「不要不急」と言われると・・・

このたびの新型コロナの流行で、政府が国民に向けたメッセージは「不要不急」の外出自粛です。新型コロナ対策として「3密」と「不要不急」という言葉は、マスコミの報道でも日常的に使われています。

齢八十を過ぎると、「不要不急」という言葉に過敏に反応します。外出だけでなく、日常生活すべてが、不要不急と言えば、不要不急ではないかと捻くれた気持ちになります。

私と同級の精神科医は、月に1度の外来診察のため片道2時間以上かけて出向くのを楽しみにしていたのですが、「ご高齢だから、新型コロナの流行が収まるまで、無理して来て頂くことはありませんよ。」と言われ、自分の生き甲斐は不要不急だったのかと嘆いておられました。

日本は、欧米に比べて、高齢者に対してたいへん優しい国だと思います。政府は、新型コロナウイルス感染による死亡率が高齢者で高いことを強調し、政策的にも高齢者への感染予防対策を優先しています。死亡率が高いのは何もこのウイルスに限ったものではなく、インフルエンザでも同じなのですが。

私の周りにいるふだん活動的だった高齢者の多くが、もし感染したときの自らの死への恐れというよりも、周りの人達に迷惑をかけては申し訳ないという気持ちから、今も巣篭もり状態です。持病での通院回数も半減しています。

新型コロナの流行は当分続きそうです。「不要不急」はすべてダメではなく、3密にならないように気をつけて、運動不足の解消とお互いの心のケアのための友人との過ごし方を模索しているところです。

2020.10.31.

80歳での大きな試練

2020年は、新型コロナの流行で世界中の人々にとって大きな節目の年となっていますが、満80歳を迎えた私には大きな試練が押し寄せてきました。思わぬ大病、急性前骨髄性白血病に罹り、一時は彼岸に行きかけていましたが、こうして元気にお便りできるようになりました。

今回の闘病日記を、「80歳での大きな試練」としてまとめましたので、御笑覧いただければ幸いです。

2020/10/21記

第1話 思わぬ大病、白血病に罹ってしまいました。

新型コロナの流行も、非常事態宣言解除でホッとした途端、思わぬ大病、白血病に罹ってしまいました。

5月末の土曜日に明け方、突然発熱し、悪寒がするので、コロナではなさそうだが、3年前に患った前立腺炎の時に似ていたので、近所のかかりつけ医を受診し、血液検査をしてもらったところ、白血球数も血小板数も、赤血球数も減っていると、検査データを見られた先生から、慌てた電話が夕方かかってきました。

その時は、熱もなく、特段体調も悪くなかったので、何かの間違いだろうと、月曜朝に再検査するようにお願いしました。

再検査の結果も同様であったという知らせを受け、覚悟を決め、火曜日朝に入院、治療を受けることにしました。

第2話 主治医の迅速な診断と治療の開始でDIC状態を無事脱出

血液検査と骨髄検査の結果から、夕方には白血病であることが告げられ、しかも急性前骨髄球性白血病です。

私が小児科に入局し、受け持ったこの病名の患者さんが、入院後あっという間にDICを引き起こし、亡くなられたのを、病名を告げられた途端に鮮明に思い出しました。

主治医からの説明で、急性前骨髄球性白血病(M3)で、ビタミンA誘導体が奏功するタイプのものだろうという話を聞かされました。

早速、その日の夕方から、ベサノイドというオールトランスレチノイン酸(ビタミンA誘導体)を内服することになりました。この主治医の迅速な診断と治療の開始で、DIC状態を無事脱出できました。

服用開始後1週間ごろより効果が現れはじめ、DIC状態を徐々に脱し、2週後には、末梢血に幼若細胞が見当たらなくなり、血小板数も白血球数も増加しはじめました。骨髄細胞を用いたPCR検査の結果から、 t(15; 17)転座が検出されM3と確定されました。

ビタミンA内服で血液所見が改善

ビタミンA誘導体は、白血病細胞に対する分化誘導作用があること、 t(15; 17)転座が検出された細胞には,効果的で完全寛解が期待できるとのことでした。

連日4週間、朝昼晩で計8錠服用することになりました。

服用後3週間を過ぎた頃より、ベサノイドはビタミン剤の仲間とは言え、結構副作用が強く、胃部不快感と全身倦怠感が現れ、食欲も低下してきましたが、多少の副作用は我慢しなければと、必死にのみ続けました。

後半の1週間は自宅に戻り、服用を続けました。末梢血には幼若細胞がなくなり、血小板数、白血球数、赤血球数も正常化しました。血液所見だけでなく、これまで悪かった腎機能の指標であるクレアチニンレベルが低下しており、ビタミンAは腎臓にも効いたようです。肌もツルツルにしてきたので若返りの薬かと喜んでいたところ、家内から肌のツルツルは皮膚の老化のしるしと言われ、がっくり。

再発防止には、いくつかの抗がん剤が候補に挙げられましたが、私が高齢者であるだけでなく、心臓や腎臓に欠陥を持つことから、比較的副作用が少ないとされるヒ素剤が最も適しているとのことで、2週間後より、亜ヒ酸(商品名:トリセノックス)での強化療法(地固め療法)を勧められました。

第3話 ヒ素での地固め療法

ヒ素についてネットで調べてみると、国立がん研究センター中央病院 血液腫瘍科・造血幹細胞移植科黒澤彩子先生が書かれた、「再発急性前骨髄球性白血病の治療と予後」というタイトルの論文(抄録)が見つかりました。その中では、

「急性前骨髄球性白血病(M3)に対して、オールトランスレチノイン酸と抗がん剤治療を行うことにより、高い寛解率と長期生存が得られるようになりました (本邦のデータ で寛解率95%、4年全生存割合84%)。

再発後のM3に対しては2000年以降、亜ヒ酸が治療に用いられるようになり、再発後も80%程度の患者さんで再寛解が得られるようになりました。」 と記載されていました。

この論文では詳しいことは分からず、80歳以上の患者がどの程度含まれているのか判然としません。

1998年のN Engl J Med掲載のSoignet SLらの論文(抄録)、「急性前骨髄球性白血病における亜ヒ酸による治療後の完全寛解」では、調べた患者12人中,11 人で治療後に完全寛解し、副作用は比較的軽度で、発疹、めまい、疲労、そして筋骨格の痛みであった。

主治医の説明でも、このタイプの白血病は50〜60歳代で時にみられるようですが、80歳以上は極めて少ないそうで、先生ご自身も初めての体験だそうです。

亜ヒ酸が急性前骨髄球性白血病(M3)になぜ効くのか

亜ヒ酸の作用機序は全て明らかになっているわけではなさそうで、亜ヒ酸の低用量は再発したM3患者において完全寛解を誘導することができるという臨床経験に基づいて用いられているようです。その機序としては、カスパーゼの活性化によるアポトーシスの誘導と関連しているようです。

今から20年前の話になりますが、分化誘導に関する研究が盛んで、私たちも新生児低酸素性虚血性脳障害における神経細胞の保護目的で新生児・未熟児での神経細胞の分化誘導を研究テーマにしていました。カスパーゼが、神経軸索の刈り込みなどに関連するとのことで、研究していたことを懐かしく思い出しました。

どうやら、カロチノイドも、亜ヒ酸も、M3細胞の分化誘導が鍵のようです。

ヒ素で思い出すこと

ヒ素といえば、森永ヒ素ミルク中毒事件と和歌山のカレーライスへのヒ素混入事件が思い出されます。

森永ヒ素ミルク中毒事件は、1955年6月頃から主に西日本を中心として起きた、ヒ素の混入した粉ミルクを飲用した乳幼児に多数の死者・中毒患者が出た事件です。

当時の厚生省の発表では、ヒ素の摂取による中毒症状(神経障害、臓器障害など)が、1万人以上の乳児に起こり、死亡した児も100名以上に及んだとのことです。

私自身が小児科に入局した時には、関連のカルテが大切に保管されていたのをよく記憶していますが、私自身ヒ素患者さんを診察したことはありません。今もなお、その時の後障害に苦しめられている方がたくさんおられます。

第4話 いよいよ地固め療法開始へ

「亜ヒ酸は,毒でもあるが、薬でもある」と覚悟を決めて治療をお願いすることにしました。

CVポートの埋め込みで覚悟が

CVポートは、主に抗癌剤治療を実施する化学療法や長期間の高カロリー輸液の投与などに用いられているデバイスで、私は今回初めて知った優れものです。直径2~3cmの小型円盤状のタンクとカテーテルと呼ばれるチューブから出来ており、ポートの中心にはセプタムと呼ばれる圧縮されたシリコーンゴムがあり、そこに専用の針を刺し、薬を注入する仕組みになっています。

私の場合、右の鎖骨下静脈に埋め込んでいただきました。もうこれで薬液の血管外へのもれの心配がなく、1年以上でも繰り返し点滴静注できるそうです。使っていない時には、シャワーを浴びることもでき、驚きです。

亜ヒ酸(商品名:トリセノックス)の1回10mgの点滴静注

日本で用いられている標準的なプロトコールに基づいて治療を開始、週5日、5週間で計25回の亜ヒ酸(商品名:トリセノックス)の1回10mgの点滴静注投与が1クールということです。

薬の能書を見ると、そのトップには、真っ赤な文字の「警告」が20行にわたり書かれており、一つ間違うと死に直結する注意事項や副作用が小さな文字でぎっしりと2ページにわたり書き込まれています。

中でも、QT間隔の延長が要注意とのことで、投与前には毎回心電図でチェックを受けました。

最初の2週間は、ほぼ予定通り、治療が進められましたが、3週目ごろより、クレアチニンや肝機能のマーカー酵素の変化は見られませんでしたが、全身倦怠感と胃腸障害、食欲も低下し始めました。

主治医からは、心電図、血液検査で異常がないうちはプロトコール通りの治療を勧められましたが、多少の副作用が見られるぐらいでないと薬の効果も現れないだろうと私も辛抱していました。

次第に耐え難くなり、体調の変化を訴え、また、QT間隔も次第に延長し始め、閾値とされる500msecに近づく日もあったので、次第に投与間隔が開くようになりました。何とか、70%程度を消化し、一度目のクール、5週間の治療が終了しました。

第5話 第2クールの開始早々に

退院するも、連日の猛暑で体力回復ならず

盆明けから、3週間の自宅療養に移りました。連日35度を超す猛暑の中でした。妻が作ってくれた好物の食事を毎日食べられるようになったのですが、ビタミンA療法、亜ヒ酸療法の副作用か、暑さのせいか、もう一つ食欲も出ず、十分に体力が回復しないまま、第2回目のクールに臨むことになりました。

9月9日に再入院、早速3回目の骨髄穿刺を受けました。細胞学的には異常細胞は認められませんでした。PCR検査には1〜2週間の日を要するとのことでした。

第2クールの開始早々に

週4回x5週間の予定で、副作用のチェックをしながら、治療を進めることになりました。血液検査も、心電図も異常がなかったために、木曜、金曜の2日連続で投与を受けましたが、点滴終了直後には特段いつもと変わりはなかったのです。ところが、その夜から全身倦怠感、腹部不快感と手足の指先のしびれ感・知覚異常、テレビを観ていると左眼がチカチカし、すぐに疲れ、左耳にも痛みが現れ始め、土曜・日曜と日を追うごとに症状が強まっていきました。

日曜の夕方には、これまでに経験したことのないような倦怠感が襲ってきました。これは、てっきり亜ヒ酸の副作用に違いないと、明日予定の点滴治療を中止していただくように、主治医に朝一番に報告するように、担当の看護師さんにお願いしました。

翌日、主治医に、もう私の体力は限界で、亜ヒ酸療法には耐えられない旨、お伝えしました。

これまでから、私がこの治療にあまり積極的でないことはよくご存知でしたが、医師の立場からより完全な寛解を目指しておられることは私も十分に察しており、折り合いを見つけて治療を続けてきたのですが、今回の私の様子から、これ以上の治療継続は無理と判断していただきました。

治療終了の判断が出たときには、ヒ素の副作用に怯える緊張感から解放され、大粒の涙がどっと溢れ出てきました。

PCRで完全寛解の知らせが

早速、退院の日取りも9月18日(金)と決まりました。

手足の指先のしびれ感・知覚異常、左眼の羞明感、左耳の痛みはその後も変わりませんでした。左鎖骨下に埋め込まれていたポートも除去され、治療からの解放で全身倦怠感、腹部不快感は多少楽になった気がしていました。

退院前日の夜に、妻と娘の透子が、主治医から直接病状経過の説明を受けるためと退院準備に病室に来てくれました。私の顔を見るや否や、その顔なに?ヘルペスが出ている!と言いました。鏡で見ると確かに左の口角周囲から耳にかけて数個の発疹が出ていました。

間もなく、主治医が、検査データを携えて、良い知らせがありますと病室に来られました。ヒ素療法開始前に実施された2回目の骨髄のPCR検査結果ではまだ残存していましたが、今回のPCR検査では消失しており、「完全寛解です。」と告げられました。

家族はみんな喜んでくれましが、私は嬉しいというよりも、ホッとした気持ちでした。これで、大手を振って、退院できることになりました。

第6話 思わぬ災厄が待ち受けていた

18日の朝に、抗がん剤ヒ素療法から解放されて退院しました。猛暑はすでに峠を越えてはいましたが、まだ日中は30度以上の暑さが続いていました。

ヒ素の副作用とばかり思い込んでいた全身倦怠感、胃腸障害、味覚異常、食欲不振は、自宅に戻ってから日増しに強まり、ソファーに座っているのも辛くなり、ベッドに横たわる時間が長くなっていきました。

退院前日から、抗ヘルペスウイルス剤アメナリーフを処方していただき、服用していたのですが、左頭部から顔面にかけての疼痛、顔面の発疹は増え、腫れもひどくなり、退院4日目には38度以上になる発熱を認めるまでになりました。

退院後2週間を過ぎて、ようやくこれらの症状も軽減し始め、8キロ近く減少していた体重も1か月を過ぎて少しずつ戻り始めました。

入院中の全身倦怠感や食欲不振は、ヒ素のせいとばかり思い込んでいたのですが、どうやら、ヘルペスウイルスの影響であったように思えます。

ヒ素療法よりも、ヘルペスの方が遥かに強い症状ですが、ヘルペスにより私の身体の免疫力低下が実証され、程よくヒ素療法を終えることができたことは、神の思し召しと感謝しています。

第7話 体力が回復し、若返りました

今では、早足での散歩もできるようになり、住吉川まで行ってきました。筋肉は落ちましたが、体重が減ったおかげで、坂道が以前よりも楽に上れるようになりました。

M3型白血病細胞は、分化途上の異常細胞であることから、カロチノイドや亜ヒ酸による分化誘導、アポトシースが引き起こされやすいという特性があります。

アポトーシスとは、「細胞の自殺死」とも言われ、不要な細胞を間引き、大切な細胞だけを残す働きがあります。

カロチノイドと亜ヒ酸は、白血病細胞だけでなく、私の全身細胞をも分化誘導し、アポトシース作用を与え、私の古びた老化細胞をも除去してくれたようです。

腎機能は回復し、髪の毛や体毛に黒いものが増えた気がします。記憶力もアップしました。それまでなかなか暗唱できなかった般若心境の266文字の漢字が最近スラスラと言えるようになりました。

若返ったと、調子に乗り過ぎて、アクセルを踏みすぎると、必要な細胞のアポトーシスまで起こりかねません。要注意です。

高校時代の同級生からゴルフの誘いもありました。新型コロナに注意しながら、ぼちぼち活動を開始しようかと思っている昨今です。

最後に みなさんのお陰です

彼岸の一歩手前まで行っていた私ですが、現代医療のお陰で、また現世に戻ってくることができました。

的確で、素早い診断と治療を施して下さった医療スタッフの皆さんに心から感謝しています。妻からいつも指摘されているのですが、「上から目線の、嫌な元大学教授」風の物言いを、我慢して聞いていただいた主治医には本当にご迷惑をおかけしました。

挫けけそうになる私を、絶えず見守り、勇気付けてくれた妻や家族、新型コロナ流行で直にお会いできませんでしたがメールで励ましの便りをくれた友人・同僚の皆さん、ありがとうございました。

1日、1日を大切に、これからも書き続けたいと思っています。

皆様の今後益々のご健勝とご活躍を。

令和2年10月21日

中村 肇

149. インフルエンザワクチン接種を早めに受けよう 

兵庫県子育てネットワーク2020年12月号

新型コロナの流行で、季節性インフルエンザワクチンの接種が例年より早く、65歳以上の高齢者には10月1日より、上記以外の方は10月26日より接種できます。医療従事者、基礎疾患を有する方、妊婦、生後6ヶ月~小学校2年生は、できるだけ早めに接種されることをお勧めします。幼少児や高齢者に接する仕事の方も同様です。

インフルエンザは、インフルエンザウイルスに感染することによって起こる病気です。38℃以上の発熱、頭痛、関節痛、筋肉痛、全身倦怠感等の症状が比較的急速に現れるのが特徴です。併せて普通の風邪と同じように、のどの痛み、鼻汁、咳等の症状も見られます。何よりも今流行中の新型コロナと症状が似ているので要注意です。インフルエンザワクチンは、発病を必ずしも防ぐわけではありませんが、重症化を予防する効果があります。

接種に当たっては、あらかじめ医療機関にお電話され、予約してください。なお、料金は、お住いの地域で、医療機関により異なりますのでよくお確かめください。

2020-10-17

兵庫県子育てネットワーク2020年12月号

オードリー・タンさんと自立共生社会

台湾では、デジタル担当閣僚オードリー・タンの卓越した能力により、新型コロナ流行当初にデジタルを活用し、マスク在庫状況をはじめ感染状況の可視化で、流行を最小限に抑えたとの報道に驚かされた方は多いと思います。

彼女が中学生の時に女性へのトランスジェンダーであること以外、あまりよく知りませんでした。最近、偶々テレビを観ていたら、オードリー・タン女史が落合陽一氏との対談番組(10月3日放映NHK)に出演しておられ、彼女のひとつひとつの言動が、新型コロナの流行と自らの病で落ち込んでいた私を、大いに勇気付けてくれました。

ポストコロナ社会についてはいろんな人が語っていますが、テレワークとデジタル化というだけで、一体どんな社会が待ち受けているのか、よくイメージできずにいました。ところが、19歳で渡米して、アップル社においてSiri開発の立役者であった彼女には、この2020年を境にどのような社会が待ち受けているのか明確にイメージできているようです。

そのキーワードは、Diversity & inclusion(多様性を取り込んだ社会)とConviviality(自立共生社会)のようです。これらは決して新しい考えではありませんが、彼女にはデジタル空間の無限の可能性により、これらの実現への道筋がイメージできているようです。

彼女はミレニアル世代のトップランナーです。

ミレニアル世代とは、1980年から1995年の間に生まれた世代と定義されています。2020年に25歳から40歳を迎える世代です。この世代がこうして括られるのは、その成長がデジタルの台頭とともにあったためです。この生まれながらにして、デジタル化という激動の中で育った彼女だからこそ、新しい時代を先導するエネルギーがあるようように思えてなりません。

Conviviality(自立共生社会)とは

タン女史が語るConviviality(自立共生社会)とは、今日のような産業社会における人間性の喪失について述べているイヴァン・イリッチ著の「Convivialityのための道具」という1973年に出版された本に由来するもののようです。行き過ぎた産業主義社会が、人々を単なるサービスの消費者にしてしまったことが問題であると指摘し、自立共生な社会のあり方が述べられています。

本書が刊行されたのは1973年です。我が国においても、戦後の高度経済成長により貧富の格差が拡大した時期であり、インターン闘争・大学医局ボイコットに始まり、全国的に広がった大学紛争の時代です。まさに産業中心主義に世の中が大きくシフトしていく時代でした。この書をいまミレニアル世代が手にして読んでいるという巡りあわせが私には驚きです。

個々人の尊厳をベースにした真の自立共生社会は、ユートピアの世界であると、私の世代は大学紛争後ずっと思い続けていましたが、彼女が言うようにデジタル社会の到来でそれも決して実現不可能な課題ではなさそうな気もしてきます。

彼女曰く、デジタルは無限の資源だそうです。 

彼女が目指している「自立共生社会」は、一地域、一国だけでなく、地球全体での共生社会です。彼女がすでに取り組んで、実現しているのが台湾での選挙制度です。より民主的な選挙を行うためには、有権者一人1票ではなく、99枚のカードが与えられ、1票につき1枚、2票には4枚、3票には9枚と票の倍数のカードを必要とするそうです(Quadratic Voting、倍数投票)。また、4年に一度の選挙ではなく、デジタルを活用すれば毎日でも国民投票が可能だと言います。

いま、米国で行われている大統領選挙の報道を見ていると、何だか滑稽です!

民主主義国家と言いながら、所得格差が拡大しているのは、選挙が終われば、一部の特権階級に有利なように政府が動いているからでしょう。多くの国が採用している間接選挙制度の根底からの見直しが必要な時代になっているようです。

真の民意が、政府の施策に反映されるような社会になるのが楽しみです。選挙制度改革は自立共生社会実現への第一歩でしょう。

2020-10-14

参考論文

イヴァン イリイチ( Ivan Illich)著, 渡辺 京二, 渡辺 梨佐 訳:コンヴィヴィアリティのための道具 (ちくま学芸文庫) (日本語) 文庫 – 2015/10/7

安田智博:産業社会におけるコンヴィヴィアリティのための道具の条件とは何か。Core Ethics Vol. 15: 175-184, 2019

Radical Democracy ― 革命的な民主主義を実現するためのQuadratic Votingについて https://alis.to/AB2/articles/aoNXAZLjkY0q 参照。Quadratic Votingがなぜ民主主義をアップデートできるのか。現状の民主主義の問題を理解するために、少し歴史を振り返りながらQVの有用性について説明されている。

国連が取り組むSDGsと共生社会 へ

赤ちゃんとともに50年

私が小児科医となったのが1965年。当時の日本には、まだ、赤ちゃんを専門にみる新生児科医という職種はありませんでした。

1970年にパリ大学医学部の新生児研究センターに留学する機会を得、それまで日本で見たことのないような光景を目の当たりにしました。呼吸障害のある未熟児が、常時10人以上いろんなタイプの人工呼吸器で治療を受けており、人工呼吸器の作動する音が部屋中にこだましていました。ここでの医療は、何もかもが日本で見たこともないものばかりでした。

3年近い留学生活ののち、帰国した時の日本の医療は、留学前とあまり変わらず、欧米との違いが歴然としていました。当時の我が国の出生数は年間200万人を超え(現在の出生数の倍以上)、母子保健が大きな社会問題でした。

幸いにも、日本の高度経済成長のおかげで、次々と欧米から最新の医療機器が輸入されてきました。欧米から船便で送られてくる医学雑誌や留学生が持ち帰った医学文献を頼りに、新しい医療機器を使いこなし、あっという間に、その後の10年余りで欧米に追いつくことができました。

新生児医療が世間一般に知られるようになったきっかけは、19761月の鹿児島での五つ子と、9月の神戸での六つ子誕生です。鹿児島では全員生存し、元気に退院されましたが、神戸ではいずれも800gに満たない超低出生体重児で、元気に退院できたのは女児1名だけでした。この子の出生体重620gは、その後2年余り生存例の世界最小出生体重児でした。その後も元気に育ち、結婚され、元気な男児を出産しておられます。この出産の知らせは、新生児科医冥利に尽きるもので、私への修業証書でした。

新型コロナの流行前までは、月に何度か神戸大学や兵庫県立こども病院などの新生児センターに出向き、保育器内の赤ちゃんたちや若いドクターとの出会いを楽しみにしていました。1日も早く、再び立ち寄れる日がくるのを心待ちしています。

令和2年10月13日