AIくんと仲良くしよう: AIで「声」の時代に

1970年代の電化製品、化学製品の開発により各種医療機器、医療器具により、医療は飛躍的な進化を遂げました。1990年代からはコンピューター技術の進化で各種医用画像機器が開発され、視覚化の時代となりました。さらに、ロボット技術の進歩と相まってダビンチなる手術器具までが現実のものとなっています。

さて、次に来るものは何か?
いま、人工知能、Artificial Intelligence, AIを搭載したロボット時代に突入しようとしています。そのキーとなるのが音声です。
2017年1月に、米国でアマゾンから発売されたAmazon Alexaは、新しい時代の幕開けを告げようとしています。Amazon Alexaとは、Amazon社が提供するクラウドベースの音声認識サービスです。Alexaに対応したデバイスが認識した音声はクラウドサービスに送信されます。クラウドサービスは音声をテキスト変換し、そのテキストを処理し、処理結果をデバイスに返して音声として再生されるという夢のような話です。
少し想像してみただけで、ワクワクしてきます。

その1。 AIくんが医師をこえる日
声を発するだけで、キーボードを叩かなくても、文章として打ち出されてます。もう、クラークがいなくても、患者さんと向き合い、話をしていると、つぎつぎと、話の内容が電子カルテに自動的に書き込まれていくのです。話した通りではなく、AIくんがうまく整理して、要約を書き込んでくれているのです。
AIくんは、患者さんの言葉の分析はもちろん、声の調子から患者さんの訴えや感情、その程度も的確に判断します。AIくんは、書き込まれた内容を瞬時に解析して、鑑別診断を挙げ、その確度を教えてくれます。もし、足りない情報があると判断すれば、患者さんからもっとしっかり聞くように、AIくんはDrに指示します。もちろん、ひとりひとりの患者さんのニーズに適した検査計画をオーダーし、総合的に判断して、治療計画も立案してくれます。
AIくんがもっている情報量は限られているために、最初のうちは、きっとあなたのような名医に敵わないでしょうが、もう時間の問題です。チェッス、将棋、囲碁の世界では、今や向かうところ敵なしです。

その2。 音声が生活を変える
患者さんはみな、左腕に小さなチップの入ったリストバンドをしています。
保険証も、診察券も、もう必要ありません。同意書も、すべて音声で応答すればよいのです。会計はもちろん電子マネーで。
もう病院玄関のあの雑踏風景は過去のもの、人影はまばらです。診察待ち患者を呼び出すスピーカーの騒音も過去のもの、腕時計型リストバンドから個別にあなたの名前を呼び出してくれます。
足の不自由な超高齢者も安心です。一人乗りのカートで、不案内な通路を間違いなく診察室まで案内してくれるのです。少々耳が遠くなっても、新開発の補聴器を付けていれば、相手が早口で喋っていても、ゆっくりとした口調で、翻訳しながら、要点だけを分かりやすく話かけてくれるのです。

その3。外国語が話せなくても不自由がない。
日本人は英語で話すのがとても苦手です。だが、もう大丈夫です。AIくんがあなたの日本語よりも、もっと上手に英語に翻訳してくれます。
あなた専用のAIくんをポケットに忍ばせて、ステージに立つと、日本語でも、英語でも自由自在、あなたよりももっと明瞭な言葉がマイクを通して、会場に流れます。
もう質問の意味がわからなくて、演壇で立ち往生する光景に出くわすこともありません。あなた専用のデータベースに仮想問答集を作っておけばいいのです。想定外の質問には? それは、あなたの準備不足です。予めAIくんとよく相談しておくことです。
学会の演題集はどうなるのでしょうか?この5月にあったアメリカ小児科学会の発表演題数は1,000題以上です。
スマホに全ての演題が収められているのですが、どの会場で、どんな演題が行われているか探すのが大変です。AIくんなら、聴きたい演題のキーワードを語りかけると、即座に時間と場所を答えてくれます。広すぎてわかりにくい会場でも、上手に誘導までしてくれます。
いやいや、朝から晩まで、私が興味を持ちそうな演題のスケジュール表まで準備してくれます。もう、会場まで足を運ぶ必要もなさそうです。

その4。 目が見えなくても本が読める
歳をとると、誰しも目が疲れやすくなります。本を読んでいても、光の加減で読み辛くなります。新聞や本が、音といっしょに読めれば、どんなに楽でしょう。難しい漢字でも、ふりがなは要りません。眼鏡の上につけたカメラが読みとり、聞かせてくれます。電子版になっていなくても、本棚で眠っている昔懐かしい本が読めるのです。
最近、車を運転しながらラジオを聴いていると、夏目漱石や谷崎潤一郎の小説の朗読が耳から入ってきました。目で読むのとはまた一味違った思いが伝わってきます。声は、人の感情を多彩に表現します。聞き逃してもスマホのラジルラジルで、聞き直せることを山崎武美先生から教わりました。

その5。物忘れの手助けに。
物忘れがひどいのも困ったものです。
老人の物忘れは、記憶件数が若者に比べてはるかに多いのが原因(?)とはいえ、嫌なものです。物忘れに対して呼び戻す手がかりもなく、途方にくれるだけですが、AIくんの助けを借りれば、すべて解決できそうです。「アノときに観た映画の題名は何でしたかね」と問いかけると、私の観ていそうな題名を瞬時に、複数挙げてくるでしょう。
現在でも、アマゾンショップでは、私が買いそうな品を次々とリストアップしてきますが、AIくんとの付き合いが長くなればなるほど情報量が豊かになり、私よりも先に次の行動へと導いてくれるかもしれません。

その6。老人のよき話し相手に
もう老人は、一人ぼっちではありません。話したい話題に合わせて、AIくんがバーチャルの相手を選んでくれます。男ならイケメン男子を、女なら可愛いモデル風の女子を、その日の気分次第で自由自在、途中での取り換えもあり、後にしこりを残すことは絶対にありません。
もし、あなたが無口なら、相手も困ってしまいます。話しが弾むように、普段からいろんな話題を収集しておくことです。。
とはいえ、AIくんが人の情報の何から何まで知り尽くしてしまうと、大変聡明にはなるでしょうが、困る人も出てくるでしょう。先ず、政治家が大変です。文春の記者の比ではありません。「記憶にない」では、通じなくなってしまいます。

その7。スマホのシリーさん
今のスマホ(iPhone)には、なかなか優れものの音声サービスが備わっています。息子の嫁は、なかなかの使い手です。「あしたの天気は?」「元町の中華料理店を調べて?」「つぎの姫路行き新快速は三宮何時発?」と話しかけるだけで、的確な答えが返ってきます。
車の中でFMラジオから流れてくるよく耳にするオーケストラ音楽の題名を思い出せずに妻が苛ついていると、嫁がスマホをサッと取り出し、ラジオに近づけると、曲名だけでなく、演奏者までも教えてくれるのには驚きました。
私が質問すると、声がよく通らないのか、単純な質問には答えてくれるのですが、少し込み入った質問をすると、「なかなか面白い質問をしますね。。」と、人を小馬鹿にしたような答えが返ってくるだけです。
孫娘が、「シリーさん、あなたはロボットさんですか?」と問いかけると、「わたしにも、こころがあります!」と怒った口調での答えが返ってきたのは驚きました。

その8。AIくんとうまく付き合う道は
これからはあなたの分身です。付き合う期間が長くなればなるほど、あなたのことなら何でも記憶してくれているのです(あなたの海馬がやられても、もう大丈夫です)。
AIくんと仲良く付き合うコツをお教えしましょう。まず、分かりやすい言葉で話しかけてあげることです。最初は慣れないので、なかなか自分の思いを理解してくれませんが、辛抱強く話しかけることです。
次に大切なのは、あなたの発音です。あなたが聞いている自分の声は、他人が聞いているあなたの声とは全く別物なのです。自分が聴いている声は、耳からの音としてだけでなく、骨伝導でも声が伝わってきます。自分の声を録音テープにとって聞きなおしてみるとよくわかります。もっと明瞭な発音をすると、AIくんはきっと喜んでくれるでしょう。
最近、女代議士による暴言・罵倒の録音テープが公開され、話題になっています。我が家の向かいに住むヤンママも、3人の子育て真っ最中、毎朝同じような声を張り上げておられます。自分が怒った時にはどんな声になっているか?録音しておくのも虐待防止の一法です。

最後に
AIくんをあまり嘗めていると、いつ謀反を起こすとも限りません。ゆめゆめ、不用な情報を提供しないことも大切でしょう。AIくんの口封じに貢ぎ物は役立ちません。これまで、物忘れ対策に、ポケットに忍ばせた録音テープの回しっぱなしが一番と考えていたのですが、今一度再考しているところです。

お気をつけ遊ばせ。

兵庫県小児科医会雑誌「忙中閑話」 2017.7.9.

 

わが母校誕生のころ-本学の神話時代-(2) 中村和茂著

昭和20年となりて

 1月1日には午前9時より講堂にて4万拝の式が催され、学生40名余出席、小川校長より訓話がありました。3学期は8日(月)より始まり、先ず例により湊川神社に参拝し身を清めてから講義が始まった訳です。ところが年末より次第に激しさを増した敵機の空襲は年が明けると共に一層厳しくなり、警戒警報が鳴ると共に講義は中断、教官も学生も待避ということになるのですから講義の進行は思うにまかせぬようになりました。学生の欠席は目にみえて多くなり、又元気すぎて学生の方が辟易した橋寺先生のドイツ語が珍しいことに13日(土)に休講となりました。17日(水)の時間には先生は一応出てこられましたが、何時なく元気がありません。先生は食糧難のため栄養失調症になられたのです。

1月11日に本校第2回生入学試験の第1次発表が行われました。昭和20年度入学志願者心得には第一、資格として、“本校ハ専門学校令ニ依リ医学ノ要綱ヲ教へ、医術ノ真締ヲ授ケ、斯道研究ノ素地ヲ培ヒ以テ皇国医道ノ本美ニ徹セシメ進ンデ負荷ノ大任ニ対ヘマツル医人ヲ錬成スルモノナリ、依ツテ右ヲ体庸シ左ノ各項ノ一ニ該当スル者タルコトヲ要ス。”とあり、入学試験期日は文部省の定めた第1期、その選抜方法は文部省の指示により“第1次選抜銓衡”は出身中等学校長よりの報告書類によってのみ選衡され、入学者定員の約2倍の人数が選抜されました。この方法は何も本校のみに限ったものでなく交通機関が軍にとられてしまい、一般市民の利用が極度に制限され、又食糧難のため旅館などの宿泊も思うにまかせず、全国的に学生を集めて入試を行うことが不可能に近くなったため、やむを得ず文部省がとった手段だったようです。

2次試験の方は1月23日(火)より26日(金)迄本校で身体検査、口頭試問及び筆答試問が行われたようで、その結果綜合判定により1月31日(水)に合格者が発表され、初めて我々のクラスの弟分が決まったのでした。

講義中に警戒警報の陰気なサイレンが

話が前後しますが、1月19日(金)午後1時すぎ、内科診断学の講義中でしたが、例により警戒警報の陰気なサイレンの音が鳴りわたり、間もなく空襲警報のサイレンの音に変わりました。私達はその頃待避場所を基礎学舎の南の校庭に下る斜面の下(現在の運動部の倉庫)に選んでおりました。思い思いに鉄兜やら綿入れの頭巾やらを被って、退屈な講義はなくなるし、ほっとした思いで三々五々その辺りに集って煙草を喫いながら雑談をしていたのですが急に、激しい高射砲の音がするではないですか。南西の空を見るとB29の大編隊が可なりの低空でまさしくこちらへ向かってまいります。

しまった、やられたと思った途端、ドドと言うものすごい地響き、最後の編隊が頭上を通り過ぎたときは本当にやれやれ助かったとお互い喜び合いました。後でわかったのですがB29は全部で50機、この空襲で明石の川崎航空機工場は一瞬にして潰滅してしまいました。てっきり、ついその先の新開地が川崎造船でもやられたと思っていたのですが、20キロ近くも離れたところがやられていたわけだったのです。

しかし1月20日(土)午後には武田創教授より解剖実習の注意があり、今も同じ場所の実習室で1月29日(月)より2月24日(土)迄連日、記念すべき本学第1回の解剖実習が行われました。2月4日(日)には再び神戸は空襲をうけ兵庫の海岸近くにあった製粉工場はまる2昼夜燃え続け、神戸の巷は次第に焼け爛れてゆきました。

学生の入営延期が認められない?

そうこうするうちに8日(木)の朝刊をみますと、私達にとって大変なことが載っているのです。紙上では具体的なことはよくわからなかったのですが、戦況の切迫に伴い学生の入営延期がほとんど認められなくなったというのです。従来は理科系大学・高専の学生は卒業迄兵隊にとられることは勘弁してもらえる“きまり”となっており、小生などもつい先日徴兵検査は受けたのですが、大威張りで入営延期願いを出して、やれやれこれで4年間命が延びたとほっとしていた矢先だったのです。

よく読むとどうやら医学関係の学生は延期が認められるらしいのですが、1年でも浪人して入学したものは延期が認められない様子なので、その日の教室はこの話で持ち切り、兵隊へ送りこまれるか学生生活をのんびり楽しめるかの瀬戸際ですから、一同真剣そのもの、比較的のんびりしていたのは中学4年修了で入学した若干の人ぐらいでした。

学生間でもめにもめた入営延期中止かどうかの問題も2月13日、副校長格の分玉少尉よりの説明で医科に関する限り従来とあまり変りがないことがわかり、学生一同やっと一息入れることが出来ました。

しかしその頃になると軍の方の事務も粗雑となり、入営延期届を出していても連隊区司令部の方で誤って召集令状を出す様な事態が発生したりなどしました。一旦召集令状をもらった被害者?はいくら徴兵延期の権利のある学生でも入営せねばならず、学生の中に2、3人そんな訳で召集令状をもらったものが出て来ました。こんな入営者が発生するとその都度、軍側であるべきはずの配属将校たる徳岡政之介大佐がその連隊へわざわざ出かけていってうまく事情を説明し学生を貰い受けて来られるのですが、その情には学生達ただただ感謝あるのみで、“先生頼みます”の連発だったわけです。

激しさを増す空襲

空襲の方は激しさを増すばかり、ちょっと日記を繰っただけでも、

2月16日(金)東京へ艦載機延1000機来襲、
2月17日(土)今晩は阪神地方へ来襲かと思ったがやっぱり東京やられる。
2月19日(月)夜3度も敵機来り、大阪湾に機雷投下。
2月22日(木)このところ、毎晩敵機1、2機来る。
2月25日(日)早朝より雪、夕方には30センチ、午後敵数機来る。夜東京へ730機来襲。
3月4日(日)東京へB29 150機、又雨、日増しに暖かくなる。
3月6日(火)学校へ防空宿直。などと書いています。

学課の方は2月26日学年試験の日課が発表され、3月12日(月)ドイツ語、発生学。13(火)内科、教練。14日(水)内科、化学。15日(木)細菌、人文、16日(金)生理、病理。17日(土)解剖と決りました。しかし、学生の間では専ら近く神戸も東京、名古屋と同じく大空襲を受けるに違いない、学年末試験が本当にやれるかどうかという心配か?、希望か?わからない、今の学生諸君には到底理解出来ない気分が漂っていました。こんな何とも言えない、強いて言えば己の生命への本能的な危険を感じ、もはや勉学どころでなくなった我々に勉強しろなど一言も口にされずに、唯坦々と休講もなく講義をされたのは解剖学の島田吉三郎先生でした。さきにも述べました解剖実習中にも警戒警報が度々鳴りましたが、学生達が慌てて、それ実習はこれ迄とばかり実習室から逃げるように飛び出して行っても、最後迄学生のためにピンセットの手を止められない先生でした。心配していた阪神地区の大空襲は一向になく、定期試験第1日、第2日と迄は予定通り平穏に進みました。

3月14日(水)早朝とうとう来るべきものが来ました。

“空襲警報!!只今敵機約90機は尾鷲上空に集結中、阪神地区への来襲の公算大”とラジオが報じ終わらぬうちに、大阪は焼夷弾の洗礼をうけ、焔、天を焦がし、尼崎市北郊の私の家辺り迄真昼のような明るさになりました。この空襲の最後の編隊の攻撃で父が開業していた尼崎の医院も灰燼に帰してしまったのです。その日は定期試験の第3日目、内科と化学だったわけですが、どういう風にして受験したか、日記にもありませんし、記憶にもありません。

翌15日に学校では今晩はきっと神戸に来るという噂が専らでした。と言うのは、B29は当時占領されたサイパンからやって来ましたが、敵も準備もあり、そうそう毎日は来襲出来なかったのでしょう。大抵隔日にやって来るのが慣しとなっていました。

しかし、心配した16日早朝は(いつも午前2時頃から4時頃迄が大空襲の時間になっていましたが)、B29は1機も来襲せず、その日は生理と病理の試験がきちんと行われました。

しかし、かつてないことにその日は朝から爆撃もせずにB29が1機づつ2度も来て、当時としては超高度で飛行雲を引き乍ら飛び去って行きました。今晩は間違いない。皆そう考えました。“今夜の空襲のために早く寝とけよ”お互いにそう言いあって分かれたのですが、明日は武田創先生の解剖学の試験。午後10時が過ぎるとそろそろ心配になって来ました。寝床からそろり、そろりと這い上がり、机に向って、今も忘れません。ノートを開いて中枢神経系小脳のところ迄読んだときです。予想通り、空襲警報が鳴りわたったのです。

忘れもしない3月17日

学校が一時的にせよ機能を失った瞬間、何げなく私の見ていたノートの項目が、現在私が情熱をかたむけている研究分野とは何だか変な気がいつも致します。午前2時過ぎ。聞きなれた腹にこたえるB29の爆音がしたと思うと、異様な地響きと共に近所の高射砲陣地からの激しい音が始まりました。恐る恐る庭に作った防空壕から抜けて出てみますと、西の空がパっパっと明るくなっています。“神戸がやられた”と咄嗟に2階へ上り西の窓を開けてみますと、赤い焔が天を焦し、焔の数が次から次へと数を増しています。そして神戸の街はまたたくうちに1つの大きな焔になってしまいました。上空には笠を被せたように大きな白雲が拡がり始め、このため目標がつけにくいのでしょうB29の編隊は次第に低空飛行となり、機体が焔に照らし出されて夜目にもはっきり見られるようになりました。そして焼夷弾が丁度花火を天空から逆に地上に向かって打出すように神戸の街に突き刺さってゆくのがはっきりと見られました。

B29は次から次へと繰返し、繰返し爆撃を続けます。中には高射砲弾に当って火をふいたり、一瞬にして空中で四散するのも見られました。“ああ、とうとう神戸も灰燼に帰した。あの焔の中で我々の学校も今燃え続けている。明日からは解剖の試験どころか、神戸の中心街は何一つ残っていないだろう“と窓から西の空を眺め、ぼんやりとそんなことを考えたりなどしているうちに、空襲も午前4時過ぎにやっと終りを告げました。

午前6時、電車が動き出すのを待って学校へ馳せ参ずべく神戸に向いましたが、阪急は芦屋まででストップ、やむを得ず阪神電車の通ずるのを待って三宮へ、市内は予想以上に惨憺たるもの。見渡す限りの荒野、あるものは唯焼け爛れたセメント建造物だけ、何ともいえない熱気と匂いが漂っています。火災を避けながら神戸駅近くの国鉄のガードを北側へくぐり抜けると、見なれた人家は1軒もなく、すぐその先に学校と病院が立っていました。

“学校は残っている“感激しました。道には八角柱の焼夷弾の不発のものがゴロゴロころがっていますし、未だあちこちが燃え続け、危険この上もありません。湊川神社東側の道を学校へ急いだのですが路傍には焼夷弾の直撃を受けたのでしょう、防空頭巾を被りモンペをはいた若い婦人が2人、空を掴んだままこと切れていました。

もっとひどかったのは大倉山交叉点でした。市電の三叉路の中央にちょっとした防空壕があったのですが、その中にぎっしり人が詰ったまま、折り重なって蒸し焼きになっています。辺りの焼跡からはもうもうと煙が足もとに立ちこめ、暑くてオーバーなど着られたものではありません。

学校と病院は確かに残っていましたが、木造建築は勿論全焼、鉄筋のものも遠目からは焼残っているように見えたものも、近づいてみると中は焼け落ちて残っているのは唯外廓だけ、現在の基礎学舎の西側の3分の1は各階共中身は灰になっていましたし、病院の方も本館の美しいタイルの外装は剥げ落ち、各棟共屋上には焼夷弾が針山のごとく無数に突きささっていました。建物の中には未だ燃え続けているものもあり、早速我々のように駆けつけた学生は各所に分かれて消火を始めました。

私は当時の栄養部の建物を懸命になって消火しておられた、確か石川教授達だったと思う一団に加わりました。さすがの火災も燃えるものが無くなると自然に火の方から勢いが衰え、昼過ぎにはほぼ鎮火しました。やれやれと焚き出しの握り飯をほおばっているところへ、配属将校から今から福原の屍体を収容に行くからシャベルを用意しろとの命令です。この話は結局吾々の学校にはお鉢が回らず“帰ってよろしい”ということになりました。

行きはよいよい帰りはこわいで、日は暮れかかるし、乗物は無いしで、見渡す限りの焼け跡を学校から加納町へ向って一直線に歩きました。兵庫区、生田区もひどいでしたが、葺合区もこれに負けず、加納町3丁目の交叉点の路傍には名前のわからない黒焦げになった屍体が確認用の白札をつけて、ここに3体、あそこに5体と並べてありますし、二宮町の辺りだったと思いますが、戦災者の屍体が何重にも重ねられて野焼きにされるのに出くわしました。紫色の煙が夕闇に漂い、附近を煤けた服をまとった男女が着のみ着のままで唯目的もなく右往左往するようすは、この世の様とは思えぬ光景でした。

神緑会学術誌 第33巻 77-79頁、2017年8月より

2022.6.15.

子育て支援のための子ども保健学

子育てには地域コミュニティー社会の力、「子育ての社会化」が不可欠である。という視点から、子どもの健やかな成育のために、次の時代の子育て支援を実践して行こうとする専門職の方々のお役に立つような1冊です。

子どもを守るための新しい育児体系を、世代から世代へと伝えて行きたい!

中村 肇 監修

定価 2,415円(本体2,300円+税)

乳幼児の頭部外傷と虐待

救急医療チームがおさえておきたい診断・治療・予防のポイント

虐待が疑われる乳幼児頭部外傷症例に遭遇した場合に、まず何を疑い、どのように診断を進め、社会的介入を行えばよいかの一連のプロセスが分かる。
話題の“揺さぶられっ子症候群”の疾患理解をも踏まえた、初期診療にあたる救急医療従事者必携の一冊であります。

阪神北広域救急医療財団理事長
兵庫県立こども病院名誉院長 中村 肇 編著

定価1,050円(本体1,000円+税)

「書く」ということ

若葉「名誉教授からの一言」 2017

年老いての研究活動

2003年3月に退官し、間もなく14年になります。数多くの異物が入ったサイボーグのような身体ですが、元気に、多忙な日々を過ごしています。ここ数年、森岡一朗教授の率いる神戸大学の新生児グループに加えていただき、40歳近く歳の離れた若手ドクターと黄疸研究を再開しています。「その歳で今さら」と思われそうですが、当の本人は大学に顔を出すのを楽しみにしています。

昨年4月からは、阪神北広域こども急病センターに加え、神戸市北区のしあわせの村にある重心児施設「にこにこハウス医療福祉センター」の河崎洋子施設長をはじめとする4人の小児科女医軍団からの甘い誘いがあり、人生最後の仕事と気負い、嬉々として週1回出かけています。

全く本を読まなかった少年が

小さい頃の私は、野球ばかりして、ほとんど家の中におらず、全く本を読まない少年でした。算数は得意だったのですが、国語はとても苦手でした。大学時代も研究は好きでしたが、なかなか論文に仕上げる能力に欠けていました。しかし、文章を書かずにおれない大学生活が長かった所為で、先輩の先生がたのご指導もあり、いつの間にか筆をとるのが億劫でなくなり、また速く書けるようになりました。

エッセイを書き始めたきっかけは

私の書いた原稿の中で最も自慢の力作は、神緑会誌に寄稿した「私の臨死体験」です。1999年に狭心症発作でPTCA治療を受けた時の話です。この一文はかなり多くの方々の目に止まり、私が書いたどの論文よりも反響が大きいものでした。これが自信となり、エッセイを書くのが苦しみでなく、楽しみになりました。

二つの連載が励みに

兵庫県予防協会の季刊誌に連載の「赤ちゃんの季節」は、第1回が2001年秋で、16年を経過した今も続いています。また、こども病院時代に始まった毎月発行の「兵庫県地域子育ネットワークだより」のコラムにも、毎月寄稿しています。

ここまで続けられるのは、読者の方々からの暖かいお褒めと励ましの言葉です。何よりも私を勇気づけてくれたのは、脱稿前の妻の厳しい査読にありました。これらのエッセイは、時々の私の思いを凝縮した、日記帳ならぬ、月記帳のようなもので、折々の出来事を振り返ってみるのが今では楽しみの一つです。

平成29年2月記

 

新生児学 第2版

国内外の豊富な研究データを踏まえ、新生児疾患すべてに渡って臓器別に解説。胎児・産科学から新生児の成長・発達生理や適応生理、家族への関わり、倫理まで、新生児医療に不可欠な知識を網羅するとともに、臨床に基づく正常値・薬用量を紹介。

神戸大学医学部小児科教授 中村 肇 ほか

定価: 37,800円(本体35,000円+税)