私が、松尾保教授の後任として神戸大学医学部小児科学教室教授に就任したのは、1989年1月でした。爾来13年間、大学のスタッフ、多くの同門の先生、また全国の学会関連の先生方に支えられて、無事退官を迎えることができました。
就任当時のスタッフは、助教授が村上龍助君、講師が松尾雅文君と吉川徳茂君が,その後,助教授として松尾雅文君、吉川徳茂君、上谷良行君のお世話になりました。また,医局長には,松尾雅文君、上谷良行君,高田哲君,米谷昌彦君にお願いし,教室運営にご尽力を頂きました。
私が就任したときは,ちょうど分子生物学の研究成果が臨床医学に応用され始めたときでした。松尾雅文講師(現教授)がPCRを用いて,先天性疾患の中でも頻度の高い進行性筋ジストロフィー症の遺伝子診断を行い,次々と遺伝子異常の仕組みを明らかにし,あっという間にこの道の第一人者になりました。血液腫瘍の治療に,骨髄移植を導入したのもこの頃で,村上龍助助教授がリーダーとなり新しい移植チームを築いてくれました。講師の吉川徳茂君は小児腎臓病の研究で数々の業績を挙げており,我が国のこの分野における若きリーダーとして活躍していました。上谷良行君は新生児臨床医学のリーダーとして多くの業績を挙げてくれました。彼らをはじめ多くの教室関係者が,小児科学における先端医療の臨床,研究のそれぞれの分野で活躍していていることは,我々の大きな誇りです。
私が専門とする新生児医療では、松尾雅文講師のあとを受けて,上谷良行君,高田 哲君,常石秀市君,米谷昌彦君,横山直樹君が病棟主任として,臨床研究の指導をしてくれました。新生児学は,小児科学の中でも最も社会との接点の多い分野で,患者背景には社会経済的要因が大きく関わっています。我々が必死に救命した超未熟児が家庭にかえるや否や虐待をうけ死亡するという痛ましい光景に接することがありました。科学技術の進歩により、新生児医療は大きく発展し、1,000グラム未満の超低出生体重児でも半数以上が助かるようになった一方で、このような悲劇的な事態が引き起こされている現実を知るところとなりました。
教授就任当時から,我が国が近い将来に少子高齢化社会を迎えることはわかってはいましたが、世はまさにバブル絶頂期、繁栄を謳歌し、子どもの問題について今日のように顧みられることはありませんでした。こころを病む子どもたちは増え,小児科医志望者が少なく,我々小児科医にとって暗黒時代を迎えるところとなりました。早々に、稲垣由子女史、高岸由香女史を中心に、小児科外来に「子どものこころの問題」を扱う行動発達心理外来を開設し、親と子どものこころとからだの問題について診療できる体制を整えました。1995年1月17日の阪神淡路大震災では,被災地の中心にある大学小児科として,「子どものこころのケア」についての調査活動,家族支援活動を行い,その記録を刊行,国内・外に発信しました。この悲劇的な事態のなかで,我々は自らの医療のあり方を見直す良い機会となりました。
二十世紀は,医療でも,研究でも,我々は絶えず眼にできる「もの」中心の科学至上主義の時代でしたが,多くの「もの」を手中にした我々は今,「人間の幸せとはなにか」を問い直す時代となりました。本年4月から,これからの時代のニーズに応えるべく附属病院に「親と子の心療部」が開設されることになったことは時宜を得たものと喜んでいます。新生児集中治療室もリニューアルし,出生から成育までの一貫した治療が展開され,子どもたちの幸せが追及されることを期待しています。
最後に,本業績集刊行に当たり,多大なご努力を頂いた米谷昌彦助教授をはじめとする教室員各位,資料収集にご尽力頂いた浜渕嘉子さん,三里真由美さん,高寺良子さん,柄谷るいさん,またその編纂に当たり多大なご協力を賜ったサンプラネット岸さんに心より感謝申し上げます。
平成15年3月 記念業績集序文から