第10回神戸大学ホームカミングデー シスメクスホール 2015.10.31.
大学病院の東隣にある広巌寺、通称楠寺の庭園に建立されていた「平井乃梅」の記念碑が、お寺の全面改修に伴って庭の片隅に無残の放置されているのを昨年6月に目撃された寺島俊雄教授が心を痛め、それを伝え聞いた神緑会メンバーが立ち上がり、本学の敷地に移設する計画が持ち上がった。
私自身は、平成22年7月の日本小児科学会兵庫県地方会の250回記念大会の講演の中で、日本小児科学会兵庫県地方会のルーツについて調べていたところ、長澤亘(ながさわわたる)先生が明治36年 (1903) 11月に兵庫県地方会を全国で4番目に設立されたこと、地方会の運営に平井毓太郎先生から多大な指導、支援を受けていたことを、長澤亘の門下生が編集した「八十八歳夢物語」の中で知った。
平井毓太郎と長澤亘の出会い 日本小児科学会兵庫県地方会の設立
兵庫県小児科地方会を立ち上げたものの、初期には会員も少なく、名士の後援なくしては永続できぬと考えた長澤が、明治37年2月の第二回地方会に京大教授の毓太郎に学術講演を頼んだのがきっかけである。以後毓太郎は退官まで約23年間、毎回この地方会に出席して講話、講師の斡旋などの尽力を惜しまなかった。京大定年退官後も、下山手通5丁目にあった長澤小児科病院の知新堂で開業医の為の神戸雑誌会を毎月一回催し、国内外の最新の文献を紹介し、その評判は大変高く、小児科以外の医師も多数出席していたとのことである。
平井は、昭和20年1月12日に満79歳で死去したが、その前月まで17年間継続して休むことがなかった。これらの講義は全くの無報酬で行われており、学術上の行為に報酬を受けるべきではないというのが毓太郎の頑固なまでのポリシーの一つであった。
「平井乃梅」建碑の趣旨並に祭詞
このような結びつきからその恩義を深く感じた長澤は、毓太郎を恩師として限りなく敬慕し、40年有余年の長きにわたって変わることなく、常に門下生としての誠と礼を尽くした。平井の死後5年目の命日にあたる昭和25年1月12日に「平井乃梅」を建碑し、その趣旨並に祭詞が、長澤の自伝に以下の通り記されている。
「故平井毓太郎先生は吾が日本小児科学会兵庫県地方会創立以来約30年、以て神戸雑誌講話会に17年合わせて47年の久しきに亘り御来神下され、吾が神戸地方の会員を御教訓御指導賜りたることは誠に感謝感謝に堪えざるところにして其御功績実に偉大なりと云う可し。今回、令嗣平井金三郎先生並に京大小児科教授服部峻治郎先生の御厚意により、恩師の御遺髪を御分与賜りたれば有志相計りこの碑を建立し之を碑内に納め祭り、記念として梅樹を植え、名づけて「平井乃梅」と云ふ。以て恩師の御懿徳(いとく)を偲び永く後世に伝えんとす。乞ふ希くば英霊来り享けよ。日本小児科学会兵庫県地方会 代表 長澤 亘」(八十八歳夢物語、84頁)
そこには、当日来会者として、是枝、伊坂、高木、大石、岡田、島田、舟木、湊川、平田、人見、福田、原口、長澤、吉馴、関、村瀬、尾崎、田川、山川、厚見、鈴木、高橋、長澤信一郎の名前も記されており、私が知っている大学関係者として、鈴木靕教授、平田美穂教授、伊坂正助教授らの名がみられる。
また、碑の裏面には「醫聖 故平井毓太郎先生御遺髪納置 昭和24年11月11日 日本小児科学会兵庫県地方会有志代表、日本小児科学会、兵庫県医師会名誉会員 長澤 亘」と記銘されている。
平井毓太郎は関西における小児科学の草分け
平井毓太郎は、慶応元年(1865)10月11日、三重県で出生し、明治22年(1889) に東京帝国大学医科卒業し、明治27年(1894)に京都府立医学校(現京都府立医科大学)教諭に着任した。ドイツ留学ののち、明治35年(1902) に京都帝国大学医科小児科初代教授に就任した。東京帝国大学ではベルツ博士に師事し、ベルツ博士の代診を命じられるほど信頼を置かれていた平井毓太郎が、京大教授に就任したのを知った恩師のベルツは、これで関西の小児科は安泰だと話したという。
「所謂脳膜炎」と平井毓太郎
平井毓太郎の学問上での最大の業績は、「授乳中の乳幼児に見られた脳膜炎様病症の原因は、母親が使う含鉛白粉による鉛中毒であることを発見」したことである。大正8〜13年の6年間に京大小児科に入院した1歳以下の児の総死亡492例中72例(14.6%)が所謂脳膜炎で死亡しており、その原因が不明なことから大いなる恐怖であった。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を欠かさなかった平井毓太郎は、当時すでに発表されていた文献的考察から鉛中毒説のヒントを得た。明治38年に、高州謙一郎は「所謂脳膜炎で塩基嗜好顆粒赤血球の出現」を報告したが、鉛中毒と結びつけることができなかった。平井毓太郎は、内科の本に書かれていた鉛中毒患者の他覚的症状である「血液中に塩基嗜好顆粒赤血球の出現」のほか、「亜黄疸」、「ヘマトポルフィリン尿」、「歯齦の鉛縁(ブライザウム)」などの鉛中毒の症状も所謂脳膜炎の乳児で見られたことから、「仮称所謂脳膜炎ハ慢性鉛中毒症ナリ」という論文を日本小児科学会雑誌に大正13年(1924) 発表し、乳児をもつ母親は含鉛白粉を使わないように警告を発し、その後の脳膜炎発症を食い止めることができた。さらに、平井毓太郎は、死亡患児の全身諸臓器、生体試料中の鉛濃度の定量を行い、自らの手で鉛中毒説を確固たるものにした。
「所謂脳膜炎」は、東大小児科弘田長博士により明治34年にはじめて記載されていた病名である。関東でも、明治27〜28年頃に多数観察されていたが、明治36年に勧業博覧会を機に白粉製造業者が鉛白粉の危険を宣伝した結果、一般に無鉛白粉が普及し、関東では見られなくなったことから、乳児の「所謂脳膜炎」と鉛中毒の因果関係を明らかにするに至らなかったようである。ところが、関東以外の地域では含鉛白粉が廉価であり、またなんの規制もなかったことから、その後20年間も使い続けられ、大きな被害をもたらした。
我が国の鉛中毒の研究の第一人者である大阪市立大学の堀口俊一名誉教授は、本学西尾久英教授らとの共著で、「「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡」を雑誌「労働科学」に連載しており、今日とは違い生体中の鉛含量の測定が極めて困難な中で、粉骨砕身の努力により極めて適切な結果を得ていたと絶賛されている。
定年退官後は神戸雑誌会と京都雑誌会を主宰
定年退官後の昭和4年 (1929) から、当初は自宅で京都の小児科医を集め、京都でも月に一度雑誌講話会を開催されていた。その模様については、平井毓太郎の孫にあたる平井和三氏が、「藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち」の書に詳しく書かれている。その中で、小児科医松田道雄氏の父親が平井毓太郎教授在任中に直接薫陶を受けていたが、世代のちがう松田道雄が退官後の毓太郎の雑誌会に自ら参加しており、その様子を「晩年の平井毓太郎先生」と題したエッセイにとどめている。
「第二の木曜日の夜の七時近くになると、わたしたちは医師会館へ急いだ。先生は、いつも、定刻の前に教室に着くように来られた。ポケットに歩度計を入れて、毎日二里歩くことを日課にされていた先生も、この日だけは電車に乗られた。先生の大きな皮かばんには、その夜に抄読される医学雑誌が掛け金もはずれるほど詰まっていて、重かったからである」と。
英独仏語に通じ、海外の医学雑誌の抄録を日々欠かさず、その成果を月に一度の京都と神戸の小児科医への講義に反映させようとした毓太郎の医学者としての姿勢には感服させられる。平井毓太郎の蔵書を集めた「平井文庫」は、終戦後各所を移転したが、現在は福井医科大学図書館に保管されているとのことである。
最後に
「平井乃梅」の記念碑を通じて、明治初期から中期にかけての関西における西洋医学のはじまり、とくに小児科学の発展の歴史をつくった平井毓太郎と、兵庫県での小児医学の発展の歴史をつくった長澤亘の二人の業績を知ることができた。明治人ふたりの医学の道における熱い開拓者魂をお伝えできていれば幸いである。
参考資料
- 寺島俊雄著. 平井毓太郎先生記念碑「平井乃梅」の今. 「神戸 まち角の解剖学」興文社(神戸)平成28年3月発刊(予定)
- 長和会編. 八十八歳夢物語 1953年12月発行 大石康男先生ご蔵書
- 平井和三編著. 藍より出でて藍より青し 平井毓太郎と門下生たち 2000年11月発行
- 堀口俊一、寺本恵子、西尾久英、林千代著. 「児科雑誌」に発表された仮称所謂脳膜炎(鉛毒性脳症)に関する研究の足跡(1)平井毓太郎による究明まで. 労働科学 84巻2号62−71頁, 2008. その後9回にわたり連載されている。
- 北村晋吾著. 平井毓太郎伝. 1997年3月発行. 著者は毓太郎の郷里である三重県で小児科医院を開業されている。
2015.10