赤ちゃんとともに50年

私が小児科医となったのが1965年。当時の日本には、まだ、赤ちゃんを専門にみる新生児科医という職種はありませんでした。

1970年にパリ大学医学部の新生児研究センターに留学する機会を得、それまで日本で見たことのないような光景を目の当たりにしました。呼吸障害のある未熟児が、常時10人以上いろんなタイプの人工呼吸器で治療を受けており、人工呼吸器の作動する音が部屋中にこだましていました。ここでの医療は、何もかもが日本で見たこともないものばかりでした。

3年近い留学生活ののち、帰国した時の日本の医療は、留学前とあまり変わらず、欧米との違いが歴然としていました。当時の我が国の出生数は年間200万人を超え(現在の出生数の倍以上)、母子保健が大きな社会問題でした。

幸いにも、日本の高度経済成長のおかげで、次々と欧米から最新の医療機器が輸入されてきました。欧米から船便で送られてくる医学雑誌や留学生が持ち帰った医学文献を頼りに、新しい医療機器を使いこなし、あっという間に、その後の10年余りで欧米に追いつくことができました。

新生児医療が世間一般に知られるようになったきっかけは、19761月の鹿児島での五つ子と、9月の神戸での六つ子誕生です。鹿児島では全員生存し、元気に退院されましたが、神戸ではいずれも800gに満たない超低出生体重児で、元気に退院できたのは女児1名だけでした。この子の出生体重620gは、その後2年余り生存例の世界最小出生体重児でした。その後も元気に育ち、結婚され、元気な男児を出産しておられます。この出産の知らせは、新生児科医冥利に尽きるもので、私への修業証書でした。

新型コロナの流行前までは、月に何度か神戸大学や兵庫県立こども病院などの新生児センターに出向き、保育器内の赤ちゃんたちや若いドクターとの出会いを楽しみにしていました。1日も早く、再び立ち寄れる日がくるのを心待ちしています。

令和2年10月13日