置かれたままです。 トップへ

6


第6話 中・高校時代は高度経済成長期

1950年代に入ると、何かもが新しく生まれ変わっていく時代でした。私は、中学は芦屋市立山手中学校、高校は兵庫県立神戸高校に通いました。

中学入学時(1952年)は、床板が軋む木造の仮設校舎でしたが、1年生の2学期からは、山手に聳える白亜の新校舎に移りました。阪神芦屋駅から30分以上かけて急坂を毎日通い、足腰が鍛えられました。

高校も同じく、六甲山の中腹です。眼下には、神戸港から阪神間、大阪まで、大阪湾全体を見下ろせました。でも、神戸製鋼所の林立する煙突からの黒煙が、風向きによって校舎に押し寄せてきました。

大型の超豪華外国客船が神戸港に入港する時には、授業中の静かな教室に、汽笛が響き渡ってきます。下校時には、友人と船内見学に行き、外国人船員と英語で話せたことも素晴らしい体験でした。

 

柔道部活に明け暮れた日々

高校に入学するや、すぐに父親の勧めもあり、柔道部に入ることにしました。中学時代にも多少の経験があり、体型的にも柔道が適していると判断したからです。

柔道・剣道などの日本の伝統的な格闘技は、戦後数年間、進駐軍により禁じられていました。

神戸高校の前身の神戸一中には、嘉納治五郎という大先輩がおられます。

ところが、私が入部した時には、柔道場はなく、図書館横の場所を仮道場として使っていました。練習前には畳を担いできて敷き、練習後はまた元に戻すという日々でした。

私たちの学年は、これまでの先輩よりも、人数も多く、兵庫県大会では上位に食い込める存在でした。

当時は、大学受験は二の次、三年生の秋の大会が終わるまで部活を続けるのが当たり前でした。

練習が終わり、帰宅し、夕食が済ませ、机の前に座ると、途端に睡魔に襲われます。そのような時は、躊躇なく布団に入り、朝早く起きて、勉強することにしていました。

 

中高の友人は、生涯の付き合い

中高の友人は、異なる分野に進みました。歳を重ね、現役を退いた今、何か時計の針が反対向きに回るように、親交が日々深まっています。

2021-7-2、2021-7-20更新   トップへ


 

兵庫県科学賞を受賞 2002.11.7

中村 肇教授が、平成13年度兵庫県科学賞を117日兵庫県公館で、井戸知事から受賞する栄誉を受けた。

 新生児黄疸に関する研究で、特に核黄疸による脳障害の発症を予知するアンバウンド・ビリルビン測定法を開発し、医学の発展に貢献したことが評価された。

 

 

小児科教室秘書たちに祝福されて